今回は、講話の第三回『幸福と不幸は自分次第である』の文字起こしした内容をお届けします。
私たちは、「自分が不幸であるのは外側の状況のせいなのだ」と思うことがありますが、必ずしもそうとは限りません。
たとえ、外側の状況が変えられなくても、内側において「幸せ」になることは可能であると、私自身は思っています。
本編動画はこちら⇓
以下、文字起こしした内容に、読みやすいよう手を加えたものを掲載します。
◎はじめに
はい、講話の第3回を収録しております
今回はちょっと皆さんにとって「耳の痛い話」をします
聴く人は覚悟しておいた方がいいかもしれないんだけど
テーマとしては「幸福と不幸は自分次第である」ということですね
◎ヘラヘラしている理想論者を敵視する人の気持ちもわかる
最近ね、私ショート動画を結構上げてるんですけど
そうするとショート動画って切り抜きだから、文脈わかんないじゃないですか?
前後の文脈分かんなくて、その場だけ取って見るんで
見た人は、その部分だけ見てコメントしたりとか評価したりするんですね
そうすると私がなんか唐突に画面に現れてきて
こんな感じでヘラヘラしながら理想論っぽいことを言うと
そうすると腹が立つ人がいるみたいで
ものすごい低評価がついたりとか
「気楽そうに話しやがって!」
「こいつきっと悩みもなんもなくて、お気楽な人生歩んできたんだろうな」
っていうふうに思うみたいで
そういうコメント書く人とかいるんですよ
それはそうだろうなと思うんですよね、そういう人からすると
「自分はこんなに不幸なのに、こんなにヘラヘラしてる奴がいるなんて不公平だ」
っていうふうに思うかもしれないし
私は動画の中でも「幸福も不幸も自分次第なんだ」っていうことを言うんですね
そう言うと現に不幸な中にいる人からすると
「ふざけんじゃねえ!」っていうふうに思うんですよ
「お前が笑ってられるのはお前が楽な人生を歩んでるからに過ぎないじゃないか!」
「本当の不幸をお前は知らないだけじゃないか!」っていう風に感じるんだと思うんです
私はそんな風に想像するんですね
◎絶望の中でやっと認められた「自分の過ち」について
でも私もね、最初からヘラヘラ笑ってたわけじゃなくて
私のブログの読者とか、昔から私のこと知ってる人は分かってると思うんですけど
私は今41歳で
その人生の39年ぐらい
つまり、つい最近までずっと苦しみ続けてたんですよ
精神的なトラブルを抱えてて
もう10代の頃から不登校になったりとか
自殺未遂したりとか
ニートになって3年ぐらい引きこもって生活した時もありましたし
仕事をしても続かないと
もう人とやっていけないんですよ、我慢できなくなっちゃって
一つの職場で1年以上働けないし
正社員として働いたこともないんですよ
完全にね、社会不適合者なのね(笑)
大人になってから診断したら発達障害の傾向もあるらしいんですよ
要は私、障害者なのね(笑)
だからそんな感じで苦しみ抜いて生きてたんですよね
で、なんだけど
そんな中で「苦しみをどうにかしよう」ってもがき続けてたんですよね
でもやっぱり、「苦しみの原因は外にあるんじゃないか?」って思ってたんですよ
「誰かのせいで、何かのせいで自分は苦しいんだ」と
「自分の不幸の原因は外側にあるんだ」って思ってて
「自分は悪くないんだ」って思ってたんですよ
それでうまくいくんならいいんですけど
でもね、私はうまくいかなかったんですよ
「自分は悪くないんだ」って言い続けることができなかったんですね
「自分の苦しみは外側のせいなんだ」
「世界のせいなんだ」っていうふうに思って
「自分は悪くない」っていうふうに固くなに心を閉ざして生きていたら
みんな人が去っていったんですよ(笑)
仲間が去っていって、所属していた団体から追放されて
結婚してたんですけど
妻が子供連れて出て行ったんですよ、家を(笑)
で、離婚したのね
そうやって徹底的に社会的に孤立しちゃったんですよ
自分で自分を守って
「自分は悪くないんだ」って言い続けたことで
全ての人が去っていったんですね
で、そんな中で精神的にもおかしくなってしまったんです
もともと自殺ミスを起こしたりね
パニックの発作をしょっちゅう起こすような人間だったんで
そんな状態になったら、それは精神的におかしくなりますよ
当時仕事してたんだけど、仕事中に叫び出しちゃったのね
叫び出して暴れ出しちゃって
だから仕事も続けられなくなって失業者になって
