いつになったら「悟った」と判断していいのか?探求の過程で陥りがちなピット・フォール五選

前回の記事で、「覚者というのは独善的なのか?」ということについて論じました。

覚者は「独善的な人間」なのか?「歪められた自己認知」と「徹底した自己観察」を対比する論考

覚者は誰か他人から「悟り」を承認してもらうわけではなく、自分自身で「悟った」と気づきます。

それゆえ、周囲の人からすると、「その『悟り』というのは主観的な思い込みなのではないか?」という疑念が生じるわけです。

確かに、「悟り」を客観的に証明する方法はありません。

なぜなら、人は他人の内側をのぞき込むことができないからです。

つまり、たとえ覚者であっても、「自分の内側ではこういうことが起こっています」と言って、他人にわかる形でそれを提示することが不可能なわけです。

それに対して、覚者は探求の過程において、「主観性」を徹底的に突き詰めていきます。

言い換えると、自分の中に浮かぶ思考や感情について「自分自身からそれらはどう見えているか」を観察し続けるのです。

そうした観察をずっと積み重ねていくと、当人は徐々に自分の思考や感情を、あたかも自分の手足を肉眼で見るかのように、客観的に把握することができるようになっていきます。

そこからさらに探求を進めると、そういった思考や感情の親玉だった「自我」さえも、客体化して分析できるようになるのです。

ここまでくると、当人は自分の都合で「自己認知」を歪めることが無くなっていきます。

それまでは、「自我」が「私は思いやりのある優しい人間だ」と言っていると、当人は自分の中に湧き上がる「残虐な思考」や「他人への憎悪」などを認めることができませんでした。

なぜなら、それらの思考や感情が存在することを認めると、自分の中にあるセルフイメージが傷つくからです。

それゆえ、「自我」によって支配されている人は、「自分に都合の悪い事実」は認知しないで無意識に抑圧してしまいます。

そのため、当人の「自己認知」は歪むことになり、結果的に「現実の認識」も歪なものとなってしまうわけです。

覚者が現実をありのままに理解する能力が高いのは、実のところ、彼/彼女が「主観性」を突き詰めているからです。

覚者は探求の過程において、自分の内側をどこまでも深く掘っていき、思考や感情、さらには「自我」までも客体化し、それらを徹底的に観察し尽くしています。

だからこそ、「目の前の現実」を見る時にも、そういった「内側のあれやこれや」の影響を受けて認識が歪むことがないのです。

◎今回の記事のテーマについて

ということで、前置きが長くなってしまいましたが、今回のテーマの話に入っていきます。

前回の記事で説明したのは、あくまでも「悟った後の覚者」のことでした。

なので、「悟る前の探求者」に関しては、必ずしも全てが当てはまるわけではありません。

実際、「独善的な考え」に支配されている探求者というのは多いものです。

そういった探求者は、まだ探求の途中であるにもかかわらず、「自分は既に『真理』を悟った!自分は選ばれた『特別な人間』なのだ!」と言って、平然と他人を見下す言動を取ります。

私にも経験があるのでわかります。

そういう時には、「自分」のことさえもまだよく理解できていないのに、「他人」のことまで理解できているような気分になってしまうものです。

そうして、他人に対して「あいつらは何もわかっていない!」と考えて、「自分は他人よりもっと優れている!」と思うのです。

ちなみに、当時の私の「失敗談」については、前に一つ記事を書いたことがあるので、興味のある人は読んでみてください。

【筆者の失敗談】探求で出会う「よくある罠」|「霊的な覚醒」は悟りに必要なのか?

