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【補足記事】「無努力の受動的な覚醒」を培うスモールステップのご紹介

ひとつ前の記事で、「探求の後半戦」において「無努力を育てる」という方向性を書いたのですが、実践する上で指針となるような、「もう少し具体的なこと」についても付け加えて書いておこうと思います。

なお、元記事はこちら。

【元記事】
探求の後半戦における「無努力の実践」について|人は恐れゆえに「努力」にしがみつく

この記事の中でも書いていますが、「探求の後半戦」では「無努力で受動的な覚醒を維持する」ということがベースになります。

ただ、これは必ずしも「見性」を得てからでないとできないわけでもなくて、むしろ日常生活の中で瞑想を試み出したら、自然と直面する課題です。

実際、私も「見性」を得るより前の段階で、この課題に着手していました。

たとえば、私は当時、とある障害者福祉施設で働いていたのですが、私は時々、車で利用者の送迎に出ることがありました。

そういった時、「利用者が車に乗っていなくて、後は目的地に向かうだけ」という状況の場合にだけ、「何も作為しないで運転を身体に任せ切る」ということをよくやっていたのです。

車の運転はもう慣れていたので、特に意識しなくても身体がオートでやってくれますし、いつも走っている道でもあるので「どっちに進んだらいいか」を、いちいち考えなくて済む状況でした。

また、利用者が乗っていないので、考えて会話をする必要性もなく、ただ頭を空っぽにして運転だけしていればよかったわけです。

当時の私は、仕事中に送迎を任される度に、「ラッキー!」と思ってこれを実践していました。

なぜなら、そんな風に「何も作為しないでただ運転している身体を眺めているだけ」という状態の時は、とてもリラックスできて心地よかったからです。

実際、運転中に見える景色や聞こえる音などに受動的に気づきながら、特に何も作為せずに運転していると、私はだんだん愉快になってきました。

運転をしているだけで心身が徐々にリラックスしてきて、思わず鼻歌を歌ったりすることもあったほどです。

しかし、内側では「透明な気づき」とでも言うようなものが持続していて、時々現れては消えていく思考や感情や感覚を、空の雲でも眺めているように観ていたのです。

それは本当に、「何もつかんでいない状態」でした。

「こうでないといけない」ということも考えておらず、「頑張らなきゃ」とも思っていませんでした。

にもかかわらず、身体は実にスムーズに動き、車を快適に運転し続けていたのです。

ただ、こういったことができたのは、当時の私がそれまでに瞑想の実践を積んで、「気づいていよう」と思わなくても、ある程度受動的に「覚醒」を保てるようになっていたからです。

ずっと集中していなくても自然と「覚醒」を保てるようになっていないと、たぶん気づいたら考え事に夢中になって我を忘れてしまい、思考でいっぱいのまま運転することになっていたでしょう。

そしてそれが、世間一般の人々にとっての日常生活というものだと思います。

なので、ある程度は瞑想の実践を積んでいることが前提にはなりますが、もし日常生活の中に瞑想を持ち込み、「無努力で受動的な覚醒」を根付かせていく局面に差し掛かった場合には、ぜひ「気楽にできること」から始めてみてください。

たとえば、「もう身体がすることをすっかり覚えていて、考えなくてもオートでやってくれる場合」とか、「たとえ多少失敗しても、特に問題にならない状況」とかから始めると良いと思います。

ちなみに、ある読者の方は、これを調理中に試してみたそうです。

「仕事で人に出す料理を作る時」とか、「お客さんに食べてもらうものを作る時」とかではなく、ただ「時間にゆとりのある状況で、自分で作りたくて作る時」にやってみたようです。

そうして、作為せずに「受動的な覚醒」だけを保ちながら調理していると、ミスをすることもあったそうですが、全部終わってみたら、うまいこと着地ができていたとのことでした。

こんな具合で、「すでに慣れていること」や「時間的なゆとりがあるタイミング」、また「ミスをしても特にそれを誰かから咎められたりしない状況」などが揃った時に、「自分の身体がやっていることをただ眺める」という実践をしてみると良いと思います。

要は、「失敗の恐れ」や「結果への執着」に囚われにくい状況で試すわけです。

すると、「覚醒」を保つことは思いのほか容易に感じられるものですし、「ずっと覚醒して、ちゃんと全部をコントロールしなきゃ!」と思って力んでいもいないので、心身は徐々にリラックスしていくはずです。

人によっては「心地よさ」や「解放感」を感じることもあるかもしれません。

そうして何度か繰り返していくうちに、
「無努力で受動的な覚醒を保つって、こういうことか!」と、感覚的に納得がいくようになるのではないかと思います。

そんな具合で、「無努力で受動的に覚醒するだけ」という感覚がいくらかつかめてきたら、徐々に他の状況でもそれを試していきます。

たとえば、「道を歩く時」は歩いている身体をただ眺め、「簡単な仕事を一人でしている時」にも動いている身体をただ眺めます。

逆に、「難しい作業」や「ミスの許されない仕事」をしている時、あとは「人との会話」などの際は、「受動的な覚醒を保って観ているだけ」というのは難しいですが、最初のうちはそれができなくても、別に落ち込む必要はありません。

多くの人が瞑想を日常に持ち込む際に「失敗」してしまうのは、「今すぐ、起きてから寝るまでずっと覚醒できるようにならないといけない!」と思うからです。

別に焦る必要はありません。

「受動的な覚醒」を保っていられる状況を見つけて、少しずつ試していってみてください。

そうして、日常の中で「ミスしてもいい状況」や「簡単な作業」をするタイミングを見つけては、「受動的な覚醒」を深めていくことで、徐々に「覚醒」は「第二の天性」のようになり、常に持続するようになっていきます。

もちろん、「難しい作業」や「他人との会話」をする際には、「自我」も使うことになりますが、徐々に「結果をコントロールすること」への執着が落ちていくので、心身から「力み」が抜けていくでしょう。

要は、自然体なままで「作業」や「会話」ができるようになっていくわけです。

この自然体が「日常のベース」になる頃には、「生活を通して瞑想する」というのがどういうことか、自分なりに理解できるようになっているだろうと思います。


ということで、前回の記事への補足について書きました。

「無努力の覚醒」を定着させていく場合には、
「時間的なゆとりがあって、失敗が許容される状況で、慣れていることをしている時に実践する」ということから始めてみてください。

逆に、
「時間的なゆとりがなく、失敗が一切許されない状況で、まだ慣れてもいない作業をしている時」に実践すると、たぶんうまくいかなくて落ち込むことになってしまいます。

どんなに忙しい人であっても、日常の中にきっと一つくらいは「ゆったりした気持ちでいられる時」があると思うので、そこを「聖域」だと思って、実践してみてほしいと思います。

そうすれば、やがてその「聖域」で培った「受動的な覚醒」は、日常の中に徐々に浸透していくことになるでしょう。

以上、「努力を去って受動的に覚醒するためのスモールステップ」でした。

「受動的な覚醒」について感覚がわからない人は、ここを「とっかかり」にして実践をしてみてくださいね。

それでは。

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