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【新作の第二章の内容公開】「心」と共に生きるための具体的な実践についての解説

現在執筆中の「心と共に生きる幸福論」ですが、第二章まで書き終わりました。

二章はかなりボリューミーになったので、現時点で「まえがき」「第一章」「第二章」の全体で約120ページありますが、そのうちの70ページくらいが二章です。

なお、二章は「心」を感じるための具体的な実践方法についての解説です。

それで、解説の便宜上、実践方法を四つのパターンに分けました。

一つ目は、現に「楽しいこと」がある人の場合。
二つ目は、「楽しいこと」や「やりたいこと」が何もない人の場合。
三つ目は、むしろ「苦しいこと」がある人の場合。
そして四つ目は、「過去の感情」が噴き出してきてしまった人の場合です。

それぞれの中身が気になる人もいるでしょうから、ざっと説明していきます。

「試し読み」感覚で聞いてください。

◎「楽しいこと」や「やりたいこと」がある人のパターン

まず一つ目の「楽しいこと」がある人の場合ですが、このケースでは、その「楽しさ」が「頭」を中心にしたものなのか、「胸=心」を中心にしたものなのかを判別していくことになります。

もしも「頭」で「楽しさ」を感じているようであれば、その人は「プロセス」よりも「結果」に反応しているはずです。

当人の中では「プロセス」は「結果」を得るための「コスト」でしかなく、「なるべくならなくしたい」と感じられています。

そして、こういった考え方をしていると、どんなに頑張っても「望ましい結果」が得られない時、当人は不意に虚しくなって活動を放棄してしまったり、逆に心身が壊れるまで頑張り続けてしまったりします。

また、「結果」を完全にコントロールすることは誰にもできないので、そこに軸足を置いてしまうと、絶えず「結果」によって一喜一憂することにもなり、メンタルも不安定になります。

この場合には、なるべくその活動は手放してしまって、何もしないで休んだほうがいいです。

反対に、「頭」ではなく「胸=心」で「楽しさ」を感じているのであれば、その人は「結果」ではなく「プロセス」の中に「楽しさ」を感じているはずです。

その人は、たとえ「結果」が伴わなかったとしても「プロセス」を味わっている時点で、「楽しさ」という報酬を受け取っているので、欲求不満になることがありません。

また、「胸」というのは生命エネルギーの源である「下腹」ともつながっているので、「頭」が暴走する時のようなエネルギーの涸渇も起こりにくく、「バーンアウト」も避けることができます。

