最近は言わなくなっていましたが、私は一時期、「瞑想」のことを「祈り」と表現していたことがありました。
もともと、この表現は、カビールという北インドの神秘家から借りていたものです。
カビールは「織工」という職業の人で、いわゆる機織りを生業にしていたのですが、彼の弟子たちはこれについてカビールに「もう機織りはやめたらどうか」とよく言っていたそうです。
なぜなら、織工は当時のヒンドゥー教の基準において、最低ランクの職業だったからです。
国王さえもが彼の弟子になり、彼にこう言っていたそうです。
あなたがいまだにそうして機織りをして、ご自分で織った布を市場に売りに行かれることを、私は恥ずかしく思っています。
必要なものは全て用立てましょう。
そんなことをする必要はもうないのです。
しかし、それでもカビールは生涯ずっと機織りをし続けたそうです。
彼の言い分はこうです。
それは重要なことではありません。
私はただ、将来の人々に「織工でも光明を得ることはできる」ということを、覚えていてもらいたいのです。
機織りは決して「光明」の邪魔にはなりません。
むしろ、機織りが私の「祈り」となるのです
どんな身分であったとしても、「光明」を得ることはできるし、機織りという「ヒンドゥー教的に卑しい仕事」は、「光明」の妨げとはならない。
このことを証明するために、彼は機織りを続けていたのです。
現代の私たちも、こんな風に思いこんでいないでしょうか?
「コンビニのアルバイトが悟っているなんてありえない」
「田舎の名もなき百姓に真理なんてわかるわけがない」
でも、本当にそうでしょうか?
私は、それも思い込みなのではないかと思っています。
本当は、「光明」を制限できるものは何もありません。
その人の心が「自由」であれば、たとえどんな身分の人だったとしても、その人は既に悟っています。
むしろ、「こういう身分の人しか『悟った人』として認めない」という風に考えてしまうことによって、私たちは他人を束縛するだけでなく、自分のことまで束縛しています。
なぜなら、もしもそういう考え方を採用してしまうと、「現に身分の低い人」は、「きっと自分が幸せになることは不可能なのだ」と思うようになってしまうからです。
でも、たとえどんな身分であっても、「幸福」になることは可能ですし、仮に社会的な地位が低くても、それは「光明」の邪魔にはなりません。
私自身、今はこうして道楽で毎日文章を書く以外に何もしていない無職の人間で、世間で名を知られているわけでもありません。
そうして私は、なけなしの貯金を切り崩しながらダラダラ生きていますが、それで十分に「幸福」ですし、「自分は悟れていない」とも思っていないのです。
むしろ、「たとえ何をしていようと、『光明』は消えることがない」と、私は思っています。
なぜなら、もしも私が本当に「瞑想的」であるならば、私のすることは何であれ「祈り」になるからです。
カビールは続けてこう言っています。
私は彫刻家にはなれないし、偉大な画家にもなれませんが、「誰も私のようには布を織ることができない」となら言うことができます。
私は一息ごとに「祈り」と「感謝」をこめて布を織ります。
私は市場で売るためではなく、「神」に仕えるために、自分にとって最良の仕方で「存在」に仕えるために織るのです。
私は昔、このエピソードを初めて読んだ時、「美しい生き方だ」と感じました。
でも、その時は「存在に仕えるため」という部分の意味が、まだよくわかりませんでした。
「神」ならまだなんとなくイメージできるのですが、「存在」というのがいったい何なのか、当時の私にはわからなかったのです。
しかし、今はこう思っています。
彼はきっと「自分を超えた大きなもの」に、自分自身を明け渡しながら、日々、布を織っていたのです。
もしも瞑想の実践を続けていくと、その人はどこかの段階で「無努力な覚醒」に至ります。
これについては昨日、二つ記事を書いたので、気になる人はそちらも読んでください。
【関連記事】
探求の後半戦における「無努力の実践」について|人は恐れゆえに「努力」にしがみつく
【補足記事】「無努力の受動的な覚醒」を培うスモールステップのご紹介
実践を始めた最初のうちは、「瞑想をしよう」と意図して集中していないと「瞑想状態」には入れなかったのに、実践を続けていく過程で、段々と努力しなくても「瞑想状態」が持続するようになります。
つまり、「何をしているか」という「外側の行為」によって、「瞑想」が妨げられなくなるのです。
言い換えるなら、「自身の光明」を表現する時に、「外側の職業や身分」に左右されなくなるということです。
その人はもう、たとえどこで何をしていても、「瞑想」を妨げられなくなります。