ともあれ、探求の途中で「既に自分は悟った!」と考えることは「よくあること」です。

基本的に、探求におけるターニング・ポイントにおいて、そういった「勘違い」は発生しやすい傾向があると思っています。

ですので、今回の記事では、後から来る人が過去の私と同じ過ちを犯さなくて済むように、「悟った」と思い込みがちなポイントをお伝えしようと思います。

では、いきましょう。

◎【ポイント1】開花した「霊的能力」に振り回されてしまう

まず一番の定番は、何らかの「霊的能力」が覚醒した時だと思います。

たとえば、私の場合は呼吸法や瞑想法の実践によって、自他の身体に流れる「氣の流れ」を感知できるようになりました。

人々がどこに注意を集中しているのか感覚的に察知できるようになり、心身の偏りやこわばりも見て取ることができるようになったのです。

また、私は経験ありませんが、人によっては予知やテレパシーなどが可能になることもあるかもしれません。

もっと行くと、「宙に浮く」とか「水の上を歩く」とかいったことができるようになる人も、絶対いないとは限らないと思います。

いずれにせよ、こういった「霊的能力」が開花すると、当人はその能力に飲まれてしまいがちです。

つまり、「自分は特別な能力を持った『選ばれた人間』なのだ」と考えてしまうわけですね。

しかし、そのように考えることによって、「自我(エゴ)」は肥大化していき、ますます当人を深く束縛するようになっていきます。

場合によっては、「世の中の人間はこの自分の凄さがわかっていない。人々に自分のことを認めさせねば」と当人は考え始めるかもしれません。

しかし、探求の本来の目的は、「自身の束縛を破壊して、苦しみのない自由な境地に至ること」です。

にもかかわらず、「世の中の人々に自分のことを認めさせねばならない」と考えてしまうと、むしろ束縛が増えてしまいます。

その時、当人は「自分を認めさせること」に深く執着してしまっており、「探求の本筋」から外れ、「わき道」に逸れてしまっているのです。

なので、もしも技法の実践などによって「霊的能力」が覚醒することがあっても、決してそれに引っ張られないことが重要です。

つまり、いつも以上に自己観察を徹底するのです。

たとえば、「霊的能力」が開花したことで、「自我」が「自分は凄い!他の人間とは違う『特別な人間』だ!」と言い始めたら、その「自我の声」を落ち着いて観察することが大事になります。