ただ、どんなに楽しいことであっても、ずっと続けていればどこかで飽きてしまいます。

その場合には、次の「楽しいこと」や「やりたいこと」がない人の実践パターンへ移行していくことになります。

なお、この「パターン1」の解説図は以下のようになっています。

◎「楽しいこと」や「やりたいこと」がない人のパターン

次に二つ目の、「楽しいこと」や「やりたいこと」がない人のパターンです。

これは、このブログの古参読者の方たちにはお馴染みかもしれません。

要は、「退屈を味わう実践」です。

ここにおいては、「退屈」から目を逸らさず、あえて積極的にそれを感じていきます。

「退屈」を感じている時、きっとその人の「胸」には、何とも言えない「重苦しい感覚」があるはずです。

それを自覚したら、あえてこの「重苦しさ」を味わい続けます。

しかし、その際に「頭」は「そんなことするだけ無駄だからやめておけ」と言ってくるでしょう。

なぜなら、そもそも「退屈」というものを作り出している張本人こそが「頭」だからです。

「頭」はいつも「目標」を設定しては、これをクリアすることで「達成感」を得ることに慣れています。

そして、この「達成感」へと人を導くことにこそ、「頭」は「存在意義」を感じているのです。

それゆえ、もしも全ての「ゴール」がなくなってしまうと、「頭」は「存在意義」を失ってしまいます。

つまり、その時に「頭」は、「どうしても必要な存在」ではなくなってしまうのです。

「頭」はこれを避けたいので、私たちが「ゴールの無い状態」に留まらないように策をめぐらします。

つまり、「退屈」という感情を作り出すことによって、再び何かしらの「ゴール」に向かって走らざるを得ないような切迫感を、当人に与えようとするのです。

このように、「退屈」というのは「胸=心」で感じるものなのですが、それを生み出しているのはあくまで「頭」です。

それゆえ、「頭」が「目標を作らない」という在り方を受け入れると、「退屈」というのは溶けて消えます。

その時、「もはやどこも目指していない」という状況は変わっていないはずなのに、当人はそこに「重苦しさ」ではなく「解放感」を感じ始めます。

「することがない」という同じ事実を、「苦しくて仕方ない」と感じなくなり、「自由で清々しい」と感じるようになるわけです。

そして、この「感覚の転換」が起こるのは、「頭」が「目標のない状態」を受け入れた時です。

それは、「胸」にある「退屈の感覚」を見つめ続けることで起こります。

もしも「退屈」を見つめ続けるならば、「頭」はどこかで諦めます。

そもそも、「頭」は「何でもいいから早く何かをしろ!無為の中にこれ以上留まるな!」と言いたくて、「退屈」を作り出しているのです。

それにもかかわらず、のんびり「退屈」を感じているのでは、「頭」のやっていることは完全に空振りに終わっていると言えます。

そして、最終的に「頭」は「退屈をこれ以上作り出してもこいつには効かない」と理解します。

そこで「頭」は白旗を上げることになり、当人は「頭」による支配から解放されて「清々しさ」を感じ始めるわけです。

ただ、「頭」が根負けするのにはいくらか時間がかかります。

それゆえ、一日で「退屈」を完全に溶かそうとはせず、小分けにしてちょっとずつ向き合うことを、本書では推奨しています。

なお、この第二のパターンのポイントについてまとめた図は以下です。

◎むしろ「苦しいこと」ばっかりの人のパターン

三つ目は、「楽しいことがない」どころか、「苦しいことばっかり」という場合です。

これまた、古参の読者にはお馴染みの「苦しみの受容」です。

なお、詳しいやり方については、過去に一つ記事を書いています。

【関連記事】
【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について

要は、先ほど説明した「退屈」の「苦しみ」バージョンです。

ただ、この場合、「頭」は「何でもいいから何かしろ!」と言ってくるのではなく、「未来」や「過去」に彷徨さまよい出しています。

つまり、「未来への不安」と「過去の後悔」によって苦しんでいるわけです。

そもそも、「頭」は常に「理想」を握りしめようとします。

つまり、「現実」を「思い通り」にしようとしてもがくのです。

しかし、「未来」がどうなるかは誰にもわかりませんし、「過去」を変えることも誰にもできません。

厳しいですが、それが「現実」です。

ですが、「頭」は「未決の未来」を完璧にコントロールしようとし、「確定した過去」を都合の良いものに作り変えようとします。

それゆえ、「頭」はいつも「思い通りにならない現実」の前でぺしゃんこにされて苦しみます。

そうして「こんな現実は受け入れられない!」と言って泣き始めるのです。

ここから、私たちの中に「苦しみ」が生まれてきます。

それは「理想の通りにならない現実」を前にした「頭」自身の嘆きなのです。

それゆえ、もしも「苦しみ」を根本的に終わらせようと思ったら、「頭」に「現実」を受け入れてもらうしかありません。

それはつまり、「未来のことはわからないし、過去を変えることはもうできない」と、「頭」に認めてもらうということです。

そのためには、「頭」がたとえ泣き叫ぼうとも、それに巻き込まれないことが大事です。

「苦しみ」の中にある時、人は「最悪の未来」を想像し、「過去の失敗」を何度も反芻はんすうします。

ですが、そうやって「頭」の言い分を聞いていると、当人は我を失ってしまいます。

そうして、「まだ実現していない未来」や「もう終わった過去」が、「今ここの現実」よりもリアルに感じ始めてしまうのです。

こうなると、「今ここの胸の感覚」に留まることは難しくなります。

当人は「頭」につられて「今ここに存在しない未来と過去」の中を彷徨い始めます。

そうして、泣き叫ぶ「頭」と一緒になって泣き出してしまうのです。

しかし、そうやって自分まで泣いてしまうことによって、「頭」は「こいつチョロいな」と思い始めます。

そうして「頭」は、たとえ「現実」を「思い通り」にできなかったとしても、取り乱して泣き叫べば、私たちのことを思い通りに操作できると学習します。

