「自由」を生きるということ|誰もが「自身の光明」を表現している

最近、ぽつぽつと質問のメールが届くようになりました、そのうち、現時点で3つのQ&A記事がブログ上で公開されています。

【Q&A】忙しい生活の中で、どうやって瞑想的に暮らしたらいいのか?

【Q&A】実践中に恐怖を感じた場合、どうしたらよいのか?

【Q&A】「PNSE(継続的非記号体験)」についての個人的な見解

私はこれまでにも、ダンスや合気道の教室を開いていたことがありますが、その時も時々メールで質問を受けることがありました。

特に瞑想について聞かれることがたまにあって、私はそれにとくとくと答えていたものです。

しかし、当時はまだよく瞑想についてわかっていませんでした。

ただ、誰かの受け売りで「こうすればいいのだ!」と自信満々に言っていたところがあります。

聞いていた相手はそれに気づかなかったかもしれませんが、私の中には、はっきりとした理解のようなものはありませんでした。

ですが、私はさもよく知っているかのように返答をし、相手から「すごいですね!」と言われて得意になっていたのです。

今にして思えば、相手の方に申し訳ないことをしたと思います。

とにかく、当時の私は虚栄心を満たすことに必死になっていたのです。

その後、真理の探求を無事に終えて、こうしてブログを開設することになりました。

ありがたいことに、定期的に訪れる読者にも恵まれ、質問のメールまで届くようになりました。

そして、私はかつての虚栄心にまみれた心を入れ替えて、誠心誠意、質問相手に返答しようと思ったのです。

しかし、そうして私が質問の返答を書いていると、なんだかだんだん苦しくなってきてしまいました。

それは、私が「相手を救うこと」に執着してしまっていたからです。

「自分が相手をちゃんと導いてあげないといけない」
「この人の助けにならないといけない」

そんな風に、私は無意識に思い込んでしまっていたようです。

たぶん私は、「今の自分はもう過去の自分とは違うのだ」と思いたかったのでしょう。

「今の自分なら、きっと多くの人を救うことができる」という考えがあったように思います。

しかし、実際に質問のメールが来てみると、思わず「どう答えてあげたらいいのだろう…」と絶句してしまうような質問もやってきました。

たとえば、私自身が全く知らないことについて質問されたりですとか、私が一度も経験したことがない事柄について聞かれたりすることもあったわけです。

そういう時、私は無意識に力が入っていました。

なぜなら、「自分がこの人を救わないといけないのだ!」と私は思いこんでいたからです。

しかし、質問の回答を書いていく中で、「それは傲慢なんじゃないか?」と思うようになりました。

実際、私にわかることなんて、たかが知れています。

それに、たとえ私がどんなに頑張ったところで、質問者の代わりに私が実践できるわけでもありません。

結局、私の回答を頼りにしつつ、日々の実践を続けていくのは、質問者自身に他ならないのです。

それを、メールでの回答の一つや二つで「救える」と思っていた私は、やはり傲慢だったと思います。

たとえそれが「善意」であったとしても、「何が何でも救いたい」というのは執着以外の何物でもありません。

そして、そんな使命感に駆られて書かれた回答のメールは、きっと深刻過ぎて言葉が重くなってしまうと思います。

そのことに気づいて、私は改めて「自分をまず自由にしてあげよう」と思いました。

そして、少し時間を取ってのんびりし、自分の内側の「救いたい」という気持ちと向き合いました。

それはある意味で、「相手の人生に影響を与えたい」という「エゴ」の声だったのかもしれません。

胸のあたりに、何とも言えない焦燥感を感じながら、私はそのままジッとしていました。

どれくらいの間そうしていたでしょうか。

しばらくすると胸のあたりにあったモヤモヤがなくなって、懐かしく穏やかな感覚がやってきました。

焦燥感はどこかに消えていってしまい、私はやっと深く息をすることができたのです。

最終的に私は、「相手を救おう」と考えるのではなく、「とことん向き合おう」と考えることにしました。

私が相手の疑問に答えられるかどうかはわかりません。

実際、相手に「正しい道」を示してあげられることばかりでもないでしょう。

ですが、それでも「向き合うこと」はできると思いました。

相手の苦悩に耳を傾けて、その課題を理解しようと心を砕き、「今できること」を一緒になって考えていく。

私にできることは、結局のところそれだけですし、また、別にそれでいいのではないかと思ったのです。

