「覚醒」の副産物の一つに、「学習能力」があります。
ちなみに、ここで言う「学習能力」というのは、「記憶力」とかのことではありません。
たとえば、「学校で教師から言われたことを忠実に憶えていられる」とかいったことではなく、それは純粋に、「失敗から学べる能力」のことです。
その理由は主に二つあります。
まず一つ目の理由は、「覚醒している人は自分の選択に自覚的だから」で、
もう一つの理由は、「覚醒している人は自分の失敗を認めることに抵抗がないから」です。
そもそも、「覚醒」している人は、自分の選択に自覚的です。
彼は、「自分がいつ、どこで、どんな分岐点を、どっちに進んだか」ということを、自覚しているのです。
実際、「覚醒」している人は、無意識に上の空なまま流れ作業で物事をこなすことがないので、「自分が選んだ道」をよく覚えています。
もちろん、ずっとそれを頭で意識しているわけではないのですが、もしも後になって「あ、失敗した」と思った時、当人は「その失敗の原因がどこにあったか」をかなり明確に把握することができます。
「そうか、ここの分岐点でこっちに行ったからこういう結果になったのか」
「なんでかって言うと、この時点では自分はこれこれの情報を持っていなくて、事実を誤認していたからだ」
こういったことを、「覚醒」している人は理解することができます。
それゆえ、彼は自然とこう思います。
「よし、次からはもっとこうしよう」
そうして、彼はそれ以降、同じような状況に遭遇した時も、もう「同じ失敗」を繰り返さなくなります。
「前にした失敗の原因」を覚えているので、「同じこと」を繰り返すのを避けられるのです。
これが、「覚醒」している人の「学習能力」が高い一つ目の理由です。
もう一つの理由は、「自分の失敗を認めることに抵抗がない」ということですが、
これは、「覚醒」している人が、自己のアイデンティティの基盤を「自我」に置いていないからです。
実際、「覚醒」がある程度以上深まると、その人は「自分の本質は人格や記憶ではない」と理解するようになっていきます。
それゆえ、当人には「プライド」というものがなくなります。
反対に、世の中にはなかなか「自分の失敗」を認められない人がいますが、そういう人は「プライド」が高いものです。
「自分ほどの人間が失敗するわけがない」と思っているのです。
ですが、「覚醒」している人は、「守るべき自分」というものを持っていないので、何にもしがみついていません。
それゆえ、「失敗」に気づいた時も、特にこだわりなく、「あ、失敗してる」と認めることができますし、他人にも平気で公言します。
「すみません、失敗しました」と。
そしてその上で、「今後はこういうことがないように、こうすることにしました」と言って説明します。
別に、それは「誠実だから」というわけではなくて、「そうするのが一番理に適っているから」です。
実際、「自分の失敗」を素直に認めれば、「同じ失敗」を繰り返さずに済みますし、周りにちゃんと説明することで、周囲に「失敗の悪影響」がそれ以上波及することも防げます。
自分にとっても他人にとっても、それが一番利益になるのです。
逆に、「失敗を認めず、それを黙って隠ぺいする」ということは、誰の利益にもならないので、当人はあえてしないわけです。
「否認」と「隠ぺい」が利益になると思うのは、「自我を守ることが自分のためになる」と思っている人だけです。
しかし、「覚醒」している人は、「自我は別に守らなくてもいい」と感じているので、自分と他人の「実益」のほうを、躊躇なく優先することができます。
こういった理由から、「覚醒」している人の「学習能力」は高いです。
彼は、「なぜ失敗したのか」を的確に理解し、「どうすれば今後それを避けられるか」についても考えて、迅速に対策を講じます。
このため、「同じ失敗を繰り返す」ということだけは避けられるわけです。
でも、世の中の多くの人は、「同じ失敗を繰り返さない能力」ではなく、「そもそも失敗しない能力」を欲しがります。
なぜなら、「失敗すること」が怖いからです。
それゆえ、多くの人は「そもそも失敗しないこと」を最優先し、「何にも挑戦しない」という生き方を選んでいます。
それは確かに「安全」ですが、そこに「ワクワクするような感覚」はありません。
そして、それはある意味においては「生きることそのものに失敗すること」なのではないかと、私自身は思っています。
もちろん、「失敗」は恐ろしいものです。
そして、「失敗」を完璧に避けられる人間というものは一人も存在しません。
どれほど準備に準備を重ねても、「失敗」する時は「失敗」します。
