今回の講話のテーマは「宗教と宗教性の違いについて」です。
宗教というと、世間的には評判が悪いですけど、本当にそれは「悪いもの」なのでしょうか?
以下、私なりの考えを提示したいと思います。
本編動画はこちら⇓
以下、文字起こしした内容に、読みやすいよう手を加えたものを掲載します。
◎前置き
はい、講話の第4回でございます
なんだかんだね
講話シリーズ見てくれてる人いるし、マシュマロ送ってくれた人もいるんで
割と好評ですね
好き勝手話してるんですけど(笑)
さて、今回は「宗教と宗教性の違い」についてお話ししようと思ってて
で、「宗教」っていうと評判悪いじゃないですか?(笑)
印象悪いじゃないですか?
日曜日になるとピンポーンって来て
「あなたは神を信じますか?」って言うんでね
宗教勧誘、よく来るじゃないですか?
「面倒だな」っていう印象を持っている方多いと思うんですよ
「宗教」って何ですかね?
まずそこから考えていってみたいと思います
◎「本当の宗教」は組織化しない
「宗教」ってだいたいにおいて、信仰の対象があるわけですよね
神を信じるとか、教祖を信じるとか、教えを信じるとか
そんな具合で何かを信じるわけです
同じものを信じる人々が集まって宗教団体っていうのを作って
「その仲間をもっと広げていこう」っていうんで活動することが多いですよね
そんな感じで、「宗教」って言うとやっぱりどうしても組織になりますよね
組織化して、序列があったりなんかして、一番上に教祖がいて
まあ集金システムみたいなのがあったりして…
で、いつの間にやらその組織を存続させることそのものが
目的みたいになってたりもすると思うんですけど
場合によってはね
それで、話通じないじゃないですか?(笑)
なんか我々が日常生きてるロジックとは全く違うロジックで生きてて、彼らって
だから、「話が通じないな」っていう感じで
向こうは向こうで「独特の思考回路」を持って話しかけてくるんですけど
うまくコミュニケーションが取れないんですよ
あれって、不思議ですよね
何なんでしょうね?「宗教」って
昔は、オウム真理教の事件とかもあったから
「新興宗教」っていうだけで
「危険なカルト集団なんじゃないか?」っていう風に思う人もいるし
実際、そういう組織集団もあると思うんですよ
なんですけど
私自身は自分のことを「宗教的な人間」だと思ってるんです
ここがね、説明の難しいところで(笑)
「宗教」と「宗教性」って、私はちょっと違うと思ってるんですよね
世間一般に言われる「宗教」っていうのは
今言ったみたいに、組織になるんですよ
教祖がいて、序列があって
あとまあ、集金システムみたいのがあって
「みんなで同じものを信じましょう」と
「これを守りましょう」と
で、「それを広めましょう」っていう、そういう運動というかね
組織体じゃないですか?
逆に、「宗教性」っていうのは「性質」
宗教「性」なんで「性質」なんですよね
なので、別に組織にならなくていいんですよ
むしろ「組織になったら偽物だ」と私は思ってるんですよ
組織になった時点で「宗教」は偽物だと私は思ってるんで
まあ別に「人が集まったらダメだ」っていうことじゃないんですけど
でも、集まっても組織化して、序列ができたりとか
何か「特定の信条」みたいなのをみんなで信じましょうみたいなことになると
それは「宗教性」ではないと思うんですよね
そもそも、本当に「宗教的」であれば人は群れないと思うんですよ
その時、人は必然的に「独り」になると思うんですよね
◎かつて、試しに「ある宗教団体」に入ってみた時の話
じゃあ、私の言う「宗教性」とは何かということなんですけど
そもそも私は、最近の動画でもよく言ってるんですけど
精神的なトラブルを抱えて、苦しみの中を生きてきた人間なんですね
だから「救い」を求めてたわけですよ
自殺未遂したりとか、パニックの発作を起こして、ろくに働けないと
学校にも職場にも行けなくて、引きこもって生活するみたいな
そういう人生をずっと歩んできたわけですよ
だから「救い」を求めてはいたのね
なんだけど
そういう宗教組織に「救い」を求めようとはなぜか思わなかったんですよね
「宗教の勧誘」を受けたこと自体はあるんですよ
お世話になった先生が
「実は、何々っていう宗教団体の会員でした」みたいなことになって
