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「成長する意志」を挫ける者はどこにもいない|「自分の責任」を自覚する人は「成長する自由」を生きられる

今回は、皆さんにとってちょっと「耳の痛い話」をします。

「ちょっと」どころか、人によっては「激痛」になるかもしれません。

私としては、特定の個人を攻撃する意図は無いですが、人によっては読んでいて苦しくなるかもしれないので、読む人はあらかじめ覚悟してから読み始めてください。

なお、今回のテーマは、「自分自身の成長を妨げる最大の敵は自分である」というよく聞く話です。

そもそも、私に限らず、世の中には様々な技法を説く人が存在しています。

それゆえ、情報を集めようと思えば、いくらでも実践方法についての情報を集めることができます。

でも、中には「情報だけ集めて実践しない」という人がいます。

というか、世の中のほとんどの人はそうだと思います。

実際、なんらかの講座を開いて技法を伝授したとしても、「それを家に帰ってから自分でも試す人」は十人中一人くらいで、「さらにそれを継続して実践し続ける人」はその中の十人に一人くらいでしょう。

つまり、講座に百人集めても、その中で「ちゃんと実践する人」というのはたった一人しかいないわけです。

これは、世の中の多くの人々の意識が「実際に成長すること」を求めてはおらず、
単に「意味のあることをしている気分」を求めているだけだからです。

講座まで出かけて行って、話を聞いて、講師にリードしてもらいながらその場で試しにやってみると、その人は「何かを学んだ気分」になることができます。

そして、百人中九十人くらいはそれでもう満足して「終わり」です。

家に帰ったら、講座のことは忘れています。

あるいは、習った言葉だけを憶えていて、「こんなことを習ったんだよ」と知り合いに向かって得意げに吹聴するかもしれません。

そしてそれは、当人の「自我(エゴ)」を刺激します。

なぜなら、講師の言葉を受け売りすることで、その人は「虎の威を借る狐状態」になり、「なんだか自分が偉くなったみたいな気分」になれるからです。

このため、講座を次々に受けに行っては、実践はしないで自慢だけする人というのは、いつまで経っても全く成長しません。

というのも、その人の目的は「成長すること」ではなく「自我を満足させること」だからです。


大丈夫ですか?

無意識に息を止めていませんでしょうか?

まだまだ話は終わりませんので、無理はしないようにしてください。


そもそも、「成長する」というのがどういうことかというと、それは「自己破壊からの再創造」です。

実際、「成長」の過程において、当人は「それまでの自分」をいったん壊して、解体します。

つまり、「ずっと安定していたシステム」をあえて機能不全にしてバラバラにするわけです。

ですが、そうして「安定」をあえて捨てることで、当人は「試行錯誤」をすることが可能になります。

その人は、今まで「当たり前」だと思っていたことを疑ってかかるようになり、「無意識にできていた動作」をあえて意識的に点検し直します。

そして、こういった「試行錯誤」を経ることによって、当人は「新しいものの見方」や「より高度に統合された心身の運用」などが可能になっていくのです。

しかし、その過程において当人は、いったん「今の安定」を自分の手で破壊しないといけません。

なぜなら、「今の安定」にしがみついたままだと、「今の自分には理解できないこと」が理解できるようにはならないからです。

「成長」というもののプロセスは、
「低次元の安定を破壊する⇒不安定な中で試行錯誤する⇒より高い次元で統合された安定に至る」ということの繰り返しです。

ここには、「低次元の安定⇒不安定⇒より高次元での安定」という流れがあるわけです。

問題は、真ん中の「不安定」をほとんどの人が望まないということです。

もしも何らかの技法を真剣に実践していくと、必ずどこかの段階で一時的に「生きづらさ」が増大します。

これは、その技法が「真実のもの」であれば、避けることができません。

その人は技法の実践によって「成長」し始め、必然的に「今の安定」が破壊され、「不安定」の中に放り出されます。

そこにおいて当人は「寄りかかれるもの」がありません。

「正解」が何かもわからず、「先行き」も不透明なまま、とにかくもがき続けるしかなくなるのです。

それゆえ当人は、「今まで当たり前にできていたこと」をしようとすると言動がぎこちなくなり、「それまで何の疑問も持たなかったこと」について深く考え込んでフリーズするようになっていきます。

