「内なる父」と「内なる母」が一つになる時、人は本当の意味で「大人」になる

この世には「父性原理」と「母性原理」というものがあります。

これら二つの原理は「陰」と「陽」とに分かれており、「父性原理」は「陽」をつかさどり、「母性原理」は「陰」を司っています。

そして、私たち自身の精神も、これら「陰陽」両方の要素によって練り上げられているのです。

「父性原理」は、「正義」や「公平性」を司り、私たちに「従うべきルール」を課します。

そして、「父なるもの」は私たちが「ルール」をきちんと守っている限りはこれを評価し、私たちの存在を認めてくれるのです。

反対に、「母性原理」は、「受容」と「慈愛」を司り、私たちのことをありのままに受け入れます。

「母なるもの」はそこに何の条件も付けず「愛」を与え、「父」のように裁くことなくゆるすのです。

そして、これら二つの原理がどれくらいのバランスでその人の中に存在しているかによって、当人のパーソナリティは決定されます。

また、二つの原理をどれだけ内面化しているかによって、その人の「精神的な成熟度」を計ることもできるのです。


少し具体的な話をしましょう。

私たちは時に、「この人にどうしても認められたい」と感じることがあります。

憧れの人や目標とする人がいて、その人から「一人前の人間」として認めてもらいたいと感じることがあるのです。

こういった場合、「この人に認めてもらいたい」と思っている、その当の「この人」が、その人にとっての「父なるもの」です。

その人は、「憧れの相手=父」の考えや価値観を学び、それを「自分のもの」にしようとします。

「自分も『父』と同じように考え、同じように世界を見るようになりたい」と思うのです。

この場合、たとえ「憧れの対象」が肉体的には女性であっても、「父性原理」の観点から言うと、それは「父」です。

そして、憧れている当人は、何とかして「父」から気に入られようとして、自分を律し始めます。

つまり、「父」が語る「ルール」に従って生きることで、「父」から褒めてもらおうとするのです。

そこには「『父』のような人間に成長したい」という健全な欲求がある半面、「父の言うこと」を絶対視する頑なさも存在しています。

そして、もしも「父の言うこと」から外れると、「自分はもう『父』に認めてもらえなくなるのではないか?」という恐怖に当人は囚われることになります。

それゆえ、場合によっては、当人は「父が課すルール」の奴隷となり、盲目的にそれに従うようになっていき、「父のルール」に逆らう他人を攻撃するようにもなっていくのです。


それに対して、「母」を追い求める人は、「無条件に自分を受け入れてくれる誰か」を探し続けます。

「父」は「子」が「ルール」を守った場合にだけその存在を認めるわけですが、そういった「裁き」の厳しさに耐えられなくなった人たちは、「母」による「赦し」を求めるのです。