決して「その声」と自己同一化してはいけません。

あたかも自分以外の他人が言っているかのように、「自我の声」を離れて観察するようにしてください。

つまり、「『自我』が『自分は特別な存在だ』と言っている」とだけ認識して、そこに飛び込んでいかないようにする自制心が重要なのです。

もちろん、「自分は特別な存在だ!」という思考と同調することは、たいへん「気持ちの良いもの」です。

そうすることによって、きっと「自我(エゴ)」は喜びに打ち震えるでしょう。

ですが、それによって、当人の探求の旅は完全にストップしてしまいます。

場合によっては、前より後退するかもしれません。

当人は「自分は優越者だ」という観念によって自分自身を束縛し始め、よりいっそう不自由になっていくことでしょう。

これが、探求で最もありがちなピット・フォール(落とし穴)の一つです。

とにかく、何が起こっても自分で自分を落ち着いて観察すること。

それが「わき道」に逸れないための鉄則となります。

それを憶えておいてください。

◎【ポイント2】多くの探求者が経験する「よし!やったぞ!現象」

次に気を付けるべきポイントは、たぶん「霊的能力」が開花するよりも前に遭遇する人が多いのではないかと思います。

それは、「無思考の最初の一瞥(いちべつ)」を体験することです。

たとえば、「集中する瞑想」を実践していると、当人の中の思考や感情が徐々に沈静化していきます。

そして、ある段階でそれらは完全になくなって、「空っぽの状態」に到達するのです。

初めてこの状態に到達すると、当人はビックリすることがあります。

そこには、いつもだったら存在している思考や感情が一つもなく、当人はとてもクリアに世界を見ることができます。

私自身は初めてそれを体験した時、「今までの人生はいったい何だったんだ?」と思いました。

頭の周りにあった重ったるい感覚がなくなり、視界が鮮明になったのをよく覚えています。

そして同時に、「自分は今までずっと頭の周りに重い思考の雲をまとわせて、視界を曇らせたまま生きてきたのだ」と気づいたのです。

しかし、そのような「無思考の状態」は一瞬で終わってしまいました。

なぜなら、すぐに「自我」が「あ、すごい!今、思考がない!」と言ってしまったからです。

これは、私が過去に参考にしていた瞑想の教本で、「よし!やったぞ!現象」と呼ばれていました。

初心のうちは、瞑想の実践によって「無思考」が実現すると、ついつい「やった!」と思って嬉しくなってしまうものです。

そして、そのような心の揺れが「自我」によって表現され、「自分はついにやったぞ!」という思考を生み出し、結果的に「静寂」を壊してしまうのです。

このような「よし!やったぞ!現象」を避けるためには、瞑想を「無意識化」することが大事です。

【第10.5回】「瞑想」の第二段階《実践編》|「無意識の力」を伸ばす「集中しない瞑想」

なぜなら、瞑想を意識的に努力しておこなっていると、どうしても「無思考」が訪れた時に、心の中でガッツポーズを取りたくなってしまうからです。

なので、「自我」がガッツポーズを取ることで「無思考」を壊さなくするためには、そもそも「自我」任せで瞑想をするのをやめる必要があります。

代わりに、「無意識」に瞑想を任せていって、「何の努力もせずに勝手に無思考が実現する状態」へと徐々に持っていく必要があるわけです。

「無思考の状態」は、その後の実践の基盤ともなる大事なものなので、ぜひとも定着させたいものです。

しかし、「自我」にそれを任せていると、いつまでも「よし!やったぞ!現象」から抜け出せなくなってしまうのです。

まあ、それはともかく、今はこれがどんなふうに探求のピット・フォールとなるかを考えましょう。

先ほども書きましたように、初めて「無思考の一瞥」を体験すると、けっこうな衝撃を受けます。

頭の周りの重さがなくなり、視界がクリアになるからです。

しかし、それはたぶん2~3秒くらいしか続かないのではないかと思います。

さっきも書いた「よし!やったぞ!現象」が起こるからですね。

ですが、当人は時にこの状態を体験したことで、舞い上がってしまうことがあります。

つまり、「きっと今体験したのが『真理』なのだ!」と思い込んでしまうわけなのです。

そして、「自分は『真理』を一度味わった。もう自分は他の人間とは違う!」と当人は考えるようになっていくことがあります。

あとのルートは、「霊的能力」が覚醒した場合と同じです。

「わき道」に逸れるポイントはたくさんあるのですが、「逸れ方」自体はだいたいどれも同じです。

つまりは、「自我」の言うことを真に受けてしまって、冷静な自己観察ができなくなるということです。

