◎「快の感覚」に従って「動物的」に生きる
最近は、「腹が減ったら食べて、眠くなったら寝る」という「野生動物」みたいな生活をしています。
なので、お腹が減らない日は無理して食べないので、「一日一食」とかのこともあります。
逆に、お腹がよく空く日は、「一日四食」くらい食べることもあります。
しかも、時計というものを意識して見ていないので、それが朝食なのか昼食なのかよくわかっていないこともあります。
「昼になったしご飯にするか」ではなくて、「なんか腹減ったしご飯にするか」という感じなのです。
また、睡眠に関しても、「眠くなったら寝て、目が覚めたら起きる」ということをしてます。
だから、昼だろうが夜だろうが、眠くなったら寝るし、眠くならない時は無理して寝ません。
その結果、一日2~3時間くらいしか寝ないで平気な時もあれば、10時間くらいぶっ通しで寝続けることもあります。
とはいえ、それもやっぱり時計を気にして見ていないので、「たぶんそれくらい寝たんじゃないか」と推測しているだけに過ぎません。
本当のところ、今の私が一日に平均で何時間寝ているのか、私自身も全然把握していないのです。
これは、世間一般の常識からすると、「不規則な生活」という烙印を押され、「不健康」とされることでしょう。
でも、毎日ブログを更新しつつ10日間ほどで四冊本を書けるくらい頭も回っていますし、血の巡りもいいらしく、今は真冬ですが手足がいつもだいたいポカポカと温かいです。
専門家は、「一日8時間寝ないといけない」とか、「何時までに寝ないと成長ホルモンが出なくなる」とか言うのでしょうけれど、私自身の実体験によれば、寝たい時に寝て、起きたい時に起きる生活をしているほうが、よっぽど心身のポテンシャルは引き出せます。
特に、私はそういう生活をすることに対して一切罪悪感を持っていないので、精神的にもネガティブな影響が全く発生しません。
たぶん他の人が私と同じ生活をいきなりしようとすると、「こんな非常識なことをしていていいのだろうか…?」という想いに囚われて、伸び伸び過ごせないと思います。
でも、私の場合は、「自分にとって『快』であるか」ということしか「生きる上での指針」がないので、もしそれが「快」であれば、どんなに非常識であっても「正解」だと思うようになっています。
だから、何の迷いもなく「食べたい時に食べて、寝たい時に寝る」ということができるわけです。
◎頭によって振り回される現代人
多くの人は、「だけど、そんなことを身体に許したら、自堕落な生活を送るようになってしまうのではないか?」と心配するでしょう。
でも、そもそも、それの何が問題なのでしょうか?
もしも、身体が「食べたい」と言うのであれば、それは必要なことなのです。
また、もしも身体が「寝続けたい」と言うのであれば、それだけ寝不足が積み重なっていた可能性があります。
問題は、頭がここに介入してくることです。
頭は「偽物の空腹」を作り出すことがあり、「身体には飢餓感がないのに何かを食べようとする」ということが起こりえるのです。
たとえば、「心の中に空いた穴」を塞ぐために過食に走る人がいます。
心が「満たされなさ」を感じると、頭は「何かが足りない…。もっと、もっと欲しい!」と言って暴走し始めるのです。
そうして、身体が「空腹」を訴えていないのに、頭は「食べ物で空虚さを満たせ!」と命令を出し始め、お腹がはち切れて吐き戻すほど食べるようになります。
それは「身体の欲求」に従った行動ではなく、「頭の欲望」に基づいた「身体の虐待」です。
本当は、「頭が発するヒステリックな叫び声」に従うのではなく、「心が静かに呟く声」をこそ聴いてあげるべきなのです。
きっとその人の心は「寂しい」はずです。
心には、何か「言いたいこと」があるはずなのです。
それをちゃんと聞いてあげて、「辛かったんだな」「苦しかったんだな」と認め、自分自身の心の傷と和解しない限り、心の中の「満たされなさ」は消えません。
そして、そのような「心の穴」を残したまま、「食べたいだけ食べる」という生活をしてしまうと、それは当然、食欲が暴走して身体を壊すでしょう。
また、寝ることについても、本当に心身に疲れが溜まっている人、それこそ鬱病になりそうなくらい疲弊している人は、何日間も寝続けるくらいでちょうどいいはずです。
でも、やっぱりここでも頭が介入してきます。
「こんなに寝ている自分は怠け者なんじゃないか?」
