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「心を無にする」とはどういうことか?ヨーガや仏教で重視される「ニローダ」についての私見

ヨーガや仏教では「ニローダ」ということの重要性が説かれています。

ちなみに、「ニローダ」は「心のはたらきの止滅」と訳されることもありますが、原義としては「統制」や「コントロール」といった意味の言葉のようです。

今回は、この「ニローダ」について、私なりの考えを書いてみたいと思います。

「心の止滅」や「心の制御」を目指して瞑想の実践をされている方は、ぜひ参考にしてみてください。

瞑想修行が「集中力の養成」から始る理由

一般的に、瞑想修行というと「心を無にするためのもの」と思われがちなところがあります。

そのため、「ニローダが重要」と言われると、「心を殺さないといけないのでは?」と思うかもしれませんが、大事なことは心が彷徨さまよわないようにコントロールすることです。

つまり、「心を静止させて無になること」そのものが必ずしも重要なわけではなく、「囚われのない心」が大事であるということになります。

とはいえ、ここには一筋縄ではいかない部分もあります。

というのも、「心を静止させて無になること」もまた、修行のある段階においては十分に意味のあることだからです。

そもそも、私たちの心というのはいつもフラフラと彷徨っています。

あっちに行ったと思ったら、次の瞬間にはもう違う場所に飛び移っているのです。

このような私たちの心の性質を、猿が木から木に飛び移る様子になぞらえて、瞑想の世界では「モンキーマインド」と言うこともあります。

実際、私たちの心というのは「聞き分けのない動物」のようなところがあります。

何らかの瞑想の技法を実践したことのある人は、自分の心がどれほど脈絡なく動き回るものか、実感として知っておられるだろうと思います。

「訓練されていない心」というのは、とかく落ち着きのないものなのです。

それゆえ、中国の孟子は「放心を求めよ」ということを言いました。

これは、「心を放ったままにしておかず、絶えず求めて引き戻すようにするのだ」という教えです。

瞑想の修行が「集中力の養成」から始るのは、ひとえにこのためです。

「集中力に欠ける心」というのは、いつもあちこちに飛び回っていて、収拾がつかなくなっています。

だから、それをまず落ち着けるためにも、集中力をつけていくことになるわけです。

必要なだけの集中力がついたら、あえて集中は手放していく

そうして、集中力がいくらか身についてくると、だんだんと心が飛び回らなくなってきます。

脈絡のない思考がたとえ浮かんでも、少し集中するだけで、それらがすぐに消えていくようにもなります。

この状態に至ると、ようやく人は静かにしていられるようになるわけですが、これは「心の制御」という側面が強いです。

つまり、「自我」による意志を通して集中力を行使することで、心が暴れ回らないように留めるわけです。

ここにおいては、「自我」が意志によって心の手綱を握っており、意図的に心の方向性をコントロールしています。

これが、「ニローダ」というものの、最も初期の段階に当たるのではないかと思います。

これがなぜ「初期の段階」かというと、意図的に心をコントロールしている限り、「自我」が沈黙しなくなってしまうからです。

それはいわば、「自我」が絶えず心を見張って、監視の目を光らせているような状態です。

それだと、心はリラックスすることができず、実践者は常に心身に微妙な緊張が残るようになってしまいます。

そこで、ここから先は「自我」による集中をあえて弱めて、ガチガチになっていたコントロール体制を緩めていきます。

私が「集中しない瞑想」や「瞑想的な日常生活」という言い方で表現しているのは、この段階です。

この段階においては、集中力を行使し過ぎて「自我」が強まらないようにバランスを取っていきます。

そうすると、「自我」が前面に出ていたところから、徐々に変化が現れ始めます。

思考や感情だけでなく「自我」さえもが沈黙して、まったくの「静寂」が生じるようになってくるのです。

内側が静かになることで、「自由な意識」を自覚できる

ここにおいては、確かに「心のはたらき」が静止しており、内側は静かに保たれています。

そして、そのおかげで、普段は思考や感情、「自我」の動きなどによって感じられなくなっていた「意識」が自覚できるようになるのです。

そもそも私たちは普段、思考や感情、「自我」や自分の身体などと自己同一化して生きています。

ですが、「意識」というのは、それら全てと元から分離しているものです。

「意識」は、一切をただ観ているだけで、何とも同化することがないのです。

ただ、内側が騒がしくなっていると、あたかも「意識」が他のものにベッタリとくっついてしまったかのように感じられることがあります。

たとえば、浮かんでくる思考を「自分のもの」のように感じたり、感情に飲みこまれて我を忘れたり、「自我」こそが自分の本体だと思い込んだりするのです。

しかし、瞑想の実践によって内側が静かになってくると(つまり、「心のはたらき」が止滅すると)、「意識」の周りを取り巻いていた思考や感情、「自我」の動きなどが消えるので、「意識」をダイレクトに感じることがしやすくなります。

