新刊の「現成公案・解説本」のkindle版原稿を「ほんわっかぱっぱ」と編集しているのですが、今回の本で、たぶん読者がいちばんつまづくのが、「見性」について書いた部分だと思います。
「見性」というのは禅宗の言葉で、「自分の仏性を体験的に理解すること」を意味します。
坐禅を実践していくと、徐々に思考や感情が沈静化していくのですが、最終的に内側から全てがなくなって、当人は不意にその「無」の中で気づくのです。
「自分が居る」と。
いかなる思考も感情もないはずなのに、その「空」を観ている者が、そこには確固として存在しています。
この純粋な「我」のことを古代インドのヴェーダ聖典では「チット(意識)」と呼び、ヨーガの経典では「プルシャ」と呼んでいます。
現代風に言えば「観照者」ということになるのですが、この「観照者」こそが「本当の自分」だったのだと初めて気づく瞬間が「見性」です。
でも、これは論理的にいくら説明してもあまり意味のない話で、結局、自分自身で体験するしかありません。
実際、「見性」というのは、頭で理解する「情報」ではなく、あくまで感覚的に体験する「味わい」です。
人は、「悟り」というものを、「何か『凄い情報』が頭に入って来ることなのだろう」と思っていますが、実はそうではありません。
「悟り」に到達しても、別に人は賢くなったりすることはなく、単に「あ、『自由』って、こういう身体実感なんだ」と、心と身体で理解するだけです。
そこには、「感覚的な納得」だけがあり、「論理的な証明」は欠如しています。
だからこそ、私が「探求のゴール」に到達した時、私には最初それが信じられませんでした。
心と身体は、「もう探求は終わったよ」と言っていたのですが、頭がそれを受け付けなかったのです。
それゆえ、私は悟った後も、しばらく時間をかけて、「自分の悟り」について検証してみました。
「自分は本当に『自由』になったのだろうか?」と思ったからです。
そして、私は最終的にはこれを肯定することになりました。
結局、心と身体の言うとおりだったのです。
「見性」というのは、探求における「ターニングポイント」であり、それは「初めて『悟りの味』を体験する瞬間」です。
それまでずっと頭で「悟りってこういうものなんじゃないか?」と思って、いろいろ想像していたところに、心と身体にその「味」が入ってきます。
「頭の理解」ではなく、「感覚的な体験」として、「悟り」が入ってくるのです。
これこそが、「奥義伝授」です。
禅ではこの「奥義」について、「文字で表すことができない」という意味を込めて、「不立文字」とか、「教外別伝」とか言ったりしているようです。
要するに、それは経典などを読んで「勉強」していても理解できるようにはならなくて、最終的には、自分自身で直接体験するしかないということです。
そして、一度でも「見性」を得ることができると、そこから先は、心と身体で体験した「悟りの味」を、日常の中に定着させていく実践が始まることになります。
そもそも、「見性」を得るまで、当人は日常から遠く離れていくように進んできました。
それまで信じていた「常識」を壊し、社会や他人の「制止」を振り切って、「どこか遠く」を目指して進んできたわけです。
でも、一度でも「見性」を得ると、当人は「なんだ、『仏性』というのは、最初から自分の中に在ったんじゃないか」と気づきます。
つまり、「遠く」に行く必要なんてなかったのです。
それゆえ、私たちはただ内側を見つめればよくて、実際、そこに「仏性」は最初から存在しています。
しかし、多くの人はこの「仏性」の上をいろんなものが覆っていて、ちっとも「本当の自分」が見えないので、「余分なもの」をどかす行程が必要になります。
そういう意味で、探求というのは「足し算」ではなく、「引き算」です。
そこにおいては、「何らかの知識や技術」を身に着けることが重要なわけではなく、むしろ、「無意識に身に着けてしまったもの」を落とすことこそが大事なのです。
でも、ほとんどの人は「落とし方」がわからないので、坐禅とか呼吸法とかいった「方便」を経由して「見性」に向かって進んでいきます。
それらもまた一つの「技法」ではあるのですが、それは「一つの技法を身に着けることで、それ以外のものを全部落とす」という種類の「方便」として機能します。
それゆえ、もしも実践が「極点」までいくと、後は「今までずっと実践してきた技法」そのものを落とせば、「無」が到来します。
そこにおいて、当人は「自分の内側に最初から在った仏性」を発見することになり、それ以上「遠く」を目指すことは、自然とやめるようになるのです。
この時点で、当人は既に「究極の引き算」を体験してしまっています。
実際、「空」からはそれ以上、何も引けるものが在りません。
つまり、「ここから先」というのは、そもそも存在しないのです。
だからこそ、当人は「元来た道」を戻って行って、「日常」の中へと帰っていきます。
つまり、一度味わった「仏性の味」を日常の中に持ち込んで、ひたすらこれを自分の心身に練り込んでいくようになるのです。
なぜなら、仮に「見性」を体験しても、当人の頭は「自分は仏だ」と信じることができないからです。
おそらく、心も最初は反発するはずです。
なぜなら、私たちはあまりにも深く「世間の常識」によって縛られているからです。
いったい誰が「自分はもともと『仏』だったのだ」と、すぐに信じられるようになるでしょうか?