こういった変化が起こることで、多くの人は「退歩してしまった!」と思うのですが、実際にはこれは「前進」です。

その人は「それまでの安定」が順調に破壊されたことで、「成長のプロセス」が回り始めているのです。

その後、「試行錯誤」をする中で、当人の思考は前より深まり、「より本質的な洞察」を得られるようになっていきます。

また、心身の働きも「より高度な次元」で統合されるようになり、以前より安定した状態に至るでしょう。

そして、「さらなる成長」を求める人は、そこからまた「今の安定」をあえて破壊して、「次の試行錯誤」へと向かっていくわけです。

ただ、私たちの「自我」というのは、基本的に「安定志向」です。

そのため、今の時点で特にそこまで困っていない場合、「自我」は「低い次元の安定」をなるべく長期間にわたって維持しようとします。

そして、これはまた、生物としての本能から言っても合理性のあることです。

というのも、もしも「今の安定」を破壊すると、一時的に「エネルギー消費の効率」が悪化するからです。

実際、「今の安定」が失われると、その人は、前よりも考えたり行動したりするのにエネルギーを多く消費するようになります。

一時的に言動が「不安定」になることで、「効率性」が犠牲になるのです。

それゆえ、「自我」だけでなく、本能も一緒になって「成長」に反対してきます。

「今の安定から抜け出すな!」と、「自我」と本能は言うのです。

このため、ほとんどの人は「成長」しません。

なぜなら、もしも「成長」し始めると、「不安定さ」の中で未来を予測できなくなって「自我」が不安を覚えますし、一時的に「エネルギー効率」が落ちてしまって生存戦略上も不利になるからです。

このため、「賢い人」は「成長しないこと」を選びます。

実際、それは理に適っています。

「成長する」ということは、「一時的に不安定になること」であり、「短期的に生存が難しくなること」を意味するので、そういったことを察知できる人は「あえて成長しないこと」を選ぶのです。

