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知者には「無知」を突きつけて、無知者には「智慧」を思い出させる

私の文章を読むことで、かえって精神的に不安定になる人も、結構いるのではないかと思います。

理由はたぶん二つあります。

一つは、私が「人々の知りたがっていない真実」をあえて書いているから。

もう一つは、私が「人々が無意識に寄りかかっているもの」を積極的に破壊していくからです。

そもそも、私たちは主観的には「真理を悟りたい」と思っていても、実際には自分から目を閉じてしまっているものです。

本当のところ、人は「真理」を知りたがってなどいません。

なぜなら、「真理」を知ってしまうと、当人が必死でしがみついている「理想」を全部投げ出さないといけなくなりますし、その過程で多くのものが必然的に失われることが当人にもうすうすわかっているからです。

私自身は、「真の探求」に入る過程で、それまで拠り所にしていた「師」によって道場から追放され、百人以上いた「修行仲間」とのつながりを失い、さらには家族も仕事もお金も失って、完全に無一文になりました。

当時は深く絶望したものですが、今ならわかります。

あれは「必要なこと」だったのだ、と。

おかげで私は「なにものにもしがみつかず、素直に学ぶ」ということが、生まれて初めてできました。

私が「最終的な理解」に到達できたのは、紛れもなく、そのおかげです。

言い換えれば、その時の私が何も持っておらず、「手ぶら」だったことが、私の「悟り」に大いに役立ったわけです。


チベットには、「弟子の準備ができると師は現れる」という言葉がありますが、これは本当にその通りです。

「弟子」の側が目を開き、「奥義」を受け取る用意ができると、その人には「師」がちゃんと見えるようになります。

その「師」は、ひょっとするとそれまでずっと内心で馬鹿にしていた「街の乞食」かもしれません。

そういうことは、十分に在り得ます。

それまでにもずっと視界に入っていたのに、当人の心が閉じていたために、それが「師」だとわからなかっただけなのです。

また、時としてその「師」は、人間でさえないかもしれません。

なぜなら、「師」というものは、本来この世界に遍満しているからです。

もしも「弟子」の側が本当に開いていれば、「生身の師」に巡り合う必要さえありません。

時に人は「月」を眺めていただけで「悟り」に到達し、たまたま踏み入った森の奥で見た「大樹」に促されて「悟り」に到達したりしてきました。

もしも「弟子」に準備ができていれば、この世のどんなものでも「奥義」を伝授することができます。

これをして、道元は「もし自己を忘れれば、その人は万法によって証せられる」と言ったのです。

実際、「これがないと自分は終わりだ」という執着を全部手放すと、「この世の全て」がその人を悟らせるようになります。

だから、「悟り」という現象は、実は必然的で自然なものです。

そもそも、人間以外の全ての動植物は「悟り」を体現しています。

もちろん、人間の「覚者」のように、彼らは「自身の悟り」を自覚してはいませんが、私たち人間のように迷いや疑いに囚われてはいないのです。

それは、本来「悟り」という現象が「自然なもの」だからです。

にもかかわらず、私たち人間に「悟り」がほとんど起きないのは、私たち自身が必死で「悟ってたまるか!」と日々抵抗し続けているからなのです。


たぶん、このことはほとんどの人には受け入れがたいと思います。

「自分はもっと成長しようと思って必死に努力している!」
「『悟り』を得るために日夜実践している!」

多くの人は、そのように言うと思います。

でも、実際には私たちは自分で自分の進行を妨げ続けています。

なぜなら、「前に進むこと」を内心では恐れているからです。

もしも当人が「前」に進むと、必然的に「喪失」が起こります。

その人は社会から排斥されるかもしれませんし、集団で孤立するかもしれません(実際、私はそうなりました)。

それまで大事に抱え込んでいたものを、たくさん失う可能性があります。

そして、その人は一時的に「目眩めまい」を起こして、精神的に不安定になります。

自分の足場がガラガラと崩れていくような感覚を覚え、「確かなものは何もない」という底なしの不安感に襲われます。

作家のアルベール・カミュはこのような状況のことを「不条理」と呼んでいました。