実際、「自分は特定の人格や記憶を持つ個人なのだ」という「常識」は、私たちの「魂」の奥深くに届くほどまで、強く刷り込まれています。
このため、たとえ「見性」を得ることができたとしても、そこから「自分が『仏』のわけがない」という思い込みが「落ちる」までには、もう少し時間がかかります(ちなみに、私は丸一年かかりました)。
そもそも、産まれたばかりの時、私たちはみんな「仏性」と共に留まっていました。
でも、育っていく過程で誰もがそれを忘れていきます。
そして、あまりにも忘れ切ってしまっているために、ほとんどの人は、覚者から「あなたはもともと『仏』であり、既にして『光明』そのものなのだ」といくら言われても、それを信じることができません。
覚者は大まじめで言っているのですが、ほとんど全ての人は、それを冗談か何かだと思うでしょう。
仮に少しだけ信じてみても、どこかで疑いが兆すはずです。
「本当に自分は『仏』なのだろうか?」と。
この疑いが完全に消えるまで「見性の感覚」を心身に練り込んだ人間が、覚者です。
その人はもう「自分が『仏』であること」について迷いがありません。
「見性」の時に体験した「仏性の味」を、日常生活の中で、何千回、何万回と想起し、再確認し、「あぁ、確かに自分は常に『仏』だ」と検証し尽くした結果として、その人の中の「最後の疑い」が落ちて消えます。
こうして、その人は「自由とは何か」を感覚的に理解するようになり、「自由な感覚の維持」を最優先して生きていくようになるのです。
なので、大事なことは「自由になった時の感覚」を、当人がひたすら日常の中で確かめることです。
それこそが「修行」という言葉の意味です。
それには「終わり」というものがありません。
そこにおいて当人は、いかなる「ゴール」も設定することなく、どこまでも「行き」続けるだけです。
つまり、「自由」というのは、「一度知ったらおしまい」というものではなく、どこまでも新たに体現し直していくものなのです。
それゆえ、「修業」と「修行」とは別のものです。
「修業」というのは、自動車学校での勉強みたいなものです。
そこでは「学ぶべきこと」が最初から決められており、学習者はそれらを全て学び終えると「卒業」していきます。
でも、「修行」には「卒行」というものがありません。
たとえどれだけ多くを学んでも、生きている限り「修行」は続きます。
「げげ、大変そう!」と思うかもしれませんけれど、日常生活全体が既に瞑想になっている人は、「なんだ、要はそれって『自覚的に生きる』っていうことじゃん」と理解できると思います。
私たちが「修行」を大変そうに思うのは、「眠り込んでいるほうが楽だ」ということを知っているからです。
実際、瞑想を実践し始めたばかりの人は、「目覚めていること」がいかに難しいか、身をもって知っているはずです。
でも、「自分は目覚めている必要がある」と思っている人は、瞑想の実践中はもちろん、徐々に日常生活の中でも「覚醒」を失わなくなっていきます。
そもそも、人生は常に「未知」であり、次の瞬間に何が起こるかは誰にもわかりません。
だからこそ、この「未知」というものと自覚的に向き合う必要を感じている人は、必然的に「覚醒」していくようになるのです。
逆に、「未知」に対して蓋をして「わかった気」になりたがる人たちは、「覚醒」を終わりなく深めていく「修行」ではなく、「知識」や「技術」がパッケージされた「修業」へと向かっていきます。
なぜなら、そういった「出来合いの知識や技術」を学んで身に着けてしまえば、「もう自分はわかった」と思い込んで、安心して眠り込んでいられるからです。
「起きている必要」を感じる人だけが、「修業」を離れて「修行」に向かいます。
その時、その人は「生きる」ということの「真の姿」を目にするでしょう。
全ては常に「未知」であり、何一つ「確かなこと」はありません。
この人生において「確かなこと」は、「自分は存在する」ということと、「自分はいつか死ぬ」ということだけです。
そして、それ以外の全ては完全に「未確定」なのです。
しかし、だからこそ、「生」は躍動的であり、常に光り輝いています。
そこには、決して縛られることのない「自由」が息づいていおり、私たちはそれをただ生きていくだけなのです。
「修行」を捨てて、「修業」に明け暮れて眠り込もうとする人たちは、「生の輝き」を知ることがないでしょう。
彼らは「生きること」を恐れており、そうしてその「自分の恐怖」と向き合うことから逃げようとします。
逆に、「生きたい」と望んでいる人は、何らかの瞑想の技法を実践しようがしまいが、自然と「覚醒」していきます。
そうしていつか、その人は「答えのなさ」や「理解不可能性」に慣れ切ってしまい、「明日をも知れない」という事実それ自体を、一人で楽しみ始めるのです。
当人の中にはもう「悟り」という「ゴール」がありません。
なぜなら、人生そのものには「卒業」というものがあり得ないからです。
その人は、ただ生きます。
生きることによって、「修行の道」を「行き」続けます。
そうして当人は、「自分の人生」を日々飲み干し、「ゴールのない日常」の中で純粋な子どものように「遊ぶ」のです。
だから、とにかく「遊ぶ」ことです。
どこかを目指す必要はなく、ただ「内側」に定まればいいだけなのです。
その時、迷いと疑いは吹き消され、その人の表面を覆っていた「偽物」は剝げ落ちていきます。
そうして、もとから奥に在った「仏性」が表に現れる時、その人はきっと、こう思うはずです。
「世界はなんて美しいんだ」と。

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