自分の人生をコントロールしようとしないこと|あえて「馬鹿」になって生きる効用について

ちょっと思ったことがあるので、ブログで文章にしておこうと思います。

私は約一週間前に、一気に四冊の本をAmazonで出版し、今日、新しい本の入稿を終えました。

おかげさまで、出版済みの四冊の著作はそれなりの販売数を記録しまして、この調子なら今月の販売利益は1万円前後になる見通しです(お買い上げいただいた方は、誠にありがとうございました)。

ただ、校正作業の過程で、Amazonにサンプルを何度も印刷して送ってもらっていたので、その印刷代と送料で、ちょうど1万円くらいかかっています。

それゆえ、今のところはプラマイゼロといったところです。

また、昨日と今日は四冊とも一切売れておらず、どうも「身内に売れるフェイズ」は終了した模様です。

以前は、ランキングの数字だけ見て、「第三者にも売れているっぽいぞ」と思っていたのですが、「ランキング」ではなく「売れた実数」を見ることができるレポート画面の存在を知り、そちらで確認したところ、どうやら「身内」以外には売れていないようです。

ここから、「見ず知らずの第三者」にも売れるようになっていくのか、それとも「身内だけのお祭り」で終わるのかは、私にはまだわかりません。

それで、「いったいどれくらい売れたら、専業で食っていけるだろうか?」というのを、試算してみました。

今後、著作がもっと増えていって、10冊とか20冊とかくらいストックされるようになり、それらが毎日0.5~1冊ずつくらい売れてくれると、私はそれで食っていけそうです。

実は、今のところ私は執筆以外に何も仕事をしておらず、貯金を切り崩しながら生活しています。

で、このまま「無収入状態」が続くと、今の生活を継続できるのは、あと1年くらいになると思います。

今後、もしも著作の売上が増えていけば、「1年」というタイムリミットは延びるかもしれませんが、どうなるかはわかりません。

もしも1年後にお金が無くなって生活できなくなった場合、私は「生きるための仕事(ライスワーク)」をするようになるかもしれないです。

そうなると、私のような「社会不適合者」は、息が詰まってしまうでしょう。

そして、その結果として、今のような「純度」を保って文章を書くことができなくなる可能性が高いです。

そういったこともあり、「なんとか執筆活動を専業にしてやっていけないか?」と考えていました。

まあ、ほんの5分くらいの間ですが。

結局、5分だけ考えた時点で、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいて、考えることをやめました。

なぜなら、「呼吸が浅くなっている」ということは、「自分は今、間違ったことをしている」というサインだからです。

そもそも、1年後に私がどうなっているかなんて、今の私にわかりっこありません。

今こうして週刊ペースで本を書いていることだって、約一ヶ月半前にこのブログを開設した時は、まるで想像もしていませんでした。

ブログを開設した当時は、探求の果てに「最終的な理解」に到達したばかりの頃で、「とにかく誰かにこれを伝えたい!」という一心で文章を書いていました。

そして、何十万文字も書き続ける中で、自然と読者も増えてきて、自分の中で考えもまとまっていったため、「じゃあ、本でも出してみるか」と、これまた自然と思ったのです。

私は何も「作為」なんてしていませんでした。

ブログ開設よりさらに前、まだ私が探求の途上にあった時には、自分が将来「最終的な理解」に到達してブログを開設することなんて想像もしなかったし、一ヶ月半前にブログを開設した時には、今みたいに週刊ペースで本を書いている未来なんて一切考えていなかったのです。

つまり、私は自分の未来を主体的には一切選んでいないわけです。

前もって「こっちを目指して行こう」というようなことはまるで考えておらず、ただ、その時に内側から自然と溢れてくる「必然性」に身を任せていたら、結果的に「わけのわからないところ」に辿り着いていたのです。

でも、人生というのは、そもそも「そういうもの」ではないでしょうか?

先のことなんて誰にもわからないし、それを完璧にコントロールすることなんて不可能なのです。

でも、私たちはついつい人生の主導権を握ろうとします。

たとえば、「あと何年でこの資格を取って、そのあと何年の実務経験を積んでいって、そこからこんなキャリアを築くんだ!」とかいった形で、人は人生設計をします。

でも、その通りに行く人がどれだけいるでしょう?

というか、仮に思った通りになったとして、それでその人は満足できるのでしょうか?