そして、この状態になると、当人は徐々に「自力」を離れて「他力」によって生かされ始めます。
それまでは「自分で意識的に頑張って瞑想していた」わけですが、「瞑想」が「自力」から解放されたことで、物事が自然と流れ出します。
「ずっと握りしめていたもの」が手放されることで、「起こるべきこと」が起こり始め、その人は「為すべきこと」を、ただ為すだけの状態になるのです。
その時、主観的には「何か大きなもの」によって自分が流されていくように感じるようになります。
当人は何も「計らい」を持っていないのに、物事は自然と「在るべき形」に整っていき、最終的には全てが上手く着地するのです。
しかしそれは別に「引き寄せの法則」のような魔法ではありません。
なぜなら、もしも当人が「大きな流れ」に身を任せると、その人は一時的に「地獄」に連れて行かれるかもしれませんし、「受難」を経験する可能性もあるからです。
実際、古代ギリシャの哲人ソクラテスは「鬼神(ダイモン)の声」に導かれて活動をした結果、死刑になってしまいましたし、ナザレのイエスが「神の声」に従って伝道をした結果、磔刑にされて死んだことを知らない人もいないでしょう。
ですが、そこには彼らにとっての「祈り」が表現されており、彼らは「他の誰にもできない仕方」で「大きな何か」に仕えながら、流されるように生きたのです。
多くの人は「流される」ということをネガティブに考えがちですが、それは人々がこの言葉についてイメージする時、「長いものに巻かれること」を連想するからです。
実のところ、「探求のスタート地点にいる人」と「探求のゴールを越えた人」は、どちらも「イエスマン」です。
「スタート地点」にいる人は、「教師(ティーチャー)」が言うことに何の疑いも持たず、何でも言われたとおりにします。
当人は相手の権威や身分しか目に入っておらず、「この人の言うことなら間違いない!」と思い込んで、無批判に何でも鵜呑みにするのです。
しかし、そうすることによってその人は相手に寄りかかってしまい、自分で考えることがなくなります。
「既存の教え」や「教師の権威」に完全に依存してしまい、いつまでも「自分の足」で立つことができなくなってしまうのです。
逆に、「探求のゴールを越えた人」は、既に「自分の足」で立っています。
彼/彼女はいかなる「教師」や「教え」にも寄りかからずに、自分の内側に「源泉」を持っています。
だからこそ、その人は「他人からの借り物の知識」ではなく、「自分自身の内なる光」を人々に分け与えることができるのです。
しかし、その人の「内なる光」の真の源泉は、「当人の中」だけに留まるものではありません。
その人はきっと感じるはずです。
自分の内から溢れる「智慧」は、「どこか別なところ」からやってきている、と。
実際、もしも「探求のゴール」に到達すると、その人は「自分」という枠を超えて活動し始めます。
当人は、それまで「自力」では不可能だったようなことを易々とおこなえるようになり、人々に分け与えるための「智慧」がいくらでも湧いてくるようになるのです。
その時、当人は、自分が「何か大きなもの」によって生かされているのを感じ始めます。
そしてさらには、「結局のところ、自分という人間は『大きな何か』が自身をこの世で表現するための通路なのだ」と感じるようになるのです。
そうして人は「代弁者」のようになっていきます。
彼/彼女は「大いなる何か」の代わりに、人々に「光」を分け与え始めます。
その「光」は、自分自身の中だけに「源泉」を持つものではなく、「どこか違うところ」から、その人の胸にある「ハート」を門として使うことで、この世に流れ込んできたものです。
だから、当人はこのような「大いなる存在」に対して、いつも「イエス」と言っています。
当人は、「存在」にただ流されるまま生きていき、結果として、たとえ「どんな場所」に行き着くことになったとしても、それについて文句を言いません。
だからこそ、私はナザレのイエスが死の間際に「神よ、なぜ私を見捨てたのですか?」と問うた逸話を信じないのです。
なぜなら、もし彼が本当に「存在=神」に自身を明け渡していたのなら、彼はその「結末」に対しても、「ノー」とは言わなかったはずだからです。
このように、「探求のスタート地点にいる人」と「探求のゴール地点を越えた人」は、どちらも「イエスマン」になります。
「スタート地点にいる人」は社会や他人に従いますが、「ゴールの向こう側に行った人」は、たとえ社会や他人に逆らうことになってでも、「存在」に仕えようとします。
だからこそ、「存在」に仕えたばっかりに、死刑になったり追放されたりした人々が、歴史上にはたくさんいたわけです。
あなたには、それだけの覚悟がありますか?