これが二つ目のポイントになります。

◎【ポイント3】「無思考」が定着した時に感じる虚しさと深い無意味感

次に、三つ目のポイントに移りましょう。

三つ目のポイントは、「無思考」が日常的にも定着してきて、努力なくそこに留まれるようになった段階で起こりがちです。

この段階まで来ると、当人は「無思考」を特に珍しいものとも思わなくなっています。

それゆえ、「自我」もそれを特別視して、「よし!やったぞ!」とは特に言いません。

当人はさして苦労することもなく、「無思考の状態」に留まることができます。

「だったら何も問題ないんじゃないの?」と思うかもしれませんが、当の本人は不満を感じていることがあります。

なぜなら、「無思考の状態」の中に留まっていても、別に面白くもなんともないからです。

もちろん、「無思考の状態」を初めて体験した時は、そこに新鮮さを感じたかもしれません。

しかし、それも日常的なものになってしまうと、当人は飽きて退屈してきます。

日々内側に起こる思考や感情を淡々と観察し続け、思考や感情が消えたら「沈黙」の中にただ留まる。

こう書くと、「まるで聖者のような生活だ」と思うかもしれませんけれど、当人の主観では面白くも何ともありません。

実際、当人は心の中で、「自分はこれまで、こんな状態に至るために努力してきたのか?」と思っていたりします。

「無思考」を無努力で実現できるようにはなったわけですが、当人からすると「だからどうしたんだ?」と感じてしまうわけです。

こういった探求者の認識は、「ドライ・ナレッジ(渇いた知識)」と呼ばれています。

そこには全く「潤い」のようなものはなく、当人が苦労して到達した認識は、ただただ無味乾燥で味気ないものです。

それゆえ、ここまで辿り着いた探求者は、どれだけ「無思考」に留まっていても、ちっとも自分が満たされる感じがしてきません。

むしろ、「こんなことを続けていて何か意味があるのか?」と感じてしまいます。

そして、ある時にとうとうこう思います。

「ひょっとしたら、これが『悟り』なのかもしれない。だとしたら、もう探求するのは終わりにしよう」

こうして、瞑想の実践を当人はやめてしまい、元の生活に戻ろうとします。

ですが、その探求者の中にはあいかわらず「ドライ・ナレッジ」が存在しており、そこからくる「渇き」の感覚に当人は苦しみます。

そもそも、「真理を探求せずに生きていくことでは満足できない」と思ったからこそ、当人は探求の道に入ったのです。

ですから、途中で探求をやめて元の生活に戻っても、それによって「渇き」は消えません。

つまり、探求を続けても、探求をやめても、どちらにしても当人は自身の「渇き」によって苦しむことになってしまうのです。

このポイントで心得ておくべきことは、「無思考を維持できるようになること」はまだ探求における「ゴール」ではないと知っておくことです。

これについては、「情報」として知っておくだけでも役に立ちます。

実際、もしも「無思考」にそのまま留まり続けると、遅かれ早かれ当人は「無根拠な至福感(サマーディ)」を感じ始めることになるでしょう。

「サマーディ」が起こることは、「無思考」の中に留まっていれば、もはや時間の問題です。

ただそのまま「無思考」を保って待っていることで、やがて「穏やかな解放感(サマーディ)」は現れてきます。

そして、ここまでくると、当人はもう「無思考の状態」を無味乾燥で味気ないものとは感じないでしょう。

なぜなら、「無思考の状態」に留まることによって、「穏やかな解放感」を持続的に味わうことができるようになるからです。

こうして、「ドライ・ナレッジ」は洗い流され、そこに潤いのある「感覚的な体験」が訪れます。

そして、当人は「探求はまだ終わっていなかったのだ」と理解するのです。

そこまで行ければ、このポイントにおけるピット・フォールは回避することができるでしょう。

◎【ポイント4】「サマーディ」を先に体験すると、「自我」が暴走する

次のピット・フォールは、上記の「穏やかな解放感(サマーディ)」が訪れるようになったタイミングで発生します。

先ほどの例では、まず先に「無思考の状態」が基盤として存在していて、後から「サマーディ」が訪れたのですが、探求者によっては、「サマーディ」のほうを先に体験する場合があり、これが問題となるのです。

そもそも、「無思考の状態」が先に身に着いている人の場合、既に「社会的な欲求」が涸渇しているものです。

実際、瞑想の実践によって、自己観察を徹底している人というのは、往々にして、社会的な成功を追い求めたり、金銭や名声を得ようとして走り続けることを「虚しいこと」だと感じています。