それによって、その人の思考や感情の構造は、「幼い」ままで固定されますが、当人は「不安定になるリスク」を取りたくないので、そこから一歩も踏み出さなくなります。

これが「子どもっぽい大人」が生まれてくるメカニズムです。

逆に言うと、ある程度「愚か」でないと「成長」というのはできません。

実際、「今の安定」をあえて壊してでも「新しい景色」が見たいと思う人だけが、前に進もうとします。

つまり、その先で何が得られるか前もってわからない段階で、「とにかく飛び込む」という「頭の悪いこと」ができる人でないと、「成長」というのは怖くてできないのです。


しかし、「成長しないこと」にしがみついている人たちは、「自分は怖いから成長しないでいるのだ」とは決して認めたがりません。

なぜなら、それを認めてしまうと「自我(エゴ)」が傷ついて苦しいからです。

それゆえ、「成長しない人」はみんな、自分に向かって「言い訳」をすることがうまい傾向があります。

たとえば、彼らは習った技法を実践しない時、
まだほとんど試してもいない段階から「これはどうも自分には合っていない気がする」と言います。

あるいは、「自分は忙しすぎてとても実践する時間がない」と言ったりもします。

実際には、どんなに忙しい人でも「一日五分」くらいなら、「自由な時間」は作れるものです。

でも、こういった人々は、「それはできない」と主張します。

「私は悪くない」
「私も本当は実践したいと思っている」
「しかし、まわりの状況がそれを許してくれないのだ」

こんな風に言い訳をして、「一日五分だけ時間を作る」という努力自体を、当人は頭から放棄しようとします。

そして、もしも暇になって時間ができてくると、今度は「今はそういう気分じゃない」と言って、結局何も実践しないのです。

これは、彼らの最優先目標が「成長しないこと」にあるからです。

だから、彼らはありとあらゆる手を使って「実践していない自分」を正当化しようとします。

そして、それによって「今の安定」をどんどん盤石なものにしていくわけです。

このため、「成長する人」と「成長しない人」の違いは「責任の所在をどこに求めるか」にあるのだと言えます。

実際、「成長する人」は「責任は常に自分にある」と考えています。

当人は、もし実践をしないなら、「自分でしないと決めたからだ」と自覚しています。

もしも実践のための時間を作ろうとしないなら、「作ろうと思えばできるのに、自分はあえてそれをしていない」と認めます。

つまり、「実践をしていないことの責任」を他人や周囲の環境のせいにしないのです。

だからこそ、「結局、実践をしていないのは自分が成長を恐れてそこから逃げているからだ」ということにも、当人はやがて気づきます。

後はもう時間の問題です。

当人は「今の安定」にしがみついて息を浅くしていることに、不快感を覚え始めるでしょう。

人によっては「成長から逃げていること」に対して、これを「恥」だと感じるかもしれません。

ただ、ここで言う「恥の感覚」は世間体とは関係ありません。

ここで私が言う「恥」とは、「誇りを失っていることから来る痛みの感覚」のことです。

「成長」から逃げて閉じこもり、「小さな自分」を必死で守っていることを、その人は「誇りの喪失」と感じて苦しむのです。

逆に、「成長しない人」は「誇り」をさっさと捨ててしまいます。

当人にとっては「誇りを守ること」より、「楽に生きていくこと」のほうが大事なので、「逃げ続けること」を選びます。

ただし、「逃げている」という事実を直視すると「自我」が傷つくので、「自分が逃げざるを得なくなっている責任」をいつも他人に着せようとします。

「時期が悪い」
「時間がない」
「気分が乗らない」

そうやって、「できない理由」を作っては、「だからできないのだ」とその人は主張します。

つまり、その人は「できない」という結論を先に固定しまっていて、そこに向かって後から論理を構築しているのです。

逆に、「成長する人」はいつも「それでもできることは何だろう?」と考えています。

仕事が忙しいなら、「プライベートで削れる時間は無いか」を点検しますし、お金がないなら、「タダでも実践できる方法は無いか」を探すでしょう。

実際、どんな状況であったとしても、「それでもできることを探す」ということは、自分の意志一つでいつでも可能です。

そういう意味で、「実践するための五分間を確保する」という試み自体の中で、既にその人の実践は始まっているのです。

このため、「実践を完全に妨げること」は、他人にはできません。

たとえ身体を縛られたとしても、もし「成長しよう」という意志さえあるなら、その人は身体を縛られた状態でもできる実践方法を工夫しておこなうことでしょう。


昔、郭雲深かくうんしんという武術家が中国にいました。

彼は崩拳ぽんけんというかたの達人で、彼が崩拳を打つとそれだけで勝負が決まってしまったため、「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」とさえ称されたそうです。

しかし、俗説によると、ある時に彼は民衆を賊から守るために相手を殺してしまった罪で投獄されたようです。

要は、「不当な罪」を被ることになってしまったわけです。

ですが、郭雲深は牢屋の中で足かせをはめられたまま武術の稽古を続けたらしいです。

後年、牢屋から出られた彼は、そうして「足かせをはめられたままでもおこなえる動き」を編み出し、これを巧みに操ったと言われています。

もちろん、この話はあくまで俗説に過ぎませんので、真偽のほどはわかりません。

ただ、「成長する人」というのは、たとえ実際に牢屋に入れられても、きっと「成長すること」をやめないでしょう。

逆から言うと、私たちが「成長」することを阻む存在は、究極的には自分以外にいないのです。


これを「悲報」と捉えるか、「福音」と捉えるかで人は二つに分かれます。

もしも「悲報」と捉えるならば、その人は自分から目を逸らし続けるでしょう。

なぜなら、もし自分を直視してしまうと、その人は「成長しようとしていない責任はすべて自分にある」と自覚することになってしまって苦しいからです。

逆に、これを「福音」だと感じる人は、
「今の自分でもできるような小さなことを今日この時点から始めよう」と決意するはずです。

結局のところ、何をするのでもいいのです。

「今の自分でもできることを愚直にする」という、ただそれだけのことで、人は少しずつ前進していくことができます。

その人は何をするのも「自由」です。

そこにおいては、ただ「今の自分にできること」をやってみたらいいだけなのです。

そもそも、「自由」と「責任」いうのは、「同じコイン」の裏と表です。

それゆえ、「自分に責任がある」と認める人は、同時に「自由」を獲得します。

その人は、「今の自分でも自由にできること」を探しては、ただ愚直にそれをするでしょう。

反対に、「責任」を避けようとする人は「自由」を得ることができません。

当人は絶えず、「自分は外側の状況や他人によって縛られている」と考え続け、「責任」を外側に着せ続けます。

確かにそれは「楽」なのですが、代わりに当人は「今の自分でも自由にできること」が、構造的に見えなくなってしまうのです。

それゆえ、もしも「責任」を背負うなら、その人の目には自然と「今の自分でもできること」が見えるようになっていきます。

それは時に、「ものすごく小さなこと」かもしれません。

ひょっとしたら、あなたの足にはかせがはまっていて、うまく身動きが取れないかもしれません。

しかし、それでも「何かしようと意志すること」までは、この世の誰にも縛れないのです。

あなたの「意志」が、あなた自身を「自由」にします。

そうして、あなたが試みる「小さな一歩」が今日のあなたを活き活きさせ、「明日の成長」を準備することになるのです。

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