当ブログの文章と筆者の著作物は全て著作権フリーですので、どうぞご自由にお使いください。

「悟り」に「自分の欲求」を投影する人々|自分の中の「最も根源的な欲求」を理解する

先ほど、また読者の方とメールでやり取りをしていたのですが、あらためて「悟り」というのは、「罪な言葉」だと思いました。

そもそも、「悟り」という言葉には、何千年にもわたって非常に多くの手垢がついています。

たとえば、「悟り」というと、何か「超常的な力」が目覚めることだと思っている人もいますし、「人格的な完成」のことだと思っている人もいます。

つまり、人によって「悟り」という言葉の意味するところが全然違うのです。

普通、言葉に手垢がつく時というのは、解釈が単一化していきます。

要は「ステレオタイプ」になっていくわけです。

しかし、「悟り」という言葉は、これだけ多くの手垢がついているにもかかわらず、人によってそこに付与している「幻想」が多種多様です。

それはたぶん、「悟り」という言葉の実態があまりにも不透明過ぎて、それぞれの人が好きに「自分の欲求」を投影できるからでしょう。

たとえば、「超常的な能力」を欲している人は、「悟り」という言葉の向こうに「超能力」を見ますし、「人格的な向上」を求めている人は、「悟り」に到達することによって人格が完成すると思うわけです。

そんな風に、「当人が抱いている欲求」によって「悟り」が何に見えるかが変わってしまうため、それぞれの探求者は、道の途上において意見がなかなか一致しません。

なにせ、かたや「超能力を得たい」と思っていて、かたや「人格の向上こそが価値だ」と信じているわけです。

これだけ多様な価値観を飲み込んでおきながら、「真理の探求」という一つのジャンルとして成立しているのは凄いことだと思います。

ただ、私たちの中にある「根源的な欲求」というのは、非常にシンプルです。

それは、「幸福に生きたい」ということです。

これはぜひ、ご自身の抱いている欲求についても適用して、検証してみてほしいです。

つまり、「自分が本当に望んでいることは何だろう?」と自問してみてほしいのです。

一見すると、この世には何千種類もの欲求があるように思えます。

ある人は「超能力」を得るために探求をしますし、別なある人は「人格の向上」を求めて探求します。

また、「年収を増やすため」に何かを学ぶ人もいれば、「結婚するため」に婚活する人もいます。

そして、欲求の種類がたくさんあるからこそ、それに対応するアクティビティが何千種類も生まれてきます。

需要があるところには供給も発生するわけです。

「超能力が欲しい」という人がいるからこそ、そういった「超自然的な力」を目覚めさせることに特化した修業コースが用意され、「年収を増やしたい」という人がいるからこそ、各業種ごとのセミナーが催されます。

だからこそ、世界には数えきれないほどの道と指導者が存在しており、人によっては「いったいどれを選べばいいんだ?」と困惑してしまうことでしょう。

でも、それら何千種類ものアクティビティは、全て「たった一つの欲求」に根を持っています。

それが、先ほども言いましたように、「幸福に生きたい」という欲求です。

たとえば、「超能力を得たい」と言う人の動機の根っこを掘っていくと、「もし超能力を得られたら人から尊敬されるから」だったりします。

さらに掘っていくと、「尊敬されれば、自信が持てるようになると思ったから」と感じていたりします。

さらにさらに掘っていくと、「自信を得られれば、安心して生きていけると思ったから」という動機が出てきて、「どうして安心したかったか」というと、「安心できたら幸せになれると思ったから」です。

この先はもうありません。

「幸せ」こそが私たちの「動機の終着点」です。

「人格の向上」を求めている人も、「人格の向上」それ自体を求めているわけではなく、「それによって自己実現欲求を満たしたい」と思っていたりします。

「自己実現」することで充実感や達成感が得られ、世界の見え方が変わり、より一層深く人生を生きられるようになります。

そして、そこに「幸せ」があると信じているからこそ、当人は「人格の向上」を目指すのです。

あるいは、「自分自身の人格の不完全性」に耐えられなくて、実践をしている人もいるかもしれません。

そういう人は、いつも「自分の不完全さ」を責め立てており、「悟って人格が完成すれば、この苦しみから自由になれるはずだ」と思い込んでいたりします。

要は、ここでも「苦しみを終わらせて幸せになりたい」という動機が根底にあるのです。

年収を増やしたいのも、「年収を増やせば幸せになれる」と当人が思っているからで、婚活をするのも、「結婚をすれば自分は幸せになれるはずだ」とその人が思っているからです。