要するに、「自我(エゴ)」が「幸せになるためにもっと多くのものを手に入れろ」と言ってきても、「そんなことは別に大事じゃない」と、当人は既にわかっているわけです。

だからこそ、「サマーディ」がもたらす「無根拠な幸福感」の価値を理解することもできます。

つまり、当人は「自分が本当に欲しかったのは、社会的な成功や金銭などではなく、『これ』だったのだ」と、すぐに確信することができるのです。

しかし、もしそのような精神的な下地がない状態で「サマーディ」を体験すると、当人の「自我」が暴走してしまうことがあります。

なにせ当人は、何のコストも払うことなく「無根拠に気分がいい状態」になれるわけです。

そうなると、「このまま気分良く社会を上まで登りつめてやろう」と当人が考えてしまう可能性があります。

また、人によっては、「サマーディ」を一種の神秘体験のように考えて、「自分は特別な体験をした人間だ」と考え始めるかもしれません。

これは、一番最初に提示した「霊的能力」が開花した場合と、展開としては同じパターンです。

結果的に、当人は自分のことを「選ばれた人間」だと考え始め、「自我(エゴ)」を肥大化させていきます。

そして、そのようにして「自我」が強化されることによって、ますます自身の束縛は強くなり、自由は遠のいてしまうのです。

◎【ポイント5】「最終的な悟り」の一歩手前で当人の中に生じる「疑念」

以上、主要な四つのピット・フォールを説明してきました。

他にもピット・フォールはたくさんありますが、「自分は既に悟った」という「勘違い」にかかわるものは、今回書いたものでだいたい網羅できているのではないかと思います。

そして、ここから最後のピット・フォールについて話します。

それは、「無思考」に努力なく留まることができるようになって、「サマーディ(至福感)」も理解できるようになった後に、待ち構えています。

といっても、たぶんここまで到達している人は、だいたいの場合、この地点を越えていけるのではないかと思います。

そもそも、「最終的な悟り」というのは意図して目指すことができません。

それは、「無思考の状態」と「無根拠なサマーディ」の中に留まり続けることで、ある時、結果的に起こります。

そういう意味で、「悟り」は人為的にコントロールすることができません。

「無思考」が完全に定着し、「サマーディ」に留まることが自然なものとなったら、後はひたすらそのまま待つだけです。

そこから先は、それ以上できることは何もありません。

本当に悟ることができるかどうかは、「神のみぞ知る」です。

しかし、当人はその「最終的な悟り」が起こる前の段階で、「もう探求は終わったのではないか?」と思うことがあります。

なぜなら、「もうこれ以上主体的にできることは何もない」ということが、当人にもなんとなくわかっているからです。

それゆえ、「できることは全てやった。だとしたら、ひょっとしてここが『ゴール』なんじゃないだろうか?」と思うわけです。

しかし、「最終的な悟り」が起こるまでは、まだ当人の中に微妙な「分離感」が残っているはずです。

それは、自分が何かによって束縛されている感覚であり、「自分」と「自分でないもの」との間で引き裂かれているような感覚です。

この「分離感」は、「最終的な悟り」である、「世界は実在しない」という理解が訪れた時に、ようやく解消されます。

その時当人は、「自分の中に世界が在る」と感じます。

それまでは、「世界というものが自分の外側に在って、その中を自分という『個人』が動き回っている」と、当人は感じていました。

しかし、この感覚が、どこかの段階で逆転してしまうのです。

つまり、「世界が在るから自分が存在する」のではなく、「自分が存在するからこそ、世界は存在できる」のだと、当人は不意に気づくのです。

この時、自分をずっと縛っていたものは「世界という観念」だったのだと、当人は理解することになります。

言い換えると、「世界を自分の思うとおりに変えたい」という願望が、自分自身を束縛していたのだと理解するのです。

とはいえ、このことを論理的に説明し始めると、とんでもなく長い話になってしまうので、今はあえて省略します。

詳しくお知りになりたい方は、下記リンクの記事を読んでみてください。

【最終回】「世界の実在性」が崩壊する時|「世界」という最後の束縛からの自由について

ともあれ、探求の最終局面では、当人にできることは何もなくなります。

ただ「静寂」と「至福感」の中に留まったまま、淡々と生活し続ける以外に、特にやることはありません。

しかし、だからといってまだ悟ったわけではありません。

「最終的な悟り」はまだ訪れておらず、当人の中には微妙な「分離感」がいまだに残存しているのです。

こういう時に、「ひょっとして自分にはまだやっていないことがあるのではないか?」と考えて、道に迷ってしまう場合もあるかもしれません。

実際のところ、あとはただ待てばいいだけなのですが、人間というのは、なかなか「ただ待つだけ」ということに納得できないものなのです。

その結果、「無思考」や「サマーディ」から彷徨い出して、「わき道」に逸れていってしまうことも、あり得ないことではありません。

なので、もし既に「静寂」と「至福」に留まることが、呼吸をするくらい自然なものになっているのであれば、迷いは捨てて、そのまま待ち続けてください。

そうすれば、「最終的な悟り」が訪れるのは、時間の問題であると私は思います。

◎終わりに

以上、今回は探求における五つの主要なピット・フォールについて書きました。

このように、探求における途中の段階で「自分は既に悟った」と思い込んでしまうと、「最終的な悟り」まで到達することは非常に難しくなってしまいます。

今回の記事を読まれた方は、「どういう場面でどういう落とし穴が待ち構えているか」ということについて、ある程度は具体的な「情報」が得られたのではないかと思います。

ぜひ、それらの「情報」を自分自身の探求に活かしてみてください。

ではでは。

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