それゆえ、こうした人たちは「自分を丸ごと受け入れてくれる人」を求め、あちらこちらを訪ね歩きます。

自分の弱さや醜さ、人間的な脆さを理解し、共感してくれる人を探すのです。

しかし、「他人の全てを丸ごと受け入れられる人間」は、この世のどこにも存在しません。

そのような「完璧な関係性」は、胎児と母親の間ぐらいでしか成り立たないからです。

母親は「へその緒」を通じて胎児に必要なものを常に供給し続けており、胎児はまさに母親の「命」そのものです。

そこには完全な「愛の関係」が成り立っており、お互いがお互いを百パーセント受け入れることが可能なのです。

しかし、一度でも「へその緒」が断ち切られてしまうと、もうかつての「一体感」は戻って来ません。

「母」と「子」はもはや他人となり、完全には分かり合うことができず、お互いにすれ違っていくのです。

ですが、「母なるもの」を求める人は、それでも「完全な母」という幻影を追い続けます。

それゆえ、「自分のことを決して否定しない人」と出会うと、その人に深く依存していってしまいます。

相手はただ優柔不断で「言うべきこと」を言えないだけかもしれないのに、「この人は自分のことを愛してくれている」と感じて、ひたすら相手に寄りかかっていくのです。

こういった人は、絶えず相手を所有しようとし、頻繁にメールやチャットで相手とつながろうとします。

そうやって「つながり」を確認しないと、当人は不安で仕方ないのです。

しかし、そんな風に寄りかかり続けていると、相手もそのうち耐えられなくなり、関係は破綻してしまいます。

そして、当人は「また自分は裏切られた」と感じ、深く傷ついて徐々に心を閉ざしていくのです。


理解すべき重要なポイントは、「父性原理」と「母性原理」の体現者を、自分の外側に求めると必ずどこかで「失敗」するということです。

まず、「父なるもの」を外側に求める限り、その人はどこかの段階で「窮屈さ」を感じ始めます。

なぜなら、「外側の父」が作るルールは、しょせん「他人が作ったもの」だからです。

それゆえ、その「他人のルール」に盲目的に従っていると、いつかは内側の「自分自身」が息苦しさを感じて反発してきます。

「もうこれ以上は耐えられない!『父』の元から抜け出そう!」と、その人の心は声を発します。

でも、もしも当人が「父」からの承認を求め続けていると、「父」の元を去ることは恐ろしくてできません。

「『父』から認めてもらえなくなったら、自分は無価値になってしまう」と思い、「父からの承認」にしがみつくのです。

それゆえ、「窮屈さ」や「息苦しさ」を感じつつも、「父」の元から巣立てないでいる人は、世の中に大勢います。

しかし、もしも勇気を出して「父」から離れていくならば、その人は徐々に「自分の呼吸」を取り戻します。

そこには「何をしてもいい自由」があると同時に、「自分がすることに対して負うべき責任」があります。

「自由」と「責任」はセットであり、それらは今までずっと「父」が代わりに管理していたものでした。

それゆえ、「父」の元を去った人は、「父」の代わりに自分自身で「責任」を取り、「自由」というものが持つ「重さ」を受け止めなければならないのです。

ただ、そうして「自由の重み」を受け止め続けることによって、その人の背骨は徐々にたくましく育っていきます。

彼/彼女は「自分の足」で立ち、自分自身の手でもって「自分だけのルール」を作り始めます。

そして、「こうしろと言われたのだ」と言って他人に責任を負わせることなく、「他でもない自分はこうすると決めたのだ」と言って、「自分のルール」を宣言するのです。

これが、「父性原理の内面化」です。

その時、それまで外側に在った「父性原理」が当人の中に取り込まれます。

その人は、自分自身で「ルール」を作り、それによって自分を律するようになっていきます。

それゆえ、彼/彼女の行動には、その人なりの「正義」と「公平性」が表現されるようになり、それでいて、当人は自分の選択の責任を、外側の誰にも負わせないのです。

このようにして「父性原理」は内面化し、当人の精神は成熟します。

逆に、自分の外側に「父なるもの」を求め、それに寄りかかり続ける限り、その人の精神にはどこか「未熟さ」が残ることになってしまいます。

「自分の人生の責任」を「父」に負わせ、当人はどこか他人事のように生きるようになってしまうのです。


それに対して、「母性原理の内面化」は、「自分自身を愛する」という形を取ります。

つまり、それまで自分の外側に求めていた「自分を百パーセント受け入れてくれる誰か」を、自分の内側に求めるようになっていくのです。

当人はある時に覚悟を決めて、自分の弱さや醜さと直面します。

それらが発する「腐臭」に耐えながら、自分の中の「地獄」が静かになるまで、ひたすらそれを見つめ続けるのです。

すると、どこかの段階で内側には「静寂」が訪れます。

自分の中にあった弱さや醜さが「浄化」され、その人は自分自身を受け入れます。

「全てこのままでいい」

そのように、何の力みもなく思えるようになった時、当人の中で「母性原理」が内面化します。

一度でも「母性原理」が内面化すると、その人はもう自己嫌悪や罪悪感から「自由」です。

もはや当人は自分を責めることはなく、「自分は自分のままでいいのだ」と思えるようになるのです。

そこに在るのは「絶対的な肯定感」であり、外側の条件に依存しない「無根拠な幸福感」です。

このような「無根拠な幸福感」を胸に生きられるようになることを持って、「母性原理の内面化」は完了します。


しかし、たとえ内面化させることができたとしても、「父性原理」だけだったり、「母性原理」だけだったりすると、上手くバランスが取れません。

なぜなら、これらは「陰」と「陽」の関係にあるものだからです。

両者はお互いに支え合う関係にあり、どちらか一つだけでは不完全です。

実際、「父性原理」だけでは自分や他人を裁くことをやめられませんし、「母性原理」だけだと困難を前にしても挫けず進んでいく勇気が出ません。

自分を裁くばかりでは苦しくなるし、自分を肯定して終わりでは「今のままの自分」では乗り越えられない壁を超えられなくなります。

だから、最終的には「父性原理」と「母性原理」の両方を内面化する必要があります。

自分自身を律しながらも、自分のことをありのままに愛する。

それができて初めて、その人は「大人」になります。

それは社会一般で言うところの「大人のイメージ」とは全く違います。

世間では、「父なるもの」が押し付けてくる「社会のルール」に盲目的に従って、無感覚なロボットになることをもって、「大人になること」だと言っています。

逆に、「父なるもの」に反逆して「自分の足」で立とうとすることは、「未熟な子ども」のやることだと思われているのです。

ですが、本当の意味で「大人」になるためには、「世間の常識」に逆行する必要があります。

「父なるものの庇護」から抜け出して、自分の内側に「父」を創り出す必要があるのです。

そして、そのような「反逆者」である自分のことをありのままに受け入れられた時、「母性原理」がその人の中で内面化します。

当人は社会からは「はみ出し者」としてわらわれるかもしれませんが、その人自身は自分のことを嗤ったりせず尊重します。

むしろ彼/彼女は、自分のことを嘲笑あざわらったりせず、心のままに笑い飛ばします。

自分がそれまで苛まれていた苦悩の「ちっぽけさ」に気づき、その人は一人で呵々大笑かかたいしょうするのです。


今の世の中では「無感覚なロボット」になるのは簡単なことです。

逆に、「血の通った人間」として成熟することはとても難しいものです。

でも、私は「ロボット」になることだけは拒否します。

たとえ社会からはみ出したとしても、私は「自分の言葉」を語り続けます。

なぜなら、それが私の「祈り」の表現であり、私の心と身体が求めていることだからです。

私の中の「内なる父」と、私の中の「内なる母」が、手を取り合って私に「語れ」と言うのです。

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