精神分析の祖であるフロイトは、非常に鋭く、かつ深い洞察を、私たちの世界にもたらしました。
彼は人間の無意識というものを定式化し、私たちが思考や感情を抑圧して生きていることを示したのです。
しかし、あくまでも彼は「病人」だけを相手にしていました。
当たり前ですが、そこには「健康な人間」はやってきません。
それゆえ、彼の理論は「病的な人」にしか当てはまらないものになってしまっています。
おそらく彼には、「思考や感情を一切抑圧しない人間」というものが理解できなかったはずです。
というより、そもそもそんなことのできる人間が実在すると、彼は信じていなかったでしょう。
しかし、もしも瞑想の実践を続けていくなら、どこかの段階で「自我(エゴ)」による支配体制が崩壊します。
そして、当人は何も抑圧することなく、ありのままに現実を見始めるのです。
もちろん、「そんなのは単なる思い込みに過ぎない」と精神医学にかかわる人々は言うでしょう。
ですが、当人は何年にもわたる瞑想的な生活の中で、何万時間もかけてそれを検証してきたのです。
徹底的に「自我」を疑い、その「疑う機能」さえもが沈黙した時、心は透明になって「鏡」のように現実を映し出し始めます。
その人は、たとえ「自我」が傷つくような思考や感情が湧いてきても、それを一切抑圧しなくなります。
どんなに「残虐な思考」が湧いて来ようと、どれほど「自分の弱さを自覚させる感情」が湧いて来ようと、「それがそこに在る」とだけ認識して、当人はこれを抑え込もうとはしなくなるのです。
その時、当人は「自分の中に在る思考や感情」を、あたかも自分の手足の存在を確認するように、客観的に観察することができます。
決して「見なかったこと」にせず、「感じない振り」もしようとしないで、そのままそれを観るのです。
そのような実践を何万時間も積み重ねた結果、もし思考や感情が沈静化すると、「今、自分の内側には何も無い」と、当人は明確に気づきます。
いえ、実際にはそんな風に言語化さえしません。
ただ当人は、「自分は何も抑圧していない」ということを、あたかも自分に「三本目の手」が無いことを確認するかのようなレベルで、確信することができるのです。
でも、フロイトにはそんな人間のことは全く理解できないでしょう。
そして、現代の精神医学においては、「毎日、起きてから寝るまでずっと持続的に幸福を感じている人間」が理解できません。
そういった人間は「躁状態に陥っている病人」だと見なされます。
精神医学に理解できるのは、「病的な状態」と「通常の状態」だけであり、「真に健康な状態」は理解できないのです。
しかし、「自己」を確立する過程において、人は「持続的な生命力の高まり」を経験するようになります。
今までできなかったことができるようになり、どれだけ活動してもエネルギーがどんどん湧いてくるようになるのです。
これを見て、精神医学は「躁状態の兆候だ」と見なして、これを抑え込もうとするでしょう。
しかし、それは当人が本当の意味で「羽化」する過程で自然と起こる「生体反応」です。
実際、このような「高エネルギー状態」には持続性があり、「病的な躁状態」のように「抑うつ状態」を引き起こしたりしません。
そして、それこそが本当の意味で「健康な状態」と言えるものなのであり、この段階になった時、ようやく当人は「自分自身」を生きることができるのです。
ですが、そういった「真の健康」について理解できないのは、おそらく精神医学だけに限った話でもないでしょう。
実際、世の中のほとんどの人が知っているのは「不幸」か「無感覚」かのどちらかだけです。
人は、「自分は今不幸だ」と思っているか、「自分は今何でもない」と思っているかの、どちらかなのです。
そんな中にあって、常時「幸福感」の中に生きている人がいたとしたら、それは「異常」扱いされてしまいます。
そして、ほとんどの人には、「低エネルギー状態ゆえに不幸になっている病的な状態」と「高エネルギー状態を維持しているがゆえに幸福感が持続している健康な状態」との区別がつかないのです。
インドの覚者であるOSHOは「異常」「通常」「超常」の三つを説きました。
「異常」とは「病的な状態」であり、そこからは「狂気」と「不幸」が生まれてきます。
「通常」は、こういった「狂気」や「不幸」が、それほど気にならない範囲に収まっている状態です。
普通、この「通常」の状態のことを、人は「健康」と呼んでいます。
しかし、実際にはもう一つ上の段階があります。
それが「超常」です。
その時、人は常に「幸福」を感じながら生き、明晰に思考しつつ、目の前の作業に没頭し始めます。
その集中力はすさまじく、常人では考えられないような創造性を発揮することもあります。
でも、頭だけで考える人々には、「異常」と「超常」の区別がつきません。
なぜなら、どっちも「規格外」だからです。
頭にわかるのは「規格品」だけです。
それゆえ、「規格から外れたもの」は、その「質」を判断しないまま、十把一絡げに「異常」というボックスに放り込まれます。
そうして、「超常」の状態にある人のことを、「躁状態に陥って誇大妄想に取り憑かれた病人」と見なすのです。
でも、「超常」の状態にある人は、たとえそう思われても別に気にしません。
ただ、「どうもこの人はわかっていないらしい」と思うだけです。
「まだ理解する用意のない人」に物事を理解させることは誰にもできないので、「超常」の人は「相手にわかってもらおう」とは思わずに、きっと目の前にある「自分の仕事」をすることでしょう。
それゆえ、私もまた、自分の言っていることを、すぐに読者にわかってもらえるとは思っていません。
でも、いつか届く日が来ると思っています。
それは五年後かもしれませんし、十年後かもしれません。
あるいは、私が死んだ後になるかもしれないです。
でも、もしも読者の中で「受け取る用意」ができたなら、その時、「私が本当に伝えたかったこと」は、はっきり理解されるでしょう。
なので、私も特に焦っていません。
どうせ最初から全て「遊び(リーラ)」なんです。
「輪っか」はいつまでも回り続け、誰にでもいつかは「順番」が回ってきます。
ちなみに、私はその「順番」が回ってくるまでに、41年間も生きねばなりませんでした。
少なくはない苦難も乗り越える必要がありました。
そして、誰もがそうやって苦難を乗り越えて、いつかは「自分の順番」を迎えるのです。
「自分の順番」が回ってきた時、あなたは誰かに何かを託さずにはいられなくなります。
その時のあなたの仕事は、「次のプレイヤー」にパスすることです。
それは、今この瞬間に始まるかもしれませんし、あと五年や十年かかるかもしれません。
でも、いつかきっと「それ」は起こります。
そうして今度はあなた自身が、「私のパス」を受け取って「コート」に立ち、「あなたの遊び」を始めるのです。

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