そうこうするうちに生活費がなくなって、路頭に迷いかけたんですよ
もうどん底まで落ちたのね
何の救いもなくて
そんな中で絶望して
本当に絶望した時にようやく認められたんですよね
「結局全部自分の蒔いた種だったんだな」と思ったんですよ
外側に原因を求めて
「自分は悪くないんだ」って言い続けることによって人との関わりを断って
「自分は悪くない」って言って鎧を着込んで
自分を守ることを続けた結果
「私は独りになるべくしてなったんだ」って
その時ようやく分かったんですよ
仲間を失って、家族を失って、仕事を失って、お金も失って
何にもなくなった時に
ようやく認められたんですよね
◎「ポジティブな側面」を見ようとした日々
普通の人はね
たぶんもっと手前で気づけるんですよ
「自分が悪いな」って思って
もっと手前のところで方向転換できるんだけど
私はエゴが強かったから
そこまで行かないと認められなかったんですよね
そうなった時に、毎日毎日自殺することばっかり考えて過ごすようになって
それでも何か道を求めてね
「どうしたらこの苦しみを抜けられるだろう」って思って
色々教えてる動画を見たりとか、本を読んだりとかしてね
道を探したんですよね
そんな中で、精神科医の樺沢紫苑さんという人が
3行ポジティブ日記っていうのを提唱されてて
「寝る前にその日あったら良かったことを3つ日記に書いて寝る」っていうね
簡単じゃないですか?それぐらいだったら
で、それをやってみたのね
毎日朝から起きてから寝るまで、ずっと自殺についてばっか考えてたんだけど
そんな中でも
ほんの一滴でも「楽しい瞬間」とか「嬉しい瞬間」とか
「ホッとする瞬間」ないかなって思って
意識的に探したら、結構あるんですよ
そんな状態にも関わらず、見つかるんですよね
もう何もかも失って
絶望の中で自殺についてばっか考えているのに
それにも関わらず
探してみると3行書くぐらいのことはあるんですよ
たとえば、「この瞬間そういえばご飯うまかったかな」とか
「なんか日の光あったかかったな」とか
そういうことあるんですよね
そんなことを続けているうちに少しずつ気持ちが軽くなっていったんです
◎自分の絶望を受け入れたら、不思議と気持ちが軽くなった
でもね、やっぱり完全に気持ちが軽くはならなかったんですよ
まだ笑えなかったのね
笑い方ずっと分かんないままで
もう何年も何年もね
笑い方が分かんないまま生きてきて
いつも眉間にしわ寄せて、深刻に人生について考えて
「自分は不幸なんだ」っていう風に思って
「その責任は自分じゃなくて外側にあるんだ」って思って生きてたんですよね
でもそれを、絶望の中で「いや、たぶん自分のせいだったんだ」って思って
素直にね、「喜び」を見つめようって思ったんですよね
で、そうした時に
徹底的にこの虚しさとか退屈とか無力感とか
そういうのを見つめようと思ったんですよ
そもそも、さっき言ったみたいに
私、完全に社会不適合者なんで
もう「逆転」とかないのね(笑)
もうこのまま「底辺労働者」として人生を終えるしかないんですよ
ひょっとしたら「逆転の目」があるのかもしれないですけど
ほぼ絶望的ですよね
今もそうなんだけど
今も私、無職なのね(笑)
仕事してないんですよ(笑)
まあちょっとね、縁があってまとまったお金が入ってきたんで
そのなけなしの貯金を少しずつ切り崩しながら
道楽でこうやって動画配信してるんですけど
だから、私が「社会的に成功する」っていうね
「サクセスする」っていう未来はないんですよ
で、「このまま誰にも知られないまま一人で寂しく死んでいくんだろうな」って思った時に
ものすごい絶望感と無力感と虚無感を感じたんですよね
でも、同時に「それを徹底的に見つめてみよう」と思ったんですよ
そこから目を逸らすんじゃなくてね
とはいえ、毎日がもう退屈なんですよ
何もしたいことがない
死にたくもないし、かといって生きたくもない
自殺することばっか考えてて
そんな中で退屈なんですよね、毎日が
同じことの繰り返しで、虚無感ばっかりで
でも、それを見つめようと思ったのね
もうね、私やるとなったら徹底的にやるんで
毎日4時間とか5時間ね
ひたすら何もしないで坐って
内側に起こってくる虚無感とか虚しさとか退屈とか
そういったものをひたすら見つめるってことをしたんですよ
それ毎日毎日やって
で、そういう生活をね
何ヶ月続けたかな?2ヶ月ぐらいかな?
