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「苦しみ」とは、心を洗うシャワーである

今日、私の住んでいる地域では雨が降っています。

このところ、雨があまり降っていなかったので、少し新鮮な気分です。

私たちの心にも、時には雨が降ることがあります。

たとえば、悲しみが湧いてくることもあれば、不安に囚われることもあると思います。

なかなか「いつも晴れの日」というわけにはいかないものです。

でも、世の中の多くの人は、「ずっと元気な晴れが良い」と思っています。

「悲しみも不安も要らない」というわけですね。

そうはいっても、悲しみや不安はやっぱり訪れます。

それで、ほとんどの人が「嫌だ!こんなのは間違っている!」と言っては、これらの感情を遠ざけようとするわけです。

しかし、「晴れの日」があれば、「雨の日」もあるのは自然なことです。

もしそこで、「雨の日なんて永遠に要らない!」と言ってしまうと、それはそれで心が干からびてしまうのではないかと私は思います。

いつも言っていることですが、私たちの存在は、「肯定性」と「否定性」の両方からできています。

それゆえ、もしも「肯定性」だけしか認めないと、「否定性」は切り捨てられて、私たちは内側で分裂するようになります。

つまり、自分自身が抱えている「根源的な否定性」と対立し、これと闘うようになるわけです。

そんな風にして「内戦」というのは勃発します。

私たちは、自分で自分と敵対し始め、一人で消耗していってしまうのです。

そもそも、たとえ真理を悟っても、苦しむことはなくなりません。

人によっては、「真理を悟ったら二度と苦しむことがなくなるに違いない」と思っているかもしれませんが、そんなことはないのです。

悟っても「苦しみ」はちゃんとやってきます。

それは「晴れの日」の中に「雨の日」が自然とやってくるようなものです。

そうした「雨」はやってきては去っていき、心を洗い流してくれます。

その「雨」は、私たちを構成する全体のうちの一面である「否定性」の現れであり、私たちにとって「かけがえのない一部」なのです。

もちろん、「苦しみ」の中にいるその時には、そんな風には思えないでしょう。

でも、そこで「苦しみ」から目を逸らすと、その「苦しみ」は成仏できずに内側に残り続けます。

「雨の日」がやってきたのに、その「雨」は降ることができず、心の奥に追いやられるわけです。

でも、それらの「雨」もいつかは降らないといけません。

なぜなら、「実際に雨を浴びること」によってしか、「雨の日」は過ぎ去らないからです。

もちろん、「今にも死にそう」というくらい苦悩が深い時には、いったん「苦しみ」から気を逸らして、落ち着くまでの時間を稼ぐことも有効です。

でも、いつまでもそれをし続けるわけにはいきません。

もしも「苦しみ」から解放されたいならば、どこかの段階で「苦しみ」とは直面しないといけないのです。

「雨の日」は来るべくしてやってきます。

それを避ける術はありません。

なにせ、あのゴータマ・ブッダでさえ、存命中に祖国が滅亡した時には悲しみを感じたそうです。

それなら、しょせん凡夫に過ぎない私たちに「苦しみ」を避けられるわけがないのです。

「苦しみ」を避けようとするのではなく、ただそのまま受け入れる時、それは「雨降り」のように通り過ぎていきます。

その時に降ってくる「水」は、私たちの心についた汚れを洗い流し、もう一度「無垢な状態」にしてくれます。

実際、「苦しみ」を見つめて溶かした後というのは、「解放感」があって清々しいものです。

そして、そのことがわかっているからこそ、私は「苦しみ」という名の「雨の日」が来ても、それを歓迎するようにしています。

とはいえ、だからといって、別に「苦しみ」を追いかけまわす必要もありません。

放っておいても、「苦しみ」はやって来るべくしてやってきます。

あなたの心のドアを「コンコン」とノックするのです。

そこでドアを決して開けないでいることもできますが、
もしそうすると、あなたの心は「恵みの雨」を受けられなくなります。

それでいて、心は「晴れ」ているわけでもなく、いつも「曇って」いたりするのです。

「晴れ」も「曇り」も「雨」の日も、全ては「トータルな生」の一部です。

それゆえ、もしもどれか一つでも切り捨てると、その人は「全面的」であることができなくなり、自分の内側に亀裂が入るようになります。

逆に、もしも全てをそのまま受け入れるなら、その人はもう「苦しみ」を苦しむことがなくなります。

「苦しみ」は心を洗うシャワーとなり、実際に「苦味」を味わう中で、その人の心は再び「無垢」を取り戻すのです。

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