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「来る者」を拒まず、「去る者」は追わず|「自分の心」を偽らない美学について

最近は認識が大幅に書き換わったので、いろいろと新しい視点が浮んできて新鮮です。

しかし、こうもコロコロとスタイルや主張が変わると、読者はついて行くのが大変だと思います。

実際、読むのをやめて去っていく人も、けっこういると思っています。

たとえば、グーグルのアクセス解析のデータを見ると、私のブログにアクセスするユーザーのほぼ半分は、完全新規の人です。

現在、私のブログには毎日20~30人くらいのアクセスがあるのですが、そのうちの10~15人は新規のユーザーなのです。

にもかかわず、ブログのアクセス数自体は、ブログ開設からのこの二か月、ほとんど変化していません(むしろ減っていっています)。

つまり、10~15人が新しくやって来るのと同時に、それ以上の人たちが流出したまま戻って来ていないわけです。

もちろん、その中には、「新規でやってきたけど、肌に合わなくてすぐ離脱した」という人も多く含まれているでしょう。

でも、「以前から読んでいたけど、なんとなく価値観が合わなくなって離脱した」というケースだって、いくらかは含まれているはずです。

実際のところ、私がブログを開設した初期からの古参(と言うほど古くもないけど)の読者は、いったい何人くらい残っているのでしょうか?

初期の頃は、私の探求の師である山家さんが自身のブログで私のことを紹介してくださり、そこからたくさん探求者たちが流入してきました。

彼らの大部分は、真剣に「真理を理解したい」と思っている真摯な探求者だったであろうと思います。

でも、私は「悟り」という概念を途中で捨ててしまいました。

そして、しまいには「誰もが既に『光明』を得ている」とか、「各自が日々の生活の中で『仏性』を表現すればいいのだ」とか言い出したのです。

こういった私の言葉に触れる中で、「必死に修行して悟るのだ!」と思っていたストイックな読者たちは、たぶん「これはダメだ」と思って離脱したでしょう。

でも、私としては本当にそう思うのですから仕方ありません。

そもそも、私は別に人を集めるために文章を書いているわけではありません。

人々がやって来るのだとしたら、それは彼らが自分から来たのです。

私が「来い!」と命令したことは一度もありません。

そしてまた、もし人々が去っていくのなら、それは彼らが自分から去って行ったのです。

私は「出ていけ!」とは一度も言ったことがありません。

なぜなら、私にとって「自由」こそが最も価値あるものだからです。

私は「自分の言いたいこと」を言う。

読者は「来たい時」に来て、「出ていきたい時」に出ていく。

そこには、何の矛盾も衝突もありません。

各自が「自由」に生きて行ったらいいだけです。

だからこそ、私はいつも「一期一会」だと思って書いています。

あなたがこの文章を読んでいるのも、「何かの縁」です。

「読まないこと」がいくらでもあり得たのに、なぜかあなたはこのページを開き、こんな「わけのわからない独り言」をここまで読んでくれました。

それは「偶然」でしょうか?
それとも「必然」でしょうか?

まぁ、それはそれとして、たとえあなたがいつかここを出ていく時が来たとしても、私は決して引き止めません。

なぜなら、あなた自身が「出ていこう」と思ったのなら、それは「出ていくべき時」が来たということだからです。

人は、出会いと別れを繰り返しながら生きていきます。

そういった「巡り合い」を固定しようとして、「来い!」と命令したり、「行くな!」と言って引き留めたりすることは、私の「美学」に反します。

なので、私は誰が来ても誰が来なくても、同じように語り続けるでしょう。

どのみち、私は「私以外」にはなれません。

私には、こうとしか在れないんです。

でも、私はそれを「束縛」としては感じません。

なぜなら、それが「私の心」の表現だからです。

しかし、多くの人は、「自分の心」を誤魔化しては、かえって自分を「束縛」します。

「こんなことを言ったら、馬鹿にされるんじゃないだろうか?」
「本音を言ったら、みんなが去って行ってしまうんじゃないだろうか?」

そんな風に恐れることで、人は「心にもないこと」を言ってしまうのです。

でも、それによって苦しむのは、その人自身です。

「自分の心」を封じ込めては、他人に「来い!」と命令し、「行くな!」と言って追いすがり、不安にさいなまれ続けるのです。

でも、たとえ自分一人だけになったとしても、別にそれでいいではないですか。

その時、少なくとも、その人は「自分の心」だけは裏切らないでいられます。

そして、もしも「自分の心」を裏切らないなら、きっと誰かがその人の前で足を止めます。

真っ直ぐに心を表現するなら、それは真っ直ぐに誰かの元に届くものです。

「たった一人じゃ意味がない」と思うかもしれませんけれど、その「たった一人」をないがしろにした先には、誰も待ってはいないものです。

むしろ、その「たった一人」に自分の心を注ぎ込むなら、かえって自分が救われます。

なぜなら、その時その人は、「目の前の一人」と向き合うことを通じて、「自分の心」を満たせるからです。

「偽りの自分」をあちこちで配って歩いても、それによって心は満たされません。

むしろ、そういうことを続けるほどに、内側の焦燥感と空虚感は大きくなっていくことでしょう。

そして、そういった焦燥感や空虚感から目を逸らすために、当人はますます「偽りの自分」を分厚く塗り重ねることになるのです。

「真実」であるためには、「偽り」を落とす必要があります。

しかし、それは最初「自殺」するほど怖く感じられます。

そこには、自分が持っているものをすべて失うような恐怖があります。

でも、大丈夫です。

「偽り」を落としたとしても、死んだりすることはありません。

ただ、「離れていくべき人達」が自然と離れていくだけです。

聖者の中にも「欲望」は渦巻いており、知識人たちの中には「無知」が深く根を張っています。

「自分は本当は煩悩だらけなのだ!」
「自分は本当は何も知らないのだ!」

ただ、ありのままにそう言えばいいだけです。

それを難しくしているのは、自分自身です。

人々に「来い!」と命令し、「行くな!」と言って追いすがる、その人自身の「寂しい心」が、「偽りの仮面」を作るのです。

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