今の時点ではなくても別に構いませんけれど、最終的に悟った結果、あなたが「どんな結末」に運ばれていくかは誰にも予測できません。
もちろん、ゴータマ・ブッダのように高齢まで生きる例もありますが、あなたがそうなるという保証はないのです。
しかし、きっと「存在に仕える」ということの意味と価値とを知った人は、「受難」も「法難」も意に介さないでしょう。
なぜなら、そういった「外圧」に屈して自分を曲げることは、「存在」に対する裏切りだからです。
私がこうして文章を書く時、それは私にとって「祈り」となります。
その時、私は内側に「存在」がやってきているのを感じています。
私は、自分自身の心身を「寺院」とし、「大いなるもの」の臨在を感じながら書くのです。
そして、それこそが、本来の意味での「祈り」なのだと、私自身は思っています。
一方、世の中には、モスクや教会に行って、形式通りに祈っていても、内側に何の「覚醒」もない人々がたくさんいます。
しかし、私からしたら、それは「祈り」ではありません。
私にとっての「祈り」とは、「覚醒」によって自分という「寺院」を祓い清め、そこに「存在」を招き入れることです。
その時、私は「大いなるもの」とつながって言葉を紡ぐようになります。
それらの言葉は、「私の物」ではありません。
なぜなら、その源泉は、「私自身」を超えているからです。
私は世の中で全く知られていない無名な物書きの一人ですが、
「誰も私のように言葉を紡ぐことはできない」となら言うことができます。
私にとって「書くこと」は、私にできる最良の仕方で「存在」に仕えるための「祈り」なのです。
もしもあなたが「外側の寺院」に寄りかかることをやめ、「内側の寺院」を「覚醒」によって祓い清めるならば、その時、「存在」があなたを訪れるようになるでしょう。
そうして「起こるべきこと」は自然と起こり、あなたは「為すべきこと」を為し、「然るべき場所」へとあなたは流されていくことになります。
その時、未来を予測することは不可能です。
あなたは「明日」をも知れぬまま生きることになり、常に「今日」という日を、瞬間から瞬間へと、「一つの光」のように生きるでしょう。
「そんなのはごめんだ!」と言う人にとって、「光明」はついに無縁なままです。
「わかり切った明日」にうんざりし、「変えられない昨日」に片足をつかまれ、「いつもと同じ今日」に食傷した人だけが、真に探求へと向かいます。
そして、いつかその人は知るはずです。
「悟り」とは、「今日を生きること」だと。
そこにおいて当人は、「明日」を思い煩うことなく、「昨日」を振り返ることもないまま、「今日の自分がすべきこと」をただするだけです。
その時、「未来」と「過去」は溶解し、「今」という足場さえもが溶けて消えます。
そのようにして、その人は、「何か大きな流れ」に巻き込まれながら、
この暗闇に満ちた世界における「一つの灯火」として生きるのです。

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