昨日、ある探求者の方とメールでやり取りをしていて、その人から改めて気づかせてもらったことがあったので、ブログでも共有したいと思います。
私はこのブログで「別に悟らなくてもいいんですよ」と言うことがありますが、そうはいっても、迷いや疑いを抱えて苦しんでいる人は、「それでも自分は悟りたい!」と思うはずです。
もちろん、私はその気持ちを否定したりしません。
ただ、探求が「後半戦」に入ってくると、その「悟りたい」という欲求自体が障害になってしまうこともあるのです。
そもそも、「真理の探求の前半戦」においては、強い「意志の力」が必要です。
以前にも記事に書いたことがあるのですが、「何が何でも悟りに到達したい!」という「強固な意志」がないと、そもそも探求を始めることはできません。
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この記事の中でも書いていますが、「意志」が強くないと、怖くて探求なんて始められませんし、きっとすぐに諦めてしまうと思います。
「何が何でも前進しないといけない」
「自分にとっての救いはここにしかない」
そういう「切実な想い」がないと、探求というのは進めていくことが難しくなります。
ただ、それが意味を持つのはあくまで「探求の前半戦」における話です。
たとえば、探求が進んでいくと、どこかの段階で「自我」と「本当の自分(意識)」を切り分けて認識できるようになっていきます。
それまでは人格とか記憶とかを「自分の本体」だと思っていたところから、徐々にそういったものに執着しなくなっていくのです。
そのため、他人からどう思われても、当人は「それらは『本当の自分』について言われていることではない」と感じるようになり、だんだん社会や他人の目が気にならなくなっていきます。
また、それと並行して、そんな風に社会や「自我」によって縛られなくなることで、「心」が「解放感」を感じる時間も増えてきます。
つまり、「なーんだ、別にそのまんまでいいんじゃないか」と自然と思えるようになっていくわけです。
もちろん、いきなりすぐはそうも思えません。
「本当の自分」がわかっても、あいかわらず「自我」は「オレこそが『本当の自分』だ!」と言い張って来るでしょうし、ついついそれに引っ張られて、他人の言動に右往左往してしまうかもしれません。
また、「別にそのまんまでいい」と思うことがあっても、何かの拍子に「いや、やっぱりまだ自分には何か足りないものがあるんじゃないか…?」という疑いに囚われることもあると思います。
ですが、一度でも「自我から解放された感覚」を体験していれば、後はその「感覚」を繰り返し想起していくことで、探求は自然と進んでいきます。
そもそも、その「感覚」は主観的にも「心地よいもの」なので、そこに戻っていくことは決して「苦行」ではありません。
たぶん、この段階まで至っていれば、徐々に自分から進んで「心地よい解放感」を求めるようになっていくはずです。
これはいわば、「帰るべき家」を見つけ終えたかのような状態です。
当人はもう、「ここに帰ってくれば、自分はリラックスできる」ということを知っています。
だから、たとえ時に「我が家」を見失って動揺することがあっても、ふと我に返った時に、そのつど「家」に帰ればいいだけです。
しかし、「探求の前半戦」にいる時は、まだこれができないのです。
当人は、まだ「帰るべき家」を知りません。
言い換えれば、「幸福」と「自由」の味を知らないのです。
それゆえ、そういう人に「別にそんなに頑張らなくてもいいんじゃないかな」と告げることは不適当です。
なぜなら、当人はまだ「本当の安らぎ」に出会えていないからです。
だとしたら、ひとまず「安心できる我が家」を見つけることができるまでは、「とにかく頑張って探していこう」と声をかけることが必要だと私は思っています。
しかし、探求が「後半戦」に入ると、その人はもうそれ以上「先に進む」ということができません。
なぜなら、その人は既に一度「無」に到達したことがあるからです。
つまりその人は、思考や感情が沈静化し、「自我」さえもが沈黙する中で、「自分は在る」という感覚を体験したことがあるわけです。
そして、その「無」の中に「安らぎ」があるということも、当人は既に知っています。
ですが、「無」はそれ以上何もなくせないから「無」なのであって、「ここから先」というのはもうありません。
「無以上の無」というのは無いわけです。
だから、この体験をした後は、「来た道」を戻って行って、ただ淡々と日々を送ることになっていきます。
これが「真理の探求の後半戦」です。
そして、この「後半戦」においては、「前半戦」のような「何が何でも真理を悟りたい」という欲求は別に必要なくなります。
というよりも、むしろその欲求それ自体が内側に「微妙な束縛」を生み始めます。
なぜなら、その人は「悟りというゴール」を「理想」として握り込むことで、リラックスすることができなくなってしまうからです。
きっと当人の中では、「自分はまだ悟りに到達していない」「早く到達しなければ」「いったいいつになったら悟れるだろう?」といったような思考が、くっついて離れないはずです。
そして、こういった思考が結果的には当人の心身を束縛し、「自由」を遠ざけてしまうのです。
かく言う私自身は、「悟り」というものを体験する前の約半年の間は、「もうこのまま一生悟れなくても別にいいか」と思って過ごしていました。
あいかわらず瞑想的な生活を送ってはいましたが、以前ほど熱を入れて実践はしておらず、割といい加減にやっていたと思います。
思考が湧いても気にしませんでしたし、我を忘れることがあっても自分を責めたりしませんでした。