私はいつも言っていますが、「読者の伴走者」でありたいと思っています。

読者には「追従者」になってもらいたくなくて、私としては「上に立つ」なんてまっぴらごめんなんです。

だから、あくまでも読者と同じ目線で一緒に考えたいと思っています。

そもそも、このブログの目指す方向性は、教師が教壇の上から一方的に教える「学校」ではなく、それぞれに悩みや課題を抱える仲間が集まって学び合う「サンガ」です。

だとしたら、私一人が頑張って「読者を救わなければ」などと考えるのは、間違ったことだったと言えるでしょう。

それに、私は確かに「探求の旅」を終えましたが、だからといって「全ての道」を体験したわけではありません。

私の知らない道もたくさんありますし、私と違う状況で実践をしている人たちもいます。

そういった人たちは、私が証明できなかったことを、代わりに証明してくれる仲間です。

私が歩かなかった道を、代わりに歩く仲間なのです。

私は別に、「たった一つの正しい道」を教えたいと思いません。

私にわかるのは、「私自身が歩いた道」だけです。

もしそれが誰かの参考になるのなら、こんなに嬉しいことはありません。

ですが、私以外の誰もが「自分の道」を歩いています。

誰もその人に代わって歩くことはできません。

だからこそ私は、そういった「一人一人の歩く道」を尊重したいと思うのです。


これからも、いろいろな人から質問のメールが来るかもしれません。

ですが、その中で、一人一人の道を知っていきたいと思います。

「私の道」を一方的に押し付けるのではなく、「対等な仲間」として向き合いたいです。

なので、もしもあなたが疑問に思っていることを抱えているなら、それを私にも共有させてください。

私に明確な答えを出せるかはわかりませんが、一緒に考えていきたいと思います。

なお、質問のメールは、下記のお問い合わせフォームからお願いします。

お問い合わせフォーム

私は「指導者」になろうとは思いません。

ここはあくまで「サンガ」であり、私は「仲間の一人」です。

なので、私自身もこれから成長していきたいと思っています。

「悟った後に成長なんてあるの?」と思う人もいるでしょう。

しかし、「悟る」ということは、「本当の自由とは何か」を理解することです。

言い換えれば、「自分を縛っているのはいつだって自分自身なのだ」と知ることとも言えます。

それゆえ、たとえこのことを理解しても、時には内側に束縛が芽生えることはあります。

たとえば、さっき私が「救わなければならない」と思い込んだように、人はすぐに何かを理想化して握りしめ、自分自身を束縛し始めるのです。

「悟った後の人生」というのは、おそらく「自由を体現し続けること」なのではないかと思います。

覚者と言えど、時には再び何かを握りしめることもあるでしょう。

そうしたら、その度にそれに気づいて手放していくのです。

そしてそれこそが、覚者にとっての成長であり、「自由」を体現することなのではないかと思います。

私はこれからも、「自由」であり続けます。

言い換えれば、私は「私自身」であり続けます。

それは、私にしかできない「悟りの表現」です。

いつかは、誰もが「自身の悟り」を表現する日が来ると思います。

ある人は悟ることで踊り始めるかもしれませんし、別のある人は、悟ることで歌い出すかもしれません。

絵を描き始める人もいるかもしれませんし、またある人は、ただ淡々と機織りをし続けるかもしれません。


かつて、織工のカビールは、悟って「光明」を得た後も機織りの仕事を続けていたそうです。

国王さえも彼の弟子となったのに、彼は機織りをやめませんでした。

そして、「機織りをもうやめたらどうか」と言われると、彼はこう答えたそうです。

それは大切なことではないのです。
私はただ、未来の人たちに覚えていてほしいと思うのです。
織工でも光明を得ることはできるのだ、と。
光明は機織りの邪魔になりません。
むしろ、機織りが彼の祈りとなるのです。

これが、カビールにとっての「表現」でした

そして、誰もが日々、「自分の光明」を表現しています。

それは「特別な表現」でなくていいのです。

もしもその人の心が一瞬でも「自由」を感じられたなら、その時に「光明」は内側から輝き出します。

そしてそれはきっと、「その人だけの表現」になります。

他人がそれを認めるかどうかは関係ありません。

なぜなら、「その人の自由」それ自体に、かけがえのない価値があるからです。

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