いきなりね、仲間の会員連れてきて
私を喫茶店にガッて詰めてね(笑)
2人か3人がかりで勧誘してくるみたいなことをされて
幻滅したってことがあるんだけど(笑)
でも、その時にね
「ひょっとしたらこれで救われるかもしれない」とも思って
試しに入ってみたんですよ、その団体に
試しに入ってみて、2~3回集まりに行って活動してみたんだけど
「なんかやっぱ違うな」と思ったんです
みんなニコニコしてるんだけど
そのニコニコしてる表情の奥にね、「恐れ」が見えるのね
ビクビクしているのが、透けて見えるんです
「自分は何か間違ったことをするんじゃないか?」とか
「教えに逆らって道を踏み外さないか?」とか
「上の人間からどう見られてるか?」とかね
ニコニコしてるように見えるんだけど
その奥に「恐れ」が透けて見えたのね、集まってる人の中に
で、みんな集まって話をしてて、「充実した活動」してるように見えるんだけど
どこか空虚っていうか、偽りというか
どうにもそんな感じがして
「ここにいても自分が救われることはないな」と思ったんです
それで
「新しく入った湯浅くんです!自己紹介をどうぞ!」っていう風に言われた瞬間に
「すいません、今日でやめます」って言ってやめたのね(笑)
めっちゃ引き止められたんだけど(笑)
っていうことがあったんで
だからまあ、私はあんまり宗教団体って信じてないんですよ
実際に、試しに入ってみたんだけど、そういう結果になったから
まあ、その宗教団体がたまたまそうだっただけかもしれないんだけど
基本的に組織化した宗教を、私は信じてないのね
どうしてもそこに何か「個人を束縛するもの」があると思ってしまうわけですよ
◎「自由」を求め続けた15年間の歩み
逆に言うと
「本当の宗教性」とは「束縛のないこと」だと思うんです
つまり、「自由であること」だと思うんですね
そして、私は「自由」を求めて生きてきたんですよ
苦しみの中で自殺未遂をしたりとか、パニックの発作を起こしたりとか
学校や職場に馴染めなくて、不登校になったり休職したりして
家に引きこもって自分をひたすら責めるという生活をして、苦しんでたわけです
そんな中で
「『束縛のない生き方』や『本当に幸せな生き方』って何だろう?」っていうことを
私は真剣に考え続けたわけですね
で、宗教組織っていうのは
たぶんそういう問いに対して「定式化した答え」を与えてくれると思うんですね
それで、信者の人たちは何も考えないで
そういった「答え」を鵜呑みにしてればいい状態になっちゃうんですよ
「これを守ってればいいんだ」みたいなね
思考停止して、ただ鵜呑みにするみたいな
無批判に鵜呑みにするみたいな状態になっちゃうんですよ
でも、そうじゃないと思うんです
だって、人が本当に救われるっていうのは「自立する」ってことだと思うんで
だから、自分で考えないといけないのね
自分で考えて、自分で感じて、自分で責任を取る
そうしないと、「本当の救い」ってないと思って
だから私は、ありとあらゆる方法を試したんですよ
瞑想法をやって、呼吸法をやって
心理療法をやって、ボディーワークもやって、
ダンスと合氣道も稽古してたから、身体のことも随分研究したんですよ
いろんな技法をやりました
いろんな先生に会いに行きました
いろんな本を読みました
そんなことを15年ぐらい続けた果てに
ようやくね、暗闇の中を抜けまして
今みたいな感じで、ヘラヘラ笑う感じの気の抜けたおっさんになったわけなんです(笑)
◎「存在する喜び」は「大いなる何か」が与えてくれたプレゼント
で、その過程において
割と最近なんですけど
「宗教ってこういうことか!」っていうふうに腑に落ちたんですよね
自分の苦しみをひたすら見つめていって
あるところで暗闇を抜けて、苦しみが消えていったと
内側が満たされていって、幸福感が溢れてきて
呼吸が深くなって、内側が静かになっていって
迷いや疑いが消えていって
「別にこれでいいじゃないか」ってね
「世界ってのはもともと美しかったんだ」っていう風にね
本当に心からそう思ったんですよ
「人生っていうのはこれでいいんだ」ってね
で、そんな感じで「束縛のない心」で人生を眺めた時に
なんかね、「自分は生かされてるんだ」っていう感覚に自然となったんですよ
それまでは、「自分が頑張って努力して、それで幸せになるんだ」って思ってたのね
