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「覚者」とは「何も書かれていない本」である|「自由」だけが、「全ての覚者」の共通点

あなたは「悟った人」というのは、どういう人のことだと思いますか?

「悟った人」のことを、「覚者かくしゃ」と言ったりもしますが、実のところ、「覚者の定義」は人の数だけあります。

実際、「極めて高潔な人格を持った人こそが覚者だ」と思っている人もいれば、「宙に受けて水の上を歩ける人が覚者だ」と思っている人もいます。

または、「膨大な知識を持っている人」のことを「覚者」だと思っている人もいれば、「何時間も微動だにせずに坐り続けられる人」のことを「覚者」だと思っている人もいます。

どうしてこういうことになるかというと、「覚者」という言葉が「空っぽ」だからです。

「覚者」というのは「悟った人」という意味なのですが、「じゃあ、その『悟り』っていったい何なんだ?」ということになると、誰もが納得するような「明確な答え」がありません。

つまり、「悟り」という言葉も、「覚者」という言葉も、「何も書いていない本」みたいなものなんです。

だからこそ、人はそこに何でも「自分の好きなもの」を書き込むことができます。

言い換えれば、「自分自身が見たい夢」を、「覚者」に向かって投影することができるのです。

たとえば、「超能力を身に着けたい」と思っている人は、その自分の願望を相手に投影し、「凄まじい超能力を身に着けている人」のことを「覚者」だと思います。

また、「人格的な完成に至りたい」と思っている人は、「高潔な人格の持ち主」を見ると、「この人こそ覚者だ」と考えます。

要は、「自分が見たいもの」を相手に押し付けて、自分の中で判定しているわけです。

そもそも、人にはみんな「自分だけの試金石」があります。

そして、誰か他人が目の前に現れると、その「試金石」をあてがっては、相手のことを判定します。

「こういう人間だったら誉めてやろう」
「こういう人間だったら貶してやろう」

そんな風に「自分自身の評価基準」を握りしめては、相手のことを品評するのです。

その上で、「自分自身の眼鏡」に適った人のことだけを「覚者」と認めて、その話に耳を傾けるわけです。

なので、「覚者」というものに「どんなイメージ」を持っているかによって、その人が握りしめている「理想」を判定することができます。

つまり、「覚者というのはこういう人間のはずだ」というイメージそのものの中に、その人にとっての「理想」が表れているのです。

別に、私はそれが「悪い」と言いたいわけではなく、「人間というのはそういうもんだよ」と言いたいだけです。

現に、私の中にも「理想」があります。

私にとっての「理想」とは、「自由であること」です。

私にとって「自由」以上に価値のあるものはありません。

私の中では、「自由」こそが最も価値のあるものなのです。

だからこそ、私は「自由な人」のことを「覚者」と呼びます。

逆に、「不自由になっている人」のことは、「『自分の悟り』を一時的に見失っている人」として見ています。

なぜなら、私自身の「理想」が「自由」だからです。

でも、「自由」っていったいなんでしょうか?

私にとって「自由」とは、「自分で自分を束縛していないこと」です。

簡単に言えば、「こうでなければならない」という思い込みを、内側に一つも持っていないことが「自由」です。

世の中では「自由」と「勝手」が混同されていますけれど、実のところ、「勝手な人」というのは「不自由」なものです。

なぜなら、「勝手な人」というのは、「外側から押し付けられていること」に対して、ただ反抗しているだけだからです。

実際、そういう人は周りから注意されると、「うるせー!オレの勝手だろうが!」と言います。

つまり、その人は「外側の条件によって自分は束縛されている」と思っているわけです。

そして、その「外側の条件付け」に対して反抗せずにはいられなくなって、「勝手なこと」をするのです。

ですが、「自由な人」は「外側の条件」を束縛であるとは考えません。

たとえ身体を縛られて牢屋に放り込まれても、そのまま牢屋の中で悠々ゆうゆうと呼吸できるのが「自由な人」です。

なぜそんなことができるかというと、その人が自分で自分を縛っていないからです。

要は、「こうでないといけない」という想いを一切抱えていないのです。

だからこそ、「黙って牢屋に入っていなければならない」とも思っていないので、もしも脱獄するだけの「内的な必然性」を感じれば、その人は「牢獄の壁」をぶち破ることについても全く躊躇しません。

そういう意味では、「外側」に動機があるのが「勝手な人」で、あくまで「内側」に動機のある人が「自由な人」です。

このため、「自由な人」は自分の選択の責任を決して他人に負わせたりしません。

「自由な人」は、常に「全ての責任は自分にある」と思っています。

これに対して、「勝手な人」は、「悪いのはいつも他人だ」と思っています。

そして、その「他人」はこちらの思った通りには動いてくれないので、そんな「コントロール不能な他人」に常に文句を言い続ける「勝手な人」が、「自由」であることは不可能なのです。


なんとなく頭がグルグルしてきました?