なぜかと言うと、この時点で既に私は、かなり満足してしまっていたからです。
たとえば、当時の私はもう「自我」に振り回されて、他人の反応に一喜一憂することがかなり減っていました。
もちろん、今現在よりはずっと振り回されていましたが、数年前に比べれば雲泥の差で、悟る前の状態でも、私は十分に満足していたのです。
また、そうして「自我」に振り回されなくなったことで、生活の中でも徐々に「解放感」が持続するようになっていて、心の中にあった「満たされなさ」が少しずつ埋まっていきました。
それまでは、幼少期に親から放っておかれたことに起因する「寂しさ」や「愛されたい欲求」によって、私はいつも心が満たされなかったのですが、「自我からの解放感」を知ってから、だんだんと生きていることが「愉快」に感じられてきました。
そして、そんな風に「愉快」に生きていたら、気づいた時には、内側に何十年も居座っていた「満たされなさ」が消えてしまっていたのです。
だから、私は自然と「別に悟れなくても問題ないか」と思うようになっていきました。
そして、結果的に見れば、それがかえって良かったのでしょう。
私は完全に「ゴール」を失い、「悟り」に向かって流され始めました。
私はもう「悟り」に向かって泳ごうともしませんでした。
にもかかわらず、というか、むしろそうだったからこそ、私の中で「自我からの解放感」は日に日に育っていき、半年後には「あ、『自由』ってこれか!」と理解することができたのです。
そんなわけで、「真理の探求における後半戦」にいる人には、「むしろ悟ろうとしないほうがいいよ」と言いたくなるのですが、そう言われて「はい、わかりました。もう欲求しません」と言えれば苦労はありません。
誰だって、「いや、そう簡単には割り切れないよ」と思うはずです。
なので、私は「欲求を放棄するための方便」として、「自分の幸福」を意識的に味わうことを提案したいと思います。
別に何でも構いません。
「頭」ではなく「胸にあるハート」で感じられる「幸せ」を、日常の中で探してみてください。
ペットと戯れている時間にほっこりするならそれもいいですし、散歩をしたりお茶を飲んだりしてほっこりする人もいるでしょう。
そういう時の「手ぶらな感覚」を、深く楽しんでみてください。
それによって、きっとその人の中にあった「満たされなさ」は徐々に小さくなって消えていくはずです。
そして、どこかの段階で「心」はきっとこう言います。
「もう別にこれで十分だよ」と。
もちろん、その時も「頭」はあいかわらず、「いや、悟らない限り意味はない!」と言うかもしれません。
しかし、実のところ、「悟り」というのは「頭で理解するもの」ではなくて、「ハートで感じ取るもの」です。
人は、悟った時に「頭」に何らかの情報を受け取るわけではなく、「ハート」で感じるだけなのです。
「『自由』ってこれか!」と。
だから、大事なことは、「頭」ではなく「ハート」が納得するくらいまで、「自分は既に幸福だ」と感じることだったりします。
そういう意味で、「真理の探求の後半戦」というのは、「幸福を深めるフェイズ」です。
「悟り」は別に求めなくていいので、「幸福になること」を求めていきましょう。
もしも「我が家」に帰ったことがあるならば、それは十分可能なはずです。
まだ「我が家」に一度も帰ったことのない「前半戦を戦っている探求者」は、「幸福の味」を味わったことがないので、これができないのが辛いところです。
だからこそ、「意志の力」を奮い起こして、「我が家」を探す必要があったわけです。
でも、「我が家に帰る」ということがどういうことかを理解したら、後はその「我が家にいる時の感覚」を育てていけばいいだけです。
「頑張る」とか、「耐える」とかいったことは必要ありません。
ただ、「あぁ、幸せだなぁ」という感覚に、自覚的に浸ればいいだけなのです。
そもそも、世の中の多くの人は「達成感」と「幸福感」を混同しています。
人々は「何か目標を設定してそれを達成しないと幸せになれない」と思い込んでいますが、それによって生じるのは、「幸福感」ではなくて「達成感」だけです。
「幸福感」は、「何かを達成するから感じるもの」ではなく、「ただ感じるもの」です。
それは、何かの「遊び」に夢中になっている時や、遊び疲れて寝転んでいる時に、「胸のハート」で感じるものなのです。
「あぁ、幸せだなぁ」と。
「遊び」の中で「ゴール」は消えます。
「くつろぎ」の中でも「ゴール」は消えます。
そして、そのような「ゴールの無さ」こそが、「幸福」を育ててくれるのです。
だから、あえて「悟りというゴール」は忘れましょう。
あなたはもう十分に頑張りました。
だからこそ、「我が家」まで帰ってこられたのです。
もうどこにも出かける必要はありません。
「行くべき場所」はもうありません。
「探すべきもの」はもう見つけました。
後は、あなたが「自分自身」に深く定まればいいだけです。
そして、その時に本当に役に立つのは、「悟り」という概念ではなくて、「内側にある幸福感」なのです。
「あぁ、幸せだなぁ」と感じる瞬間を大切にしてください。
「悟りを達成しよう」と思うのではなく、「幸福を楽しもう」と思ってみてください。
その時、あなたの中で「最後の放棄」が準備され始めます。
そして、あなたの「幸福」が臨界点に達した時、「ゴール」は消えて、「悟り」が起こります。
でも、きっとあなたは「自分はついに達成したぞ!」とは思わないでしょう。
なぜなら、そこにあるのは決して「達成感」ではなく、「幸福感の海」だからです。

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