「頑張って自分の足で歩いていくんだ」って思ったいたんです
実際、それはある意味で「真理」ではあるわけですよ
正しいんだけど
でも結局のところ、そうやっていくら頑張っても「できないこと」はできないし
最終的に私はね、そうやって努力に努力を重ねた結果
「結局、どうしようもないじゃん」っていう風に諦めるところに至ったんですよ
ほぼ15年近くにわたって努力を重ねた結果
「結局それでも幸せになれなかった」っていうところに行き着いたんです
「努力をすればするほど、むしろ苦しみが深まっていく」っていう風にも思ったし
で、「結局、何もかも無駄だったんだな」って思って
「もう諦めた」ってね
「もうこれ以上、どうすることもできない」と
「もう自分できることはやり尽くした」と(笑)
そう思って、「バーン!」って倒れて
「もう無理だ!」って
「これで幸せになれないんだったら、もう諦めたわ!」って
「この人生捨てた!」って思って(笑)
そんな風に、全部を諦めたのね
でも、そうしたらね、急に気が楽になったんですよ
「幸せになろう」と思って
「自分で頑張って幸せになるんだ」と思って握りしめて
そうやって常に頑張って努力して、どこかを目指して走り続けてたんですけど
それをやめたら、自然と内側から「幸福感」が溢れてきたんですよね
でも「それ」って、私が作ったもんじゃないんですよ
私このチャンネルの名前も、もともと運営しているブログも
「存在する喜びへの道」っていう名前つけてるんですけど
なんでこの名前してるかっていうと
「喜び」って「もともと在るもの」だからなんですよ
これね、たぶん世の中のほとんどの人は同意しないと思うんだけど
私たちの存在の本質って「喜び」なんですよ
もしも深い瞑想状態の中で内側が静かになって
何も行為していない、何も作為していないし、どこも目指していない
そういう「ゴールが消えた状態」の中で安らぐと
「存在している」ということそのものの中に、私たちは「喜び」を見出すんですよ
何でか分かんないんですけど
私たちの存在の本質は「喜び」なんですよ
別に「喜び」じゃなくてもいいのね
むしろ何でもなくてもいいはずなのに
なぜか「空っぽの状態」、何も手に持っていない「手ぶらの状態」になると
「喜び」が内側から溢れてくるんですよ
なぜか(笑)
私も理由は知りません
理由は私も分かんないんだけどね
その、仏教的に言うと「空」ですよね
「無我の状態」、「何でもない状態」に安住して落ち着くようになると
なぜか「幸福感」が内側から溢れるんですよ
それって、私が作っているものじゃないのね
なぜか「存在に最初から備わっている性質」なんですよ
それこそがまさに「宗教性」なんですよね
内側から溢れてくる
「存在そのものに最初から備わっている性質」としての「幸福感」
それに身を委ねていくと
「自分は何か大きなものに生かされているんだ」という感覚になるんですよね
自分が生きてるっていうのは
「自分がただ単に自力で頑張って生きてるんだ」っていうんじゃなくて
そもそもその根底にあるのは「存在する喜び」なんですよ
「存在そのものにある喜び」
なぜか「喜び」
私たちの本質は、なぜか「喜び」なんだっていうね
それって、私が努力して作ったものじゃなくて、「最初から在るもの」で
「それによって私は生かされてるんだ」って思ったんですよね
要するに、仏教で言うところの「他力」ですよね
「自力」じゃなくて「他力」
「何かに生かされてる」っていう感覚
それを持つようになると、人ってね
自然と謙虚になると思うんですよ
「自分が何もかも決定するんだ」
「自分が何もかも作る力を持ってるんだ」っていう風に思い上がるんじゃなくて
「いや、自分はやっぱり生かされてるんだよ」っていうね
「存在が持っている性質としての喜び」っていうのは
私が自分で作ったものじゃなくて
「世界からのプレゼント」なんじゃないかっていうね
「神」と言ってもいいし「天」と言ってもいいんだけど
何と言ってもいいんだけど
その「何か大きな存在」が、私たちのこの意識にプレゼントしてくれてるもの
その「喜び」ですよね
それを感じた時に
「自分は生かされてるんだ」って思って
自然と「感謝の念」が湧いてくるんですよね
そういう時ってやっぱり、「この世界は美しいな」って思うし
人にも優しくしたくなるじゃないですか?