でも、人間はそうした「失敗」から学ぶことのできる存在でもあります。
私たちは、「自分の失敗」を「次のステップのための足場」に使うことができる存在なのです。
逆に、「失敗を恐れる人」は、「次のステップ」を踏むことができません。
そして、「過去の失敗」を「重荷」として背負い、身動きが取れなくなっていきます。
当人にとって「過去の失敗」はあまりにも「重い」ものなので、それを直視することができず、結局、「同じ失敗」を繰り返してしまいます。
そうして、「自分はまた同じことを繰り返してしまった」という無力感と自己嫌悪に苛まれ、その人はどんどん「過去」に釘づけにされていくのです。
「失敗」を恐れる気持ちは、私にもよくわかります。
「失敗しない人生」を願わずにいられない想いも、私は経験的に知っています。
でも、そこは当人を閉じ込める「牢獄」です。
「安全」ほど「高くつくもの」はないのです。
私たちは、生きていれば必ず「失敗」します。
でも、私たちは「学ぶこと」のできる存在です。
「失敗」を足場にして「成長」できる存在です。
その、自分自身の可能性を信じましょう。
たとえ「同じ失敗」をしてしまったとしても、その次はもう大丈夫かもしれません。
仮に三度「同じ失敗」をしてしまっても、そこから新たに学べることはきっとあります。
本当は、「同じこと」を繰り返してなどいないのです。
たとえ「同じ失敗」をしていたとしても、内側では「気づき」が育っています。
「今度はここを見落としていたんだ」
「こういう視点が欠けていたんだ」
きっと「何かの気づき」があります。
そして、そんな風に「同じ失敗」をする自分に当人はだんだん嫌気が差してきますが、実はそれも「成長」の一部です。
「自分は何てマヌケなんだ!」
「本当に何にも学んでいない!」
でも、それでいいじゃないですか。
私たちはみんな「ちっぽけな人間」です。
「完全無欠の人間」なんてどこにもいません。
誰だっていつか「失敗」します。
ただ、そんな自分の「ちっぽけさ」を知って、そこから学んでいけばいいだけです。
だから、目指すべきは「完璧」ではありません。
もしも「完璧」を目指し始めたら、その人は「失敗」が怖くなって一歩も踏み出せなくなります。
ただ、「ちっぽけな一歩」を大事にすればいいのです。
別に「偉大な功績」を残さなくてもいいので、過去の自分より成長していれば、それでなにも問題ありません。
どんな他人とも比べることなく、過去の自分とだけ比べることです。
時には、昔より「退歩」しているように感じることもあるかもしれません。
人生につまづいて、「休息」を余儀なくされている時は、特にそう感じやすいものです。
でも、大丈夫です。
人生はちゃんと前に進んでいます。
もしあなたが今休まざるを得なくなっているのなら、あなたは今「休むこと」を学んでいるのです。
「走ることだけが人生ではない」と学んでいる真っ最中なのです。
だから、それは「一つの前進」です。
実際、「くつろぐこと」の中には「幸福の味わい」があります。
「あぁ、なんて気持ち良いんだろう」と思いながら毛布にくるまる時、学校や職場では決して学べないことを、私たちは学ぶことができるものです。
「こうでなければならない」という想いを捨てましょう。
あなたは既に「完璧」です。
あなたに「足すべきもの」は何もありません。
「失敗」とは、「あなたの不完全さの証明」ではなく、「あなたに与えられた学びの機会」なのです。
どんな経験からでも、人は学ぶことができます。
本当は「覚醒」しているかどうかも関係ありません。
むしろ、人は「生きること」を通して自然と「覚醒」していきます。
人は「生きること」そのものを通して、「生きよう」と覚悟を決めるのです。
「自分の人生の責任」を自分で背負う覚悟を決めた人は、自ずから「覚醒」していきます。
その人が悟るかどうかは問題ではありません。
むしろ、その人の一つ一つの選択が、「彼の悟り」を醸すでしょう。
「悟り」とはどこかにある「ゴール」のことではありません。
それは私にとって「生きる覚悟」の別名です。
だから、「生きよう」という覚悟を背負っている人は、「悟っている」と私は見ます。
そうしてその人は、「人生の全て」から学ぶでしょう。
彼は道で犬から不意に吠えられて、自分がいつの間にか我を忘れていたことに気づかされます。
そして、買い物先のスーパーで、店員の柔らかい手つきに「心の砕き方」を学びます。
「学び」はそこいらじゅうにあるのです。
必要なのは、ただ「目」を開くことです。
私はそれを、「覚醒」と呼びます。

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