そういう意味で、その人がかかわっているアクティビティそれ自体が、その人の価値観を映す鏡になります。

「幸せになりたい」という「根源的な欲求」を、いったいどういう仕方で満たそうとしているかによって、その人の基本的な価値観は理解できるのです。

実際、「金が幸せをもたらす」と思っている人は金を求め、「結婚が幸せをもたらす」と信じている人は婚活に必死になります。

ですが、そういった「表層的な動機」の奥にどれだけの「根っこ」が存在しているかに、ほとんどの人は自覚的ではありません。

たとえば、よくよく観察してみると、婚活している人自身は本当は結婚をしたいわけではなく、「周りがみんな結婚していて肩身が狭いから、自分も結婚して仲間入りしたい」と思っているだけだったりします。

となると、当人の本当の欲求は、「結婚して誰かと愛と人生を分かち合いたい」ということではなく、「周りから浮かなくなりたい」ということのほうです。

当人は「愛すること」を求めてはおらず、「他人から承認されること」を求めているわけです。

そして、「他人から承認してもらえれば、安心できるし、安心できれば幸せになれるはず」という根っこが、やっぱりここにも埋まっています。

でも、おそらく婚活に必死になっている人たちは、そこまで深く「自分の動機」について理解してはいないでしょう。

実はそうやって婚活に必死になる人の「根本的な動機」は、「超能力」を求めて山奥で修業に明け暮れている人と同じで、「幸せになりたい」ということなのですが、そんなことを当人は夢にも思わないはずです。

そして、「悟り」という言葉は、こういった人々の欲求を一手に引き受ける「舞台装置」として機能しています。

「悟り」というものの定義が曖昧であるがゆえに、人はそこに「自分の夢」を好きに投影できるのです。

ですが、繰り返しますように、私たちはただ「幸せ」になりたいだけです。

あるいは、「自由」に生きたいのです。

そして、私にとって「悟り」というのは、「自由」と「幸福」の別名です。

実際、「悟り」に到達すると、「自由」と「幸福」の中に自然と定まるようになります。

その過程で、たまたま「超能力」が開花する人もいるかもしれませんし、「人格の向上」を達成する人もいるでしょう。

でも、それらはあくまで「副産物」です。

「探求の最終的な成果」というのは、「自由」と「幸福」のほうなのです。

そもそも、人は心が束縛されていないことで「幸福」を感じ、「幸福」によって満たされていることで、何かにしがみつく必要を感じなくなります。

つまり、「自由」だからこそ人は「幸福」であることができ、「幸福」であるからこそ「自由」を楽しむことができるのです。

「悟り」というと、何か「特別なこと」を達成することだと思われたり、「深遠な智慧」を理解することだと思われたりしますが、実際にはそれは「自由=幸福」を感覚的に理解することです。

「あ、『自由』ってこれか!」
「『幸福』ってこんな感覚なんだ!」

それがわかっていれば、あとはそれをひたすら深めていけば、どこかの段階で「自由=幸福」は呼吸と同じくらい自然なものとなります。

その時には、もうそれ以上アクティビティによって自分を満たす必要もなくなるでしょう。

それまでは、「自由=幸せ」という「万人にとってのゴール」に向かって走り続けていたのですが、もしも「自分は既に自由=幸福だ」と感じ始めると、「あれをしなきゃ」「これをしなきゃ」という必要性が、全部まとめて落ちるのです。

