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「いかなる主義も持たない」という主義|「自由教」の信者として、誰もがただ独り生きる道

ここ数日、立て続けに複数の読者の方とネット上でやり取りする機会があり、読者の温度感がなんとなく伝わってきました。

私が思っていた以上に、「温度の高い読者」が多かったようです。

つまり、かなり「熱意」を持って読んでいる人が実際に存在することがわかってきたのです。

ただ、私はいつも言っていますが、読者には常に「自由」であってほしいと思っています。

別に私と同じ人間を目指す必要はありませんし、私と同じ考え方をしなければならないわけでもありません。

むしろ、私の言葉に寄りかかって、「自分で感じ、自分で考える」という在り方を放棄してほしくないと思っています。

なので、私の目標は、「湯浅原理主義者」を当ブログから一人も輩出しないことです。

つまり、私の名前や意見に寄りかかって、それを他人に強要する人を一人も出さないことが、私の目標の一つなわけです。

とはいえ、受け取った側が何をするかは私にはコントロールできないので、可能かどうかはわかりません。

でも、「理念」としてはそういう方向です。

むしろ私は、誰もが「自分自身」を生きるような社会を望みます。

私は人々に、よそ見をしたりせず、真っ直ぐ「自分の人生」を生きてほしいのです。

もちろん、「そんなのやなこった」という意見もあるでしょうし、それがその人にとって「自分自身の答え」なら、私はこれを尊重します。

なぜなら、その人は「私の言うこと」に従わないことによって、かえって「自分自身」であることができるからです。

私は「いかなる主義も持たない」ということを主義にしています。

なぜなら、私は自分のことも他人のことも決して縛りたくないからです。

そういう意味で、私は「自由教」の信者です。

私にとって最も価値があるのは「自由」であり、他人にも「自由」であってほしいと望んでいます。

そして、だからこそ、私は決して「自由」を強要しません。

なぜなら、強要された時点で、それは「自由」ではなくなるからです。

また、「自由教」には「教義」というものがありません。

私はいつも心のままに生きており、昨日まで有効だった考え方も、今日はもう妥当でなくなっていたりします。

このため、「自由教の信者」たちは、「共通の教え」というものを持ちません。

「自由教の信者」たちは、誰もが自分の心の中に「守るべきルール」を持っていて、みんな瞬間ごとに即興的に「ルール」を作り出しながら生きています。

そのため、「同じルールに従っている人」は自分の他に存在せず、基本的に「自由教」は「個人宗教」になります。

そこにおいては、自分こそが「教祖」であり、自分だけが唯一の「信者」なのです。

そして、誰もがそんな風に、「自分の自由」を生きる世界を私は望みます。

そこには、価値観や考え方の違う無数の人々の「緩い連帯」が存在しています。

世の中の人々は、「価値観や思想を共有していないと連帯できない」と思い込んでいますが、そんなことはありません。

そもそも、私たちはみんな違います。

「同じ人間」は一人もいません。

だからこそ、「同じ価値観や思想を強要すること」は、人々の「独自性」を台無しにしてしまうことにもなります。

しかし同時に、私たちは誰もが「自分の人生を生きて、自分の死を死ぬしかない」という宿命を背負っています。

つまり、「誰も代わりに『自分』を生きてはくれないし、『自分の人生』を生きるのは他でもない自分自身なのだ」という点において、私たちはみんな「同じ」なのです。

それゆえ、「この世に同じ人間は一人もいない」ということと、「誰もが自分を生きているという点では同じだ」ということとは両立します。

つまり、私たちはみんな「違う」と同時に、実は誰もが「おんなじ」なのです。

だからこそ、私たちはそれぞれの「自由」を維持したまま、「仲間」であることができます。

「自分の足」で立つこと。

それが、私たちを結び付ける「旗印」です。

実際、「自分自身」を生きている人は、たとえ私の言うことにまるで従っていなくても、私と同じ「自由教」の信者です。

でも、たとえ私の言葉に従っていても、それによって、その人が「自分の人生」から目を逸らしてしまうなら、その人は「自由」であることができなくなります。

なので、最終的には私の言うことは全部忘れてください。

「答え」は、いつだってあなたの心が知っているはずです。

そして、それだけが「唯一の道標みちしるべ」です。

私にできることは、ただあなたが「自分の心」に帰っていくのを、ほんの少し後押しすることだけなのです。

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