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「今ここ」と「時間の果て」の往復運動|自我の満足など、数万年の時間の前では些事である

昨日、講話動画にも撮ったのですが、最近、「細かいこと」が気にならなくなってきました。

私はもともと細かいことが気になる質で、物事をきっちり片づけておかないと落ち着かないところがありました。

「物事をやりかけのままほっておく」ということがなかなかできなくて、忙しくても最後までやり切ろうとして焦ったりすることが多かったのです。

たとえば、私は最近、毎朝YouTubeで瞑想の配信をしていて、5時半になったら6時までの30分間、坐禅をする生活を送っているのですが、時には5時半までにやることが片付かないことがあります。

実際、昨日の朝は、メルマガの更新が間に合いませんでした。

私は二カ月くらい前からメルマガを毎日欠かさず更新しているのですが、メルマガの公開時間を朝の6時に毎回設定していて、いつもはそれまでに書き上げるようにしていたのです。

でも、昨日は5時半の瞑想配信までにメルマガを書き上げることができなかったのですね。

以前であれば、こういう時には決まって焦ってしまい、「5時半までに書き上げねば」と思ったでしょうし、坐禅中も「あー、まだメルマガが書きあがっていないんだよなー」と思って瞑想に集中できなかったと思います。

でも、昨日は割とスッキリ気持ちを割り切ることができ、「まあ、それくらい別にええやろ」と思うことができました。

「それくらい、誰でもできるだろ」と言われるかもしれないですが、「細かいこと」が気になって仕方なかった私にとって、それは「大きな変化」だったのです。

実際、前は「これを今やってしまわないと気持ちが片付かない」という感覚が強くて心がとらわれがちだったのですが、今はそういうことにこだわらなくなったように感じます。

そして、昨日、メルマガの更新を気持ちの中からほっぽり出したときに私が思ったは、「数万年のスケールで考えれば、今日メルマガの更新が少し遅れるくらい、どうでもいいじゃないか」ということでした。