ただ、はっきりしていることは、もしも自分の人生をコントロールしようとすると、そこから外れる行為は全て「失敗」になってしまうということです。

その時その人は、「成功」と「失敗」の間で引き裂かれ、絶えず自力で「綱渡り」を演じ続けねばならなくなります。

そうして当人は、絶えず物事の流れをコントロールしようとし、「プロセス」を軽視して、「結果」だけを見るようになっていくでしょう。

しかし、「生」というのは一つの「巨大な流れ=プロセス」です。

それをコントロールすることは誰にもできませんし、私たちには「行き先」を予測することさえできません。

私たちはいつも「気がついたら、ここに居た」という状態で生きています。

時に「思いがけない人」と出会い、時に「運命的な言葉」に感化され、私たちは「かつて想像もしなかった場所」に、いつの間にか辿り着いているのです。

それゆえ、「今の自分の視点」から理解できるものを目指すと、だいたいその人は「失敗」します。

社会的には「成功」するかもしれませんが、「存在」のレベルでは「失敗」してしまうのです。

実際、「今の自分に見えている範囲」なんて、たかが知れています。

その「狭い世界」の中で物事を人為的にコントロールすることは、人生という「巨大な流れ」に掉さすような「余計な計らい」です。

実際のところ、棹をさして「流れの勢い」を加速させる必要さえありません。

なぜなら、「流れる速さ」そのものにも、「然るべき必然性」があるからです。

私たちには人生をコントロールする力はありません。

それはいつも私たちを流し去っていきます。

私たちにはそれをせき止めることはできませんし、逆に加速させることもできません。

「起こるべきこと」は起こり、「起こる必要のないこと」は起こりません。

いつも言っていることですが、全てはなるようになって、ならないようにはならないのです。

なので、私は将来のことを心配するのは、5分でやめました。

どのみち、考えるだけ無駄なことです。

私には「一か月後の自分がどれだけ成長しているか」さえ未知数なのです。

その時の私は、きっと「今の私には聞こえない音」を聞き、「今の私には見えないもの」を見ているでしょう。

そして、「新しい視点」に立脚して、「新しい試み」をしているはずです。

その中で、「出会うべき人」とは出会うはずだし、「起こるべきこと」は起こるはずです。

その結果として、たとえどんな場所に連れて行かれたとしても、それは「天の配剤」というものですから、私個人がとやかく言うことではないのです。


ということで、今後も「その場の思いつき」だけで生きていこうと思っています。

未来がどうなるかは私にもわかりませんし、考えるだけ無駄なので棚に上げておきます。

とにかく、今は「自伝」の出版準備と、「断章集・弾三弾」の校正作業を進めること、それから次作の「道元解説本」の構想を練ることが「私の仕事」です。

それより先のことは、「今の仕事」が全部終わってから考えます。

なんだか「頭の悪い生き方」みたいですが、賢ければいいというものでもありません。

むしろ、「あまりに賢過ぎて一歩も踏み出せない」という人は、現代には多い印象があります。

なので、みなさん、もっと「馬鹿」になりましょう。

どうせ「先のこと」なんてわからないんです。

だったら、「今、目の前にある仕事」に熱中しても、何も不都合はありません。

まるで子どもが「遊び」に夢中になる時のように、「目の前のこと」に没頭すれば、「過去」も「未来」も消え去ります。

その時、その人は「自由」です。

そうして、もっと「自由」を呼吸しましょう。

そのためには、ただ「自分で自分の心を束縛すること」をやめればいいだけです。

確かに「安全な道」を選べば、将来をいくらか予測できるかもしれません。

でも、それって「楽しい」ですか?

しかも、その予測は、けっこう外れます。

どんなに「安全」に思える道でも、実は脆かったりするものなのです。

私は「安全」はゴミ箱にさっさと放り込んで、「自由」を選ぶことにしました。

「結果」がどうなろうと私の知ったことではありません。

どうせ「結果」をコントロールすることなんて、ちっぽけな人の身に過ぎない私には、最初から不可能なのですから。

「安全」よりも「自由」を選べば、そこには「快の感覚」があります。

なぜなら、「自由」を選ぶことによって、その人の呼吸は深まるからです。

そしてそれこそが、「生きる」ということの意味なのです。

「息をすること」こそが「生きること」です。

だからもっと深く息をしましょう。

あなたの心と身体は、それを求めているはずです。

あなたがもっと生きることを、あなたの命は求めています。

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