「自由」というのは、実に複雑なものなので、考え出すとわけがわからなくなるところがあります。

でも、「自由」というものの「身体的な実感」については非常にシンプルです。

それは、「深く悠々と呼吸ができている」ということです。

もしも深く悠々と呼吸ができているならば、その人の中には迷いも疑いも存在していません。

そして、落ち着いて物事を見ることができているために、当人は「自分の責任」も明確に自覚しています。

それにもかかわらず、その「責任」に押しつぶされることもなく深く呼吸ができているからこそ、その人の心と身体は融通無碍ゆうずうむげな動きが可能となるのです。

実際、呼吸が詰まってしまっている時、その人の心と身体は何らかの仕方で束縛されて、「自在な動き」が取れなくなっています。

「こうなったらどうしよう…」
「こんなことになったらおしまいだ…」

そんな風に迷いや疑いに囚われることで、その人は呼吸が浅くなるのです。

なので、私にとっての「理想的な人生」というのは、「どこまでも悠々と深く呼吸し続ける人生」です。

もしも呼吸が詰まっていないなら、私は自分を束縛しておらず、「自由」であるということになります。

そして、「そんな状態で生きてい死にたいものだ」と、私は常々思っているわけです。

これが私にとっての「理想」です。

だから、私にとっては「自由な人」こそが「覚者」ということになります。

そして、人というのは、もしも本当に「自由」になると、「本来の自分」を表現し始めます。

その人は、「悟り」を得ることによって、
「親や教師たちによって歪められなければそのようであったであろう人間」になるのです。

親や教師はみんな言います。

「怒るな」「泣くな」「反抗するな」と。

そして、私たちは自分の中の「怒り」と「涙」を飲み込んでは、「大人の言いなり」になるのです。

でも、もし「こうでなければならない」という観念が自分の中から消え去ると、こういった「教育」の効果も全てかき消されます。

その人は怒るべき時には躊躇なく怒るようになり、泣きたくなったら迷わず泣くでしょう。

世の中の多くの人は、「悟った人というのは感情や欲望がないに違いない」と思っていますが、別にそんなことはありません。

「覚者」の中にも感情や欲望はあります。

ただ、「覚者」はそれらを「在ってはならないものだ」と考えて自分を束縛しないのです。

そして、だからこそ、「覚者というのはこういうものだ」という風に語ることはできません。

ある人は、悟ることによって歌を歌い出すかもしれないし、別なある人は、悟ったことで踊り始めるかもしれません。

少なくとも、当人は「そうしてはいけない」という観念を持っていません。

しかし、世の中の人々はそれを許容しないのです。

人々は、自分の中にある「理想」を彼らに向かって投影し、「歌ったり踊ったりする人が悟っているわけがない」と考えます。

でも、「悟っている側」のほうは、周りがどう思おうが、そんなことをまるで気にしません。

なぜなら、「他人がどう思うか」によって自分を束縛するのは「不自由なこと」だと、その人は知っているからです。

このため、「自由な覚者」は世界中の人から「お前は悟っていない」と言われても、それを意に介さずに歌い続け、踊り続けます。

そして、それこそが「自由である」ということの意味なのです。

私の見るところ、人は「悟る」と「そのまんま」になります。

もしその人が歌うように生まれついていれば、悟ることによってその人は歌い出します。

また、もしその人が生まれながらのダンサーだったなら、もはやその人が踊ることを止められる人は、この世のどこにも存在しなくなるでしょう。

だから、「覚者」というのは「こういう人なんだ」という風に枠にはめることは不可能なのです。

なぜなら、誰もが生まれつき「ユニーク(唯一無二)」だからです。

「悟った人」は、みんな例外なく「ユニーク」になります。

そうしてその人は誰とも違う「その人だけの仕方」でもって、「自分の悟り」を表現し始めます。

彼らの共通点はただ一つです。

それは、「自由」であるということに他なりません。

何ものにも縛られず、「内側の必然性」に身を任せて、「生まれながらにするはずだったこと」を、ただする人。

それが「覚者」です。

そして、彼らは内側にいかなる「理想」も持っていません。

なぜなら、もしも「理想」を持っていると、「こうでないといけない」という想いに囚われて「不自由」になってしまうからです。

だからこそ、「悟った人」はいつも「理想」を手放します。

その人は、あらゆる固定観念を捨て続け、「こうでないといけない」という思考を絶えず脱臼だっきゅうさせ続けます。

言い換えるなら、「いかなる理想も持たないこと」というのが、彼らに共通の「理想」なのです。

でも、果たしてそれを「理想の一種」と呼べるのでしょうか?

ともあれ、私にとっては「自由であること」こそが「理想」です。

そしてそれは、「理想を持たない人生を理想とする」というパラドクス(逆説)を生み出します。

それゆえ、頭で考えるとわけがわからなくなりますが、先ほども書きましたように、身体的には極めて話はシンプルです。

「深い呼吸ができているかどうか」

それが全てです。

もしも深く呼吸ができているなら、その人は束縛されておらず、矛盾を矛盾なく生きることができています。

あなたの呼吸は今、深いですか?

それを確認することこそが、「あなたの自由」の入り口です。

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