瞑想とは「頑張ってするもの」ではなく、「楽しんだ結果、訪れるもの」である

ここ数日、久々に坐禅にハマっています。

私は坐禅をする時はいつも、脚は結跏趺坐けっかふざを組んで、手は法界定印ほっかいじょういんの印を結びます。

これは、伝統的な坐禅のスタイルですが、結跏趺坐は股関節の柔軟性がないとなかなかキツイ組み方かもしれません。

でも、メリットもあります。

それは、結跏趺坐と法界定印を組むことで、四肢が「呼吸のサーキット」になることです。

そもそも結跏趺坐というのは両脚を使って∞の形を作りますし、法界定印は両腕で〇を作ります。

こうすると、息が脚と腕の中をグルグルと循環するようになるため、ただ坐っているだけで徐々に身体がポカポカしてきます。

また、坐っている時に身体の内側を点検して、「詰まり」や「痛み」や「強張り」がある場所が見つかったら、そこに呼吸を通していきます。

これらは、いわゆる「氣」が通らなくなっている場所なので、呼吸を通すことで「氣」を循環させてやる必要があるわけです。

それで、その詰まっていたりする場所で呼吸をするようにイメージしてやると、徐々にそこが柔らかくなって緩んできます。

最終的には、リラックスして詰まりが取れ、その部分は勝手にズルズルと動き始めます。

それまで強張って詰まっていたことで、「正しいポジション」ではなくなっていたのでしょう。

息を通してリラックスすると、私が意図的に調整しなくても、勝手に身体が動いて姿勢が調うようになっていきます。

そして、姿勢が調うとますます呼吸が深くなり、呼吸が深くなることで心も静かになっていくわけです。

これがもう気持ちよくて、最近は時間が空くとせっせと坐って楽しんでいます。

私もようやく「禅の妙味」というのがわかってきたのかもしれません。

このように、瞑想というのは本来「頑張ってやるもの」ではなかったのだと思います。

「古の賢者たち」はあくまで「快い」から坐っていただけであって、「悟りたい」だとか、「霊的な能力が欲しい」だとかは考えていなかったのではないかという気がします。

実際、もしも呼吸が深まるならば、「瞑想」は自動的に起こり始めます。

瞑想というのは、「何らかの行為」ではなくて、呼吸が深まった時に自然と現れる「一つの状態」です。

息が深くなることで心は凪ぎ、事実をありのままに見通すようになっていきます。

その時、当人は別に「瞑想的であろう」とは考えていません。

ただ、深く息をしているだけです。

もっと言えば、「深く息をしよう」とさえ意識していません。

呼吸は自然と起こり、瞑想もまた自然と起こります。

だからこそ、それは日常の中にも広がっていき、生活の全てに浸透していくのです。

そういうわけで、今の私は「瞑想というのは頑張ってするものではない」と思っています。

来月からの瞑想会でも、「頑張ってする瞑想」ではなく、「楽しむ瞑想」を共有していきたいです。

参加を検討されている方は、ぜひぜひ一緒に楽しみましょう。

別に結跏趺坐が組めなくても瞑想を楽しむことはできますから、初心者の方も遠慮なくご参加くださいね。

なお、詳細についてはこちらから。

瞑想会のご案内

ではでは。

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