逆に、もしも「自由=幸福」を内側に感じていないと、どれだけ学んでも足りないように感じてしまいます。

「まだ足りない」「もっと得ないと満たされない」と感じ、どれだけ知識や技術を得ても、ちっとも安心できないわけです。

でも、一度「既に満たされている」という状態になってしまうと、内側から「渇き」が消えるので、外側に教えを求めることは自然となくなっていくものです。

その時、当人は自分の中の「満たされた感覚」を他人と分かち合うために学ぶようになります。

つまり、「自分の幸せ」のために学ぶ必要を感じなくなったことで、自然と「他人に幸せを伝える方法を探すため」に学ぶようになっていくのです。

この場合、当人は既に満たされて満足しているので、純粋に学ぶことを楽しめますし、それを他人と分かち合うことで他の人々も利益を受けます。

本当は、「学び」というのは、そういった豊かな可能性を持っているのです。

でも、「自分自身が満たされること」のほうが先です。

なぜなら、もしも自分自身が満たされていないと、その人は「渇き」に衝き動かされながら学ぶことしかできないからです。

そして、そういう仕方で学んだことは、他人に伝える時にも、「見返り」を求めながらでないと伝えられないものです。

その人はきっと教えることの対価として、相手に「尊敬」を要求するでしょうし、相手のことを支配して自分の心を埋めたい欲求と、絶えず闘わないといけなくなります。

そういったことをせずに、惜しげもなく与えられるようになるためには、まず自分自身が深く満たされている必要があるのです。

そうは言っても、結局、「今の自分の欲求」から始めるしかありません。

「年収を増やせば幸せになれる」と信じている人は、「そこ」から始めるしかないのです。

実際、そういった人に、私がいつもこのブログで言っているようなことを話して聞かせても、たぶん聞く耳を持たないでしょう。

なぜなら、それがその人にとっての「現在地」だからです。

人は、「今自分が居る場所」からしか旅を始めることができません。

そして、そのうち「いくら年収を増やしてもちっとも幸せになれない」と感じた時、その人は自分から方向転換をするでしょう。

そうして、人によってはそこから突然、世を捨てて山にこもり、「超能力」の開発に血道を上げるようになるかもしれません。

やがてそれでも「幸せ」になれないと理解すると、また別な道を探し出すでしょう。

いずれにせよ、そんな風に「自分自身の探求」が進んでいくと、その人の欲求はより「根源的」になります。

言い換えると、表現が非常に「シンプル」になります。

「幸せになりたい」
「自由でありたい」

それが「最終的な答え」です。

この「シンプルな答え」に至るまでには、たぶんかなりの紆余曲折が必要でしょう。

実際、少なくはない人々が、お金を得ようとし、名誉を求め、地位を築き、それでも「幸せ」を感じられなくて苦悩しています。

なぜなら、「本当に欲しいもの」は、金でも名誉でも地位でもなくて、「幸せ」であり、「自由」だからです。

お金や名誉や地位を得てそれらに執着して縛られている人は、かえってそうすることで、自分の「幸福」と「自由」を制限しているということに気づきません。

むしろ、そういった執着を手放した時に、「本当に欲しかったもの」は手に入るのですが、きっと当人はそれらを手放すことを死ぬほど恐れるでしょう。

なぜなら、それらの「獲得物」が自分を支えてくれるものだと、当人は深く信じ込んでいるからです。

そこにおいて当人は「自分を不幸にしている元凶」のことを、「自分を幸せに導いてくれる宝」だと勘違いしています。

だからこそ、それらを捨てることができず、きつく握り込んで息を浅くしてしまっているのです。

なので、「幸せ」を求めていきましょう。

そうして、「自由」でありましょう。

「どうやって?」と、きっとあなたは言うでしょうけれど、それならまずは、「自分の欲求」を観察することから始めてください。

あなたが何かを求めている時、あなたがそれを求めるのは、本当は何が欲しいからなのでしょう?

きっとあなたの根底には「幸せになりたい」「自由に生きたい」という欲求があるはずです。

でも、それらの「シンプルな欲求」は、きっとあなたの心を通り抜けてくる過程で、形を変えられているはずです。

だとしたら、それをさかのぼろうとしてみてください。

「自分が本当に欲しいものは何なのだろう?」と、落ち着いて自問してみるわけです。

その上で、その「本当に欲しいもの」を手に入れる役に立つことを、自分が現にしているかどうかを、熟考してみてください。

あなたが必死で握りしめているものは、本当に握りしめるだけの価値があるものでしょうか?

それを一度じっくりと考えることを、私は提案したいと思います。

たぶん、あなたが心の底で求めているものは、私が日々の生活の中でいつも求めているものと、実は「おんなじ」なのではないかと、私自身は思っています。

コメント