私は最近、「天に従う」という表現をよく使います。
「もしも天に身を委ねれば、『起こるべきこと』が起こるだろう」とも言います。
それゆえ、人によっては、私の言うことをいわゆる「スピリチュアル系の話」として受け取るかもしれません。
しかし、これについては、はっきりと否定しておきたいと思います。
そもそも私は「スピリチュアル系の話」があまり好きではありません。
それは、「スピリチュアル」について語る人の多くが、他人を騙すことしか考えていないからです。
「スピリチュアル」を謳う人々は、いつも決まってこう言います。
「大いなる存在に明け渡しなさい。そうすれば潜在意識がつながって、あなたに幸運が舞い込むでしょう」
そして、この言葉を聞いた人々は、「だったら、信じてみようかな」と思ったりします。
しかし、ここには「天」を信じている人が一人もいません。
「スピリチュアル」を標榜する人は、その言葉に引き寄せられてくる人たちを食い物にして私腹を肥やすことしか考えておらず、引き寄せられる人たち自身も、名誉欲や金銭欲、さらには承認欲求に取り憑かれています。
そうしてお互いに、自分の中の「空虚な心」を、「スピリチュアル」という藁くずでもって埋めようとしているのです。
どちらも「この世の価値」によって縛られており、お互いに「エゴ」を満たすことしか考えていません。
そして、「幸運」という報酬を得るために、人々は「スピリチュアル」を自称する人たちに金品を渡します。
そうすることで「世俗的な成功」という「この世の価値」や、「死後の幸福」という「あの世の価値」が買えると思うからです。
しかしそれは、「天」を意図的にコントロールしようとすることであり、「自分は神と対等に取引ができる存在だ」という傲慢な思い上がりの表れです。
私たちには「天」や「神」と「取引」をする力はありません。
私たちにできることは、「明け渡すこと」だけです。
「エゴ」を溶かし、「天が導くところならどこへでも行く」と覚悟を決めることだけしか、私たちにはできないのです。
しかし、もしもそうして「覚悟」を決めて明け渡すと、「起こるべきこと」が起き始めます。
「この世の全て」がその人に「悟り」をもたらすようになり、「自力」ではとても達成不可能だったようなことが実現可能になるのです。
実際、私は「天」に「エゴ」を明け渡してから、約十日で四冊の本を書き、完全書下ろしの新刊本も四日で500ページ書き切りました。
でも、それは私が「自力」で書いたものではないんです。
事実、書いている間、私はまるで何かに乗り移られたかのようでした。
自分で考えなくても言葉が次々に溢れてきて、私はただ、それらを必死で書き留めていっただけだったのです。
たしかに、「大いなる存在」に明け渡すと、「他力」が流れ込んできます。
経験的に言って、それは確かです。
でも、その結末については、どうなるか保証されていません。
「スピリチュアル」にかかわる人々は、「最後には必ずあなたは幸福になれる」と言いますが、実際にはそうとも限らないのです。
事実、古代ギリシャのソクラテスは、「鬼神(ダイモン)」の声に従った結果、死刑判決を受けています。
ナザレのイエスが「神」の声に従った結果として磔刑になったことを知らない人もいないでしょう。
もしも「大いなるもの」に明け渡すなら、その人は「他力」によって生かされるようになり、「自力」では到底不可能だったことを成し遂げますが、だからといって、その結末が「社会的な成功」とは限らないのです。
しかし、「スピリチュアル」の人々は、そういう「本当のこと」を教えません。
なぜなら、「真実」を伝えてしまうと、商売あがったりだからです。
「大いなるもの」に従った結果、死刑になるかもしれないのです。
誰がそんなものを求めてお金を出したりするものでしょうか?
しかし、「真実」をこそ求める人たちは、いつの時代も一定数存在しています。
だからこそ、「真実」は決して握りつぶされることなく、脈々と受け継がれてきたのです。
そもそも、「大いなる存在に従うなら、その人は最後に幸せになれる」という言い方自体が間違っています。
なぜなら、順序が逆だからです。
人は、「エゴ」を手放していくにしたがって「自由」になっていきます。
そこには「深い呼吸」が伴っており、当人は「快の感覚」の中で生き始めるのです。
だから、その人は自然と「自分は既に幸福だ」と感じるようになります。
日々、「深い呼吸」と「快の感覚」の中で生きることで、その人の心と身体は深く満たされるようになるのです。
だからこそ、その人は何の惜しげもなく「明け渡し」ができるようになります。
既にあまりにも「豊か」だから、「天」に向かって「もう何でも持っていっていい」と、無条件に言うことができるのです。
これこそが「真の明け渡し」です。
それは決して「明け渡すから何かくれ」という「取引」ではなく、「深い幸福感」がもたらす「必然的な帰結」なのです。
そして、その時にその人の中で「宿命」が動き始めます。
当人は「大きな流れ」の中に巻き込まれるようになっていき、自分の人生に対するコントロール感覚を失っていきます。
場合によっては、その結果として投獄されるかもしれませんし、処刑された人々も歴史上はたくさんいました。
でも、当人はなおも「幸福」の中で深く呼吸していたはずです。
実際、死刑が執行された時、ソクラテスは泣きじゃくる弟子たちを慰めながら逝きました。
毒人参の杯を仰いで、少しずつ身体が動かなくなっていく中で、彼は最後まで弟子たちのために語り続けて死んだのです。
これが、「天に従う者」の在り方です。
それは「安っぽいスピリチュアル」が説く「幸福」とは、似ても似つかないものです。
もちろん、「スピリチュアル」を語る人の中にも、「本物」はいるでしょう。
でも、多くの場合、「スピリチュアル」は「人々の強欲」をテコにして金銭を集めるための装置になっており、そこには「エゴ」に囚われた人々しか存在していないのです。
私は、そういう人々にこそ、瞑想が必要だと思っています。
でもそれは、「悟り」という報酬を得るためではありません。
そうではなくて、自分自身を騙し、他人を騙し続ける「内側の地獄」を自覚して、これを「自力」で乗り越えるためです。
ここさえ「自力」で越えられたなら、遅かれ早かれ「他力」は当人の中に流れ込み始めます。
そうして、その人は「幸福な生」を生きた結果として「死刑」になるかもしれませんが、それはあくまでも「大いなる存在」が決めることであり、その人が文句を言う筋合いのあることではないのです。
ナザレのイエスは磔になって死ぬ間際、「なぜ自分を見捨てたのですか?」と「神」に問うたと伝わっていますが、私はこれを信じません。
なぜなら彼は、全ての結末を受け入れたまま、深く呼吸し続けていたはずだからです。
自分自身を「自由」にすること。
それが「天に従う」ということの意味です。
その「深い呼吸」の中で、本人は自分の「天命」を知ります。
たとえそれが「いばらの道」であろうとも、「いばらの棘」は、もはやその人の足を傷つけることができないでしょう。
なぜなら、彼は既に「自分自身の幸福」を飲み干し、全てを「天」に明け渡したからです。

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