その結果、「頭」は自分の「支配力」を確かめるために、あえて大げさに泣き叫ぶことで、それにつられて狼狽する私たちのことを操作しようとし始めるのです。

それゆえ、「苦しみ」を終わらせるためには、「頭」に「泣いても何にもならない」と学んでもらう必要があります。

そもそも、「泣く事」で物事を操作しようとするのは「子ども」だけです。

要は、「頭」に「大人」になってもらう必要があるわけです。

「いくら泣き叫んだところで『現実』は変わらないし、誰もつられて泣いたりしない」

そのことを、「頭」が学ぶまで待つ必要があります。

そしてそれが、「頭の思考」から離れて「胸の痛み」に軸足を置くということです。

「頭」が「未来の不安」を訴える時、きっと「胸」には「ザワザワする感覚」が生じるでしょう。

また、「頭」が「過去の後悔」にさいなまれる時、「胸」には「引き裂かれるような痛み」が発生するかもしれません。

それは「泣き叫んでいる頭」に影響されて、「心」に起こる動揺です。

でも、それに流されることなく、落ち着いて「頭」が泣き止むまで待ちます。

「胸の痛み」から逃げず、「頭」が成熟するまで待つのです。

そして、もしも「頭」が「泣いても何も解決しない」と学んだ時、「理想」は自然と手放され、当人の「苦しみ」は終わるのです。

なお、このパターンのポイントをまとめた図は以下です。

◎「過去の感情」が噴き出してきた人のパターン

もう「お腹いっぱい」かもしれませんが、最後にも一個パターンがあります。

それは、「過去の感情」が噴き出してきた場合です。

これは、過去のある時点で、頭によって「出てくるな!」と命令されて封じ込められていた「古い感情」が、ストッパーが緩んだことで表に出てきた際に起こります。

つまり、「頭」による独裁体制が崩れ始めた時に、こういった「感情の暴走」というのは起きやすいのです。

そもそも、私たちは幼少期に親や教師から命令されてきました。

「怒るな」
「泣くな」
「反抗するな」

そうやって命令されて、私たちは自分の感情を表に出せなくなり、自分らしくあることもできず、「心」を封じ込めて生きてきたのです。

こういった「心に施された封印」は何十年も継続し、当人の感受性を鈍らせていきます。

その人は自分の心を活き活きと感じることができず、いつもそこに「無感覚」や「無感情」を感じてしまうのです。

しかしそれは、「感じること」と「生きること」が深く連動しているためです。

そもそも、「怒るな」「泣くな」「反抗するな」という命令は、言い換えると「生きるな」ということを意味しています。

私たちが生きている限り、「大事なもの」を奪われたら「怒り」を感じて当然ですし、「大切なもの」を失ったら「悲しみ」を感じて当然です。

そして、「他人の言いなりになったままのロボット」であることに満足できる人間も、一人としていません。

だからこそ、「怒り」や「悲しみ」や「反骨心」を封じ込めてしまうと、その人は「生きること」ができなくなってしまうのです。

この四つ目のパターンにおいては、その人がかつて自分で封じ込めた「生きる力」を取り戻していくことになります。

そこで当人は、何十年も封じ込めてきた「怒り」や「悲しみ」と直面します。

それは、長い間ずっと閉じ込められていたことで歪みに歪んでいるかもしれませんし、腐敗し切って「腐臭」を発生させているかもしれません。

ですが、それをきちんと表現し切って成仏させない限り、「心」は「原初の無垢」を取り戻すことができません。

それゆえ、このパターンでは、「いかに激しい感情を安全に表現するか」ということがポイントになります。

これについては、拙著『「自由」とは、深く息ができるということ』の中で、一つ章を割いて徹底的に論じたことがあります。

なので、興味のある人は、そちらをお読みいただければ、より包括的な対処法が理解できるでしょう。

ただ、今書いている本の中では、紙幅しふくの都合上、それらの対処法の中から「誰にも見せないノートに感じたままに書きなぐる」という方法だけを提示しています。

個々の感情に対しては、それぞれに「適した対処法」があるのですが、「ノートに書きなぐる方法」は、応用が利いて様々な感情にも対応しやすいので、本書ではこの方法だけを紹介するに留めました。

そして、ノートに書きなぐることで「過去の感情」を表現し切ることができると、その人の「心」は「空っぽな状態」になります。

しかし、その「空っぽ」は「空虚感」ではなく「清々しさ」として自覚されます。

あたかも、一日かけてゴミだらけの部屋をキレイに片付けた後のような「さっぱりした気分」がそこには伴っているのです。

なお、この第四パターンのポイントについては、以下のようにまとめています。

◎終わりに

ということで、第二章では「心と共に生きる在り方」を取り戻すための具体的な方法について詳述しました。

たぶん、ほとんどの人が1~4のどれかのパターンに該当するはずです。

そして、どれかのパターンの実践をしていくと、途中から芋づる式に「別な問題」が出てくるでしょう。

なので、多くの人は最終的に1~4の全ての実践をすることになるのではないかと思います(少なくとも、私は全部しました)。

でも、それは当人の中に「解決すべき問題」が残っているからこそのことです。

なので、仮に「新しい問題」が出てきたとしても、それを「後退」だと考える必要はありません。

むしろ、「表層にあった問題」が解決したからこそ、「より深部にあった問題」と直面できるようになったのであり、それは紛れもない「進歩」なのです。


てなわけで、新作の執筆は順調に進んでいます。

しかし、こんな風に逐一内容を共有していたら、本を買って読む必要がなくなるかもしれませんね。

まあ、私は「売るため」に書いているわけではなく、あくまで「伝えるため」に書いているので、伝わればそれで満足です。

それでも、「もっと詳しく知りたい」という方や、「本の形で一連の流れを感じながら読みたい」という方は、発売されたらチェックしてみてください。

では、また書き進んだら報告いたします。

さらばー。

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