彼は、「いかなる判断基準も与えられていない時、人はどうやって自分の行動を選択するのか?」という問題意識を持っていたようです。

普通、人は「何らかの判断基準」を強く握りしめ、それに無意識に寄りかかって眠り込んでいます。

しかし、何かの拍子にこの「寄りかかっていたもの」がなくなると、当人は「ハッ」と目が覚めて狼狽します。

「自分はいったいどうしたらいいか」がわからなくなってしまうからです。

「行動する際のルール」をしっかり与えられている人は、こういった「目眩」を感じることがありません。

なぜなら、そういう人は、「教師」や「社会」が与えてくれる「ルール」を参照し、「自分は正しい」と信じ込むことができるからです。

そして当人は、「自分の選択」に対して自分自身で責任を負うことはせず、いつも「外側の何か」に寄りかかり続けるのです。

「悟り」という体験は、こういった「外側への寄りかかり」が全て解除された状態に心の底から安住できた時、自然と起こります。

「何一つ確かなものがない」ということの中で深く呼吸ができた時、その人は「自由とは何か」を理解するのです。

でも、初めて「寄りかかり」が解除された時、当人はそこに「目眩」を覚えて怖くなるはずです。

そこには「不条理」という深淵が口を開けていて、当人は「世界の溝」に落ち込んでしまいます。

もはや「何をしたらいいか」を誰も指示してくれず、「何が正しいか」を誰も保証してくれなくなります。

「それでも、あなたは深く呼吸ができますか?」と問うてくるのが「真理」です。

実際、人は毎瞬間ごとに「真理」によって問われています。

「何にも寄りかからずに立てますか?」と。

でも、ほとんどの人は絶えず何らかの「出来合いのルール」に寄りかかっているため、この世界に遍満している「真理」の声が聞こえません。

当人が本当に開いていれば、それは自然と聞こえるのですが、「ルール」にしがみついてしまっていると、何も聞き取れないのです。


どうも私には、昔から「人を悟らせる傾向」があったようで、私の書く文章を読むと、読者はだいたい三通りの反応をしました。

一つ目は「何も感じずに表面だけなぞって素通りする」というパターン。

これは最も「普通」の反応で、九割くらいはこれだと思います。

まだ「時期」が来てないのでしょう。

次は、「自分は無知だ」と思っていた人が、急に「智慧の尻尾」をつかむパターン。

暗闇の中で「光」を探して彷徨っていた人が、私の文章を読む中で、突然何かを理解し、「あ、そうだったのか!」と膝を打つようです。

そして、三つ目のパターンは、「自分は知者だ」と思っていた人が、突然、自分のことを疑い出すパターンです。

それまで自信満々で語っていた専門家が、私の文章を読んだ途端、急に自信を失って、しどろもどろになるのです。

実際、私は過去にマッサージのお店で働いていた時、その業界の「闇」についてブログで書いていたのですが(「闇」について詳しく知りたい方は自伝を読んでみてください)、これをたまたま読んだプロのマッサージ師が精神不安定になったことがありました。

私はまだペーペーのアルバイトだったのですが、そんな私の書いた文章を読んで、おそらく何十年もキャリアのあったプロのマッサージ師が、自分を疑い出したのです。

おそらく、私がやっていることは、過去にギリシャでソクラテスがやっていたことと似ているのだと思います。

ソクラテスは、当時のギリシャの知識人や政治家たちを徹底的に論破していきました。

「自分は知者だ」と思っていた人々に対して、議論を通して「実は無知だった」という事実を突きつけ続けたのです。

その姿を見て、「自分は無知だ」と思っていた人たちは「弟子」になってついていき、「自分は知者だ」と思い込んでいた人たちは「無知」を暴かれて逆上しました。

結果、ソクラテスはギリシャの権力者たちから恨みを買って、見事に死刑にされたわけです。

おそらく「本当のこと」を言おうとすると、必然的にそういうことになるのだと思います。

「知者」というのは「無知者」であり、「無知者」の中には「智慧」が埋蔵しています。

でも、それを指摘することは、権力の中枢にいる「知者」の恨みを買うことになります。

とはいえ、私は今のところ、ソクラテスのように自分のほうから「知者」の元に出向いていって喧嘩を吹っ掛けたりはしていないので、ほとんど誰も私の存在を知りませんし、だからこそ無事でいるのでしょう。

