執筆の進捗報告です。
今朝は、「呼吸と瞑想の本(仮称)」の第七章を書いていました。
ここは完全書下ろしの部分で、内容としてもなかなかヘビーだったのですが、なんとか最後まで書き切ったので、一歩前進です。
ちなみに、第七章の内容は「感情との向き合い方」です。
私が提唱する呼吸法を実践すると、その人は身体の中にある「ブロック」が破壊されていきます。
「ブロック」というのは、当人の心と身体を束縛する「筋肉の鎧」であり、これがその人自身を不自由にしているわけです。
だからこそ、呼吸法の実践によって「ブロック」を破壊し、「自由」を目指していくわけなのですが、困ったことに、この「ブロック」には「過去の感情」が蓄積されて閉じ込められています。
なお、具体的な「ブロック」と感情の関連は、以下の図に示す通りです。

このように、肩に「ブロック」がある人は怒りを無意識に抑圧しており、お腹に「ブロック」がある人は、悲しみと直面することを避けています。
逆から言うと、もしも「ブロック」が取り除かれた場合、奥に封じ込められていた感情が噴き出してきて、当人は一時的に不安定になってしまうのです。
これは「呼吸法あるある」なのですが、もしも実践が「うまくいくと」、その人はどこかの段階で「生きづらさ」を感じるようになっていきます。
たとえば、前まで問題なかったところで引っ掛かるようになり、気にならなかったことが気にかかるようになっていきます。
しかしこれは、当人の中で「大きな認識の変化」が起こりつつある前兆です。
それまでは、身体を固め、感情を抑圧することで何とか保っていた「安定」が、「ブロック」が破壊されて本来の「生きる力」が芽生え始めたことで、部分的に崩れかけているのです。
これはつまり、「病的な安定」を破壊して、「健全な不安定」に移行しているフェイズと言えるでしょう。
この段階において、当人の主観では「前よりかえって生きづらくなった」と感じるのですが、実際には前に進んでいます。
なぜなら、当人はそれまで感じられなかったことを感じられるようになり、一度も考えたことのなかったことを考えられるようになっているからです。
しかし、そういった人というのは、社会の中になかなか「居場所」を見つけることができません。
そもそも、今の私たちの社会では、「健全な大人になる」というのは「無感覚なロボットになる」ということとほとんど同義です。
誰もが自分の感情を押し殺し、身体を硬直させてはどうかこうか生きています。
しかし、それは「本来の生物の姿」ではありません。
人は「怒る力」を抑圧することで、「求めるものへ手を伸ばす攻撃性(アグレッション)」を失います。
そして、「愛すること」を恐れては、「ハート」を凍てつかせて無感覚な世界へ閉じこもり、「言いたいこと」をグッと我慢して飲み込んでは、顎と喉とを締め付けるのです。
それゆえ、「生きる力」を取り戻すということは、実のところ、「社会に対する個人的な反逆」だったりします。
とはいえ、当人には別に「社会をどうにかしよう」という意図はありません。
むしろ、社会のほうが、そういう人のことを放っておかないのです。
「社会的なシステム」というものは、いつの時代も変わりません。
それは、人々を画一化して横並びにし、「盲目的に服従する人間」を好みます。
そうした「鋳型」にはめられた人々は、日々無感覚になっていき、だんだんと「機械」に似ていくことになるのです。
そんな状況に対して、「そんなのはまっぴらごめんだ!」という自己主張の声を上げることこそが、実践です。
かつて「システム」に奪われた「自分の命」を奪還すること。
それこそが、実践者にとっての悲願なのです。
しかし、その過程で当人は、かつて社会の言いなりになる過程で差し出した「魂」を取り返す闘いをしなければなりません。
そして、それこそが、長年抑圧してきた感情と、とことん向かい合うことなのです。
ということで、今日もせっせと「感情との向き合い方」を書きました。
私自身が過去に怒りや恐れや悲しみと向き合った時のことを思い出し、「そう言えば、あの時はこういう風にして乗り越えたんだったな」と、当時の気持ちを思い返しながら書きました。
これがいつか誰かの役に立ったら嬉しいです。
ということで、今朝の進捗報告でした。

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