2~3ヶ月ぐらい続けてたら
ある時ふっとね、気が楽になったんですよね
退屈な感覚が溶けて消えていって
虚無感が消えていって
「あれ?別にこのままでいいんじゃないか?」っていう風に思い始めたんですよ
思ったというか、感じたんですよね
胸のあたりで
「あれ?別にそんな社会的にサクセスせんでもよくね?」っていうね(笑)
当時はそんな軽い感じじゃなかったんだけど
「あれ?なんでこんな楽なんだろう?」ってね
不思議と気が楽になったんですよね
でも、「外側の状況」は何も変わってないのね
私は相変わらず最低賃金で働く底辺労働者で
実際、その時にちょっと働いてたんだけど
別にそんな特別に高い給料もらってたわけではないし
特別なポジションにいたわけでもなくて
言われたことを言われた通りやるだけで
そんな具合に「外側の状況」はまるで変わってないのに
気が楽になったんですよね
「別にこのまま一人で死んでいっても別にいいんじゃないかな」ってね
「穏やかな諦観」というかね
そんな風に自分の人生を受け入れられたんですよね
◎私が笑えるようになるまでに歩いた道のり
で、そこからさらにそれが深まっていって
自分が何者でもないっていうことの中に、「喜び」を見出すようになっていったんですよ
不思議なんですけど
「何者かになろう」と思って
「目標」を向かって走ってると
頑張る気力とかは出てくるかもしれないですし、「目標」を達成すると嬉しいんだけど
でも、そういうのってなんかね
虚しかったりとか、すぐ消えちゃったりとかするんですよね
「何か目標を達成する」「夢を叶える」っていう風になると
エネルギーは出てくるかもしれないし
夢を叶えると、その瞬間は嬉しいんだけど
それって持続しないんですよね
私も経験あるんですけど
長年の夢が叶っても、「喜び」は持続しないんです
なんだけど、その時に私が何もしないで
退屈を見つめる、虚無感を見つめる
で、それらが溶けた後に現れてくる
「自然発生する喜び」には持続性があったんですよ
だから、それを味わうようになってから
なんかね、起きてから寝るまでずっと上機嫌になったんですよね
「えーっ!?」と思って(笑)
「外側の状況」は何も変わってないですよ
相変わらず「名もなき底辺労働者」なんだけど
お金があるわけでもないし
恋人がいるわけでもないし
安いアパートに住んでて
半額シール貼ってるような弁当を買って食ってるような生活なんだけど
でもなんかね、毎日毎日上機嫌なんですよ、不思議と
「これは一体何事だ!?」と思ってね(笑)
で、不思議に思ったんですけど
「何者にもならなくていいや」っていう風に手放すと楽になるんですよ、人間って
「何かを成し遂げなきゃいけない」とか
「何者かにならなきゃいけない」とかって思ってると、苦しくなるんだけど
常に追い立てられるような感じになるんだけど
「別に何者でもなくてもいいか」って思えるようになると
すごく気が楽になるんですよね
で、私がそう思えるようになったのって
やっぱり絶望したからだと思うんですよ
「自分の外側に原因があるから自分は不幸なんだ」って思ってて
で、そういうやり方がうまくいかなくなったと
それで徹底的に独りっきりになって苦しみ抜いて
そこから、「結局、全部自分が蒔いた種だったんだ」って認めて
その中で、内側にある虚無感とか絶望感とか退屈とかをひたすら見つめるっていうことをしたと
そういうルートを通った上で、私は笑えるようになったんですよ(笑)
こうやってヘラヘラ笑っているのは、そういう経緯があるんですよね
◎アンチコメントには「ハート」で返す
なので、ショート動画とか見て
その切り抜いた1分間だけを見て
「この野郎ヘラヘラ笑いやがって」って思う人もいるんだろうけど
でも、そう思うのは仕方ないと思うんだよね
だって、その1分間しか見なかったら分かんないじゃないですか?
私がどんな経緯で笑えるようになったかなんて
知る由もないじゃないですか?そういう人たちからすると
だからそういう人たちが
私のことを見て「きっとこいつ気楽な人生を歩んできたんだろうな」と思って
アンチコメント書く気持ちも分かるんですよ
だから、そういう人に対してはあんま反論したりとかせずに
説明したりとかもせずに
「ハートマーク」だけつけてるんですよね(笑)
高評価じゃなくて
私、評価ってするの嫌いなんで
高評価も低評価も基本つけないことにしてるんですよ
なんで、代わりに「ハート」だけね
「いいね」というか、「ハート」だけつけてるんですけど
「どうもー」っていう感じで(笑)
で、そんな感じで、私は今では笑えるようになったんですけど
その上で、この「笑えるようになった気持ち」
この「落ち着いた安らかな気持ち」を他の人にも伝えたいなと思って
ブログで文章を書いたりとか
youtubeで動画配信したりとかするようになったわけですよ
だから私はね
決してそんな「ものすごい不幸な人生」だったわけでもないんですけど
「そこそこ苦しんだ人間」ではあるわけですよ
なので決してね
何の苦しみも経ずに、最初から笑ってたわけではないんですよ
◎笑える人は強い人
フランスの哲学者というか
哲学教師のアランっているじゃないですか?