いきなり「数万年のスケール」と言われても何のことかわからないかもしれませんが、今の私は基本的に「数万年後の未来」を目指して活動しています。

そもそも私の活動の目的は「自分が生きている間にたった一人でも多くの人を自由にする」ということです。

私自身が探求の果てに理解した「自由な呼吸」を少しでもこの世界に広げること。

それが私の活動の目的なのです。

そういう意味で、私にとっての活動のゴールは「地球上が『自由な人』で溢れかえるようになること」です。

心に束縛のない人々。
自分自身の人生をまっすぐに生きる人々。
幸福に満ち、愛を振りまきながら生きる人々。
自分の内側に湧き出す智慧と気づきを分かち合う人々。

そのような人で地球が溢れた時、この世界からは争いも分断もなくなるはずです。

私の理想は「そこ」です。

もちろん、そんな「夢みたいな世界」は私が生きている間には実現しません。

でも、きっといつか人類は「それ」を実現させることができると信じています。

ただ、過去にイエス・キリストやゴータマ・ブッダが現れてから2000年以上が経っているのに、人類はそれほど変わっていません。

今もまだ戦争も貧困も差別もなくなっていないままです。

だから、世界が変わるまでには、たぶんあと数万年は必要でしょう。

なにせイエスやゴータマの後継者たちが無数に現れて、多くの努力を傾けてきたのに、2000年かけてこれですからね。

数千年くらいじゃ全然足りないと思います。

でも、人類は少しずつ「善く」なっていっていると私は思っています。

この2000年の歴史も、決して無駄でもなければゼロでもなかったと思うのです。

「前に向かって進み続ければ、いつかきっと世界は変わる」

私はそんな風に思っています。

私自身はただ、受け継がれてきた「覚醒の灯火ともしび」を受け渡せればそれで十分です。

そしてそれがつまりは、「一人でも多くの人を自由にする」ということです。

もちろん、私ができることなんて、たかが知れています。

私に世界全体を変える力はありません。

でも、私と出会う人たちの人生をほんの少し変えるくらいのことはできるかもしれません。

そして、もしそれができれば、私が受け渡した「灯火」は、きっと未来に向かって受け継がれていくことでしょう。

私の身体がたとえ朽ちても、私が受け取り、誰かの内に受け渡した「火」は、「数万年先の未来」まで生き続けます。

私はそれをこの目で見ることはできないでしょうけれど、それは別にいいのです。

重要なことは、「私がしていることは無駄ではない」ということです。

「数万年の未来」に向かって「今日の種」をくこと。

それは一見すると、まったくの無駄に思えるかもしれません。

でも、「そんなことはない」と私は思うのです。

少なくとも、「そんなことはない」と信じた人々がいたからこそ、瞑想の伝統は数千年の時を超えて受け継がれてきました。

だったら、私も信じてみようと思います。

「数万年先の未来」に向かって「今日の一人」と向き合うことを、真剣にやってみたいのです。

そういう意味で、私は「究極の夢想家」であると同時に、「徹底的なリアリスト」です。

「数万年先の理想郷ユートピア」に思いを馳せながら、いつも「目の前の一人」に全力投球しています。

つまり、「『数万年後の結実』を作るのは、『今日の一歩』に他ならない」と、私は思っているのです。

そんなわけで、日常的にも「数万年単位で考えたら、自分の人生なんて些細なものだ」と感じることが増えました。

それゆえ、さっき上で書いたみたいな、「メルマガの更新がちょっと遅れた」くらいのことは、本当にどうでもいい些事になってしまいます。

でも、だからといって「今日出会う人といい加減にかかわる」ということはしません。

そこが不思議なんですよね。

「メルマガの更新が遅れること」については、「どうでもいい」と思って無視するのに、「今日出会う人と向き合うこと」については、「無駄だ」とは決して思わないのです。

たぶん、前者が私の「自我」を満足させるものに過ぎないからでしょうね。

結局のところ、私はこれまでの習慣で、「この時間までにこれを仕上げないと!」と強迫的になっているだけなのです。

そんなことは、別に「数万年先の未来」につながりません。

この瞬間の「自我」を満足させたところで、それは誰にも受け渡されないのです。

大事なことは、私が分かち合えたかどうかということです。

自分の内側の「幸福感」や「平穏」を、誰かに渡すことができたかどうかということです。

しかし、「自我」を満足させようとすると、かえって内側には焦りが生まれます。

そして、「自我」というのはどれだけ欲求を満たしたとしても、決して満足しないものです。

「自我」はどこまでも多くを要求し続け、私たちの内側のリラックスを破壊してしまうのです。

「自分の自我を満たすためだけに為される行為」は全て「些事」です。

それについては、どうでもよろしい。

そんなものはほっておいて、「目の前の一人」と向き合うことを優先すべきです。

そして、もしも「自分を満たそう」と思うのであれば、「自我」ではなくて「ハート」をこそ満たすほうが大事だと思います。

なぜなら、「自我」は満たすほどに焦燥感が膨らみますが、「ハート」は満たすほどに幸福感の源泉となるからです。

そして、その幸福感をこそ、私は誰かと分かち合いたいと思っているのです。

ともあれ、最近はそんな感じで、「目の前の一人と真剣に向き合う」ということと、「数万年先の未来に想いを馳せる」ということとの間を行ったり来たりするようになりました。

「今ここ」に全集中することもあれば、永遠にも思えるような「時間の果て」に意識を沈めることもあるわけです。

そして、「大事なこと」をする時は、あくまで「今ここ」に深く定まり、「どうでもいい些事」を放り出す時には、「数万年単位のスケール」でそれを眺めるようになっています。

おかげで、前よりまた一段「自由の感覚」が深まりました。

どうせ私が生きている間には大したことは起こりませんし、私の人生なんて「数万年の旅路」からすれば無に等しいものです。

でも、だからといって、「今日の出会い」をおろそかにしようとも思いません。

なぜなら、それこそが私にとっての「全て」だからです。

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