つまり、「意識」とそれ以外のものが同化してくっついたかのような「錯覚」が、徐々に解けていくわけです。

そういう意味で、「心のはたらきの止滅」としての「ニローダ」は重要です。

なぜなら、内側が十分に静まることで、「自分の中に、思考や感情、自我や身体からさえ分離している『自由な何か』が存在している」ということに気づけるからです。

このことに気づけるようになると、心が本当の意味で自由になり始めます。

思考や感情、「自我」や身体と自己同一化することがなくなっていき、それらに振り回されなくなるのです。

「自我」が沈黙するようになると、徐々に「我執」が消えていく

また、そのようにして「意識」以外のものとの自己同一化の感覚がなくなることで、結果的に「我執」が徐々に消えていきます。

つまり、「自我との自己同一化」が解けるにしたがって、「自我」を満足させるために生じていた執着が、少しずつ断ち切られていくわけです。

具体的には、それまで「自我」が王様のように人生の行く先を全て支配しようとしていたようなところから、「自我」が分をわきまえて、あまり自己主張をしなくなります。

それゆえ、自分のために使っていたエネルギーが余るようになるので、人によっては他人の幸福のために動くようになり、利他的になっていったりもするでしょう。

いずれにせよ、「意識」について悟ることで、心が自由になって気持ちにゆとりがでてくるのです。

ここまでくると、心はよく整えられているのでむやみに暴れ回りませんし、「自我」も分をわきまえているので過度な自己主張をしなくなります。

その様子は、傍目はためには「心がよく制御されている」かのように見えるかもしれません。

思うに、仏教で言われている「ニローダ(心の制御)」はこのレベルを指すのでしょう。

それは、心を制御しようとする「自我」が分をわきまえて、必要な時は黙っていられるようになった状態です。

そういう意味で、修行の初期段階におけるような、意志を使って集中力で無理やり心を従わせている段階は、「ニローダ」と呼ぶにはまだ未成熟だと思います。

そこからは、「自我」が沈黙することを覚えて、静かにしていられるようにすることが必要です。

そして、内側が静かになって「心のはたらきの止滅」が実現するようになっていくと、「自我からの分離の感覚」が育っていきます。

すると、「心が自我から解放されて自由になりつつも、むやみやたらと暴れ回らない」という、より高次の「ニローダ(心の制御)」へ自然と移行していくのです。

「ニローダ」の発達についてのフローチャート

以上の内容をまとめると、以下のようになります。

1,瞑想修行の初期段階で集中力を養成する
  ⇓
2,集中力がつくことで、心が暴れ回らなくなる
(「心の制御」としての「ニローダ」の初期段階)
  ⇓
3,集中力をあえて弱めて、「自我」が沈黙できるようにしていく
  ⇓
4,静寂の中で、全てから分離した「意識」への自覚が起こる
(「心のはたらきの止滅」としての「ニローダ」の中での気づき)
  ⇓
5,「自我」との自己同一化が解除されていき、心が自由になる
  ⇓
6,「自我」が黙っていられるようになり、心も暴れ回らない
(より高次の意味での「心の制御」としての「ニローダ」)

最終的な「高次のニローダ」に至ると、「心を制御している」という感覚を伴わないで心を乗りこなすことができるようになっていきます。

そこに至るまでは、「心を意志によってコントロールする感覚」がどうしても付きまとうのですが、「自我」そのものが沈黙することを覚えて「我執」が消えると、無理やり抑え込まなくても、心が暴れなくなるためです。

そもそもそれまでは、「自我」によって焚きつけられたり力づくで抑えつけられたりすることで、心は暴れ回りやすくなっていました。

ですが、「自我」からの影響が弱まることで、心は「むやみに動く必要」を感じなくなり、自分から大人しくしていられるようになるのです。

終わりに

このように、「ニローダ(心の制御・心のはたらきの止滅)」と言っても、いくつか段階があるのではないかと個人的には思っています。

印象として、ヨーガでは「意識を識別すること(ヴィヴェーカ)」が重視されるので、「心を制御する」ということよりも、「心の動きを静止させて意識を自覚する」ということが大事になっているように感じます。

それに対して、仏教では「我執を去る」ということが重視される傾向が強いので、「執着が消えて伸び伸びと解放された心が、むやみに暴れ回らないよう適度に制御していく」ということのほうが大事にされているように思います。

ヨーガと仏教でそれぞれに重視するものが違うので、同じ「ニローダ」という言葉を使っていても、そのニュアンスが異なるわけです。


以上、今回はヨーガや仏教で重視されている「ニローダ」という言葉について、個人的な考えを書いてみました。

「心のはたらきの止滅」と言うと、「心の自殺ではないのか?」と心配になる人もいるかもしれませんが、必ずしもそういうわけではないと私は思っています。

もちろん、一時的に内側を静かにすることは大事ですし役にも立つのですが、完全に心を止めたまま社会生活を送ることは、ほとんど誰にもできないでしょう。

なので、「心の静止」の中で感得した「意識」を忘れないようにしつつも、生活の中では「自我」や心をうまく乗りこなして暮らしていくのが、在家で修行する人たちの基本姿勢になるかと思います。

参考にしてみてください。

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