こんな風にヘラヘラ笑ってね(笑)
「生かされてるんだ」って思ったんです
◎「神」とは、「決して解けない謎」についた名のこと
それで、「宗教性」ってそういうことだと思ったんですよ
「根拠のない内側の幸福感」に根付いて
で、それが溢れてきた時に、自然と花開くもの
そういうものが「宗教性」だと思うんです
でもそれって、何かしらの教義に従ってるわけじゃないんですよ
そもそも私はね、あらゆる「決まり事」が嫌いなんですよ(笑)
いかなる主義にも従わないんですよ
「主義を持たない」っていうのが私の主義なのね(笑)
そういうわけなんで
私は「自由を最も愛する人間」なので
「自由こそが最も価値のあるものだ」と思っているので
縛られることが嫌なんですよ
だから教義っていうものは嫌いなんですよ(笑)
だから、人に何か伝えるときも
なるべく「絶対こうしてください」みたいなことは言わないようにしてるんです
要は、他人を縛りたくないのね
自分のことも他人のことも縛りたくないんです
私は「全ての人に自由であってほしい」と思ってるから
誰のことも縛りたくないんですよ
私自身も他の人のことも縛りたくないのね
で、そんな風に生きてると
こうね、やっぱ日々幸福なんですよ
自分の内側に「幸福感」、「満たされた感覚」があって
「それを誰かと分かち合いたい」って自然と思うんですよね
で、繰り返しますけど、それって教義じゃないんですよ
「こういう教えを守ってください」って言うんじゃなくて
「私と同じものを信じてください」って言うんじゃなくて
そうじゃなくて
「あなたの内側にも幸福感があるから」
「あなたの存在の本質はもともと幸福なんだから」
「だから、それを思い出そうよ」ってね
それが「宗教性」だと私は思ってて
だから「神を信じましょう」っていう話じゃなくて…
というか、「神」っていうのは自分の内側に在るんですよ
「幸福感」が内側に溢れてきて
全くの静寂の中で静かに落ち着いていって
「あぁ、何もかもがこのままでいいんだ」ってね
「存在はなんて美しいんだろう」って思う
まさにその時、内側に「神」がいるんですよね
って、別にそんなに大層なことじゃないんだけど(笑)
「神」っていうとなんか「全知全能」みたいな風に思うかもしれないんだけど
むしろ「神」っていうのは「神秘」、「解けない謎」というかね
「絶対的な神秘」についた名前みたいな気が私はするんですよ
だから、「内側の喜び」もある意味では「神」なんです
「内側に満ちてくる喜び」
「なぜか存在するだけで感じられる喜び」っていうのは理由がないから
「神秘」なんですよね
謎なの
私も分かんないの(笑)
「なんで喜びなんだろう?」って(笑)
いまだに分かんないの
なんでなんだろうね?
別に「喜び」でなくてもいいはずなのに
人は「手ぶらな状態」で、「何者でもないこと」のうちに安らぐと
なぜか「喜び」が溢れてくる
それって「神」なんですよ
少なくとも、私はそんな風に思っているんです
◎終わりに
っていうことでね
私にとって「宗教」っていうのは
「組織化したもの」であり、「硬直化したもの」
「他人に無理強いするもの」であり、「束縛を生むもの」
それが私にとっての「宗教」であって
それを、ぜーんぶひっくり返したものが
私にとっての「宗教性」です(笑)
「人を自由にするもの」
「人の中に愛を目覚めさせるもの」
「人を幸福にするもの」
「それを分かち合いたくなる、その気持ち」
それが「宗教性」です
はい、ということで
15分くらい喋ったんで
「宗教」と「宗教性」の違いということでお話ししました
あなたの内側の宗教性は花開いてますか?
今日もニコニコ笑って楽しく過ごせるといいですね
はい、では終わりまーす
ご視聴ありがとうございました

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