ただ、もしも万が一、「知者」が私の文章を読んだら、その人は「不条理の深淵」に飲まれて混乱するはずです。

でも、それはその人が「悟り」に至るために必要なプロセスです。

その人は、「ずっと無意識に寄りかかっていたもの」を失い、一時的に茫然自失しているだけであり、時間が経てば、「自分の足」で立って安定し始めます。

でも、そのためにはある程度の「瞑想力」が必要でしょう。

つまり、自分の恐怖や不安に飲まれないだけの「心の強さ」が要るということです。

多くの人は、自分の恐怖や不安に飲まれてしまうため、無意識に防衛反応を起こします。

要は、「こんなことを書く人間は邪悪な存在だ!」と言って、書いた私のほうを断罪することで、「自己正当化」を図るのです。

ちなみに、過去に私の文章を読んで精神が不安定になったプロのマッサージ師の人は、私を糾弾しませんでした。

きっと、とても「誠実」な人だったのだと思います。

最終的にその人がどんな理解に到達したかは確認できませんでしたが、「自己正当化」に逃げなかった以上、「目眩」から回復することを通じて、何かしらの「悟り」を得たはずです。

ともあれ、人によっては、私が書いたものを読むと、かえって精神が不安定になると思います。

そして、往々にして当人は、「何か間違ったことが起こっている」と思うはずです。

しかし、実際には、何も「間違ったこと」は起こっていません。

それは、「ずっと無意識にしがみついていたもの」を私に奪われて、当人が「自分の足」で立たざるを得なくなった結果として発生している、一時的な「目眩」の感覚に過ぎないのです。

生まれたての小鹿が身体を震わせながらやがて自分の足で立つように、しばらくすると、当人の「魂の身震い」は収まって安定します。

そして、その人の精神は「以前よりも高い次元」で統合されるようになり、前だったら不可能だったようなことを、易々とおこなえるようになるでしょう。

このため、「覚者」というのは「成長スピード」が異常に速いです。

なぜなら、彼/彼女は何にもしがみついていないからです。

もはや「捨てるもの」がないので、「覚者」は起きている間中、「万法」によって悟らされ続けます。

このため、「悟った師」の弟子になると、弟子は「師がどこまでも成長し続けるので、永遠に差が縮まらない」という感覚に陥ることがあります。

でも、そういうものなんです。

実際、「自分の成長」を本当に阻んでいるのは、自分自身です。

誰もが自分で無意識に「限界」を設定し、それを決して超えないように「力」をセーブしているのです。

なぜなら、もしも「限界」を超えてしまうと、そこには「不条理」が口を開けて待っており、当人は「目眩」の中で「吐き気」を覚えるようになるからです。

でも、そういう時は、さっさと「吐くべきもの」を吐いてスッキリしてしまったほうが、本当は良いのです。

というのも、自分を「無知」に縛り付けているものを吐かないまま、ずっと腹の中に抱え込んでいるからこそ、その人は苦しみ続けているのだからです。

なので、私はこれからも「知者」に対しては「あなたは無知だ」と言い続けますし、「無知者」に対しては「あなたの中に智慧は在る」と言い続けます。

たぶん95%くらいの人は、それを「狂人の妄想」と見なして無視するでしょうが、中には「目眩」を覚える人もいるでしょう。

もしも「目眩」を覚えた場合は、「苦しみと向き合うべき時が来たらしい」と覚悟を決めたほうが良いと思います。

実際、そうなのですから。

もはや「逃げ場」はありません。

自分を騙し続けることにも限界があります。

そもそも、「もうこれ以上自分を騙すのは無理だ」と内心で感じている人だけが、「目眩」を起こします。

なので、「目眩」というのは、実のところ、「もっと誠実に生きたい」という願いがその人の中で芽を吹く時に起こる「至極健全な反応」なのです。


もしもこの文章を読んであなたに「目眩」が起こったとしたら、それは「必要な放棄」が始まったサインです。

きっとそこには恐怖と不安があるでしょうけれど、やがてはそれも落ち着きます。

そして、その時にあなたは「以前とは違う人間」になっているはずです。

その時あなたは、「不条理の谷」を越えていき、「自分の真実」をつかむでしょう。

あなたが自分自身の「無知」に対して、「誠実」に向き合える人間であることを祈ります。

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