『幸福論』っていう本で日本だと有名で
エミール・シャルティエっていうのが本名なんですけど
新聞に毎日毎日、『プロポ』っていう哲学の短い文章を書いてた人なんですね
で、高等師範学校の哲学教師やってたんですけど
そのアランがね
「幸せ」っていうのは
「楽観主義」っていうのは意志して作るものなんだと
「幸福は意志の結果なんだ」っていう風に言ってたんですよね
「幸せ」っていうのは自分で意志しないと
それを手にすることはできないし、生きることができないというふうに言ってたんですよね
「人は気分に流されると不幸になる」ってアランは言うんですよ
逆に、「幸せになるんだ」っていうふうに意志して
その方向に向かって歩む人だけが「幸せ」になるんだっていうんです
もちろんね
もともと何か知的な障害があって
自分の苦しみとかをうまく自覚できなくて
自分の外側の状況がうまく理解できなくて、それでいつも楽観的であるっていう
子供のような無垢な精神の人もいますよ
そういう人ってきっと死刑を宣告されてても
「自分が死ぬんだ」っていうことを理解できなくて
死刑の寸前までずっと笑ってると思うんですけど
そういう人だけではないじゃないですか?
みんなやっぱり苦しみがあるし、そういうものを自覚しながら生きてるんです
なんだけど、それでも「幸せ」を選ぶ
「楽観主義」を選ぶ
それは「決意」の結果であって、決して最初から人は笑ってるわけではないんですよ
ほとんどの人はね
少なくとも、私はそう思ってます
実際に、世の中で「楽観主義」を自分の内側に持って生きてる人
いつも笑って生きてる人っていうのは
それだけの悲しみとか痛みを背負ってると思うんですよ
それを通り抜けてきてると、私は思うんですね
決して誰も最初から笑ってたわけじゃなくてね
だから、私は「笑ってる人」を見ると
「きっとこの人は強い人なんだろうな」って思うんですよ
「強いから笑うことを選べるんだろうな」って思うんですよ
もちろん、今は笑えない人
苦しみの中にいる人も、その苦しみの中できっと戦ってると思うんですよ
で、他人のせいにしたくなったりすることもあると思うんですよ
でもね、やっぱり最終的には「幸せ」を自分で選んでいくしかないんです
だって、辛いじゃないですか?苦しいばっかりなんて
もちろんね、楽に「幸せ」にはなれないですけど
もちろんね、私よりももっともっときつい状況に置かれている人が笑えるようになるのは
私よりもっと難しいと思うんですよ
私はたぶん幸運だったと思います
もっとつらい状況に置かれている人もいると思うし
そういう人に「笑ってごらん」なんて気安くは言えないんですけど
それでも
今日あった「楽しいこと」とか「嬉しいこと」
それを探そうとする、見つけようとする
それを寝る前にちょっと味わってみるってことは、たぶんできると思うんですよ
そこから「一歩」始まるんじゃないかと思うんですよね、何かがね
◎幸せになるための「鍵」は、自分自身の手の中に在る
人生というのは不公平というか…、不平等なんですよ
置かれてる状況がみんな違うから
どういう家に生まれるか
どういう国に生まれるかがもう全部違うんで
どうしても苦しい状況に置かれてしまう人っていうのはいるんですけども
だからといって、「絶対に幸せになれない」っていう風に思うんじゃなくて
「幸せ」を
ほんの少しでも
ほんの一瞬でもいいんです
一日の中にほんの一瞬でも「幸せな瞬間」があるとしたら
それを見ようとする
それに光を当てようとするっていうことは、自分でできることじゃないですか?
そういう意味では自分の中に「鍵」があるんですよ
「幸せ」をこそ見ようとする
それは「自分でできること」なんだって
もしも運命によって死ぬまで絶対にずっと不幸でなきゃいけないんだったら
もう「自分のできること」なんて、何もないじゃないですか?
でも、それって余計つらいじゃないですか?
だけど、本当は「鍵」が自分の中にあるんですよ
自分の中にもうすでに「鍵」があるんです
もちろん、いつも簡単に「扉」を開けられるわけじゃないんですけど
少なくとも「扉」を開けようと試みることはできると思うんですよね
◎終わりに
はい、という感じで
まあ「綺麗事」って言われるかもしれないんですけど
「幸福と不幸は自分次第」ということですね
最後に、「楽観主義というのは意志によるもの」であるという
アランの言葉を送りたいと思います
ということで、第3回の講話を終わろうと思います
ありがとうございました
ご視聴ありがとうございました

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