「こうしている間も、みんなは一生懸命に頑張っているのに…」
そんな風に考えてしまい、ちっとも心が休まらないのです。
でも、心が疲れている時は休むべきですし、身体が疲弊している時は寝ているべきです。
それは決して「罪」ではありませんし、たとえ「生産性」が下がろうと知ったことではありません。
そもそも、「生産性」を気にしている動物なんて人間くらいのものです。
実際、野生の動物は「生きていくのに困らないだけの食べ物」が得られれば、それ以上は働こうとしません。
でも、人間だけは「生きていられるだけの蓄え」があっても、働いていないと精神的な安定が図れないところがあります。
「常に何かに貢献し、絶えず自己成長していないと『罪』である」かのように思い込んでいるのです。
でも、繰り返しますが、疲れている時は休むべきなんです。
それは「罪」ではありませんし、むしろその人にとって「必要なこと」なのです。
逆に、疲れているわけでもないのに、「毎日きっちり8時間寝ないといけない」という風に思い込むと、身体が寝たがっていないのに、無理に寝ようとすることにもなりかねません。
そういう時、身体は睡眠を求めていないため、「まだ寝たくないよ」と言うのですが、頭は「ダメだ!一日8時間は寝るのがノルマだ!」と言って聞かないのです。
こうなると、身体と敵対することになってしまい、「なかなか寝付けない身体」は当人の中で「悪」と認識され攻撃の対象となっていってしまいます。
そうして当人は頭の中で「あー、早く寝ないと!」とグルグル考えてしまって、結局眠れずに無力感や罪悪感を抱き、身体を敵視することになってしまうのです。
◎「無垢」を取り戻さない限り、身体と共には生きられない
これらの問題は、身体に外側から「正解」を押し付けることによって起こります。
しかし、実際のところ「身体にとっての正解」は内側で常に脈打っています。
だから、「外側の答え」については棚に上げて、先に「内側の声」を聞いてあげたほうが、「身体の本音」はわかるのです。
そもそも、頭には「数値化できるもの」しか理解できません。
もちろん、社会生活を送る上では「数字」も非常に大事なのですが、それだけでは「命」のことは何もわかりません。
なぜなら、「今ここで現に生きているもの」は数値化して理解することができないからです。
実際、高血圧などの疾患になった時、それについて医学的な治療をすると、かえって治療をしないで放置した場合より寿命が短くなるのだそうです。
おそらく、「医学的な数値」を絶えず気にしながら、「不健康な生活」を罪悪視する心の在り様が身体の寿命を削るのでしょう。
つまり、高血圧という「身体の病」を抱えることよりも、むしろ「それを数値化して管理しようとする」ということのほうが、よっぽど身体に「悪い」のです。
このように、「心と身体の声を聴く」というのも案外難しいものです。
実際、もしも当人の心の中に「満たされなさ」が残っていると、それが暴走して過食や拒食を引き起こすでしょうし、固定観念に囚われていれば「こんな生活をしていていいのだろうか?」という迷いや疑いから自由になれません。
私たちが動物のように生きるためには、「無垢」をもう一度取り戻す必要があります。
「透明な心」と「純粋な身体」がなければ、人は「動物」のようにはなれないのです。
◎「労働(レイバー)」が「仕事(ワーク)」を駆逐する
でも、多くの人は別に「動物」みたいになんてなりたくないでしょう。
そもそも、そんな「野生動物みたいな生き方」をしていたら、社会生活が送れません。
会社員はみんな始業時間に縛られていますし、学生だって一限目の時間は決まっています。
毎朝キチっと決まったい時間に起きないと、「まともな人間」として認めてもらえないのです。
でも、そんな生活が「普通」になったのは、せいぜいここ数百年くらいのことではないかと思います。
もっと前まで、人間はここまで労働というものに縛られてはいなかったはずです。
もちろん、昔は今のように科学技術やAIが発達していなかったから、たくさん働かないと生きていけるだけの生産物を産み出すことはできなかったでしょう。
でも、「時間」というもので画一的に人間を管理する体制は、おそらくイギリスの産業革命以前にはなかったと思います。
産業革命以降、人間の仕事は質が変わってしまったのです。
たとえば、ユダヤ人の思想家であるハンナ・アーレントは、人間の行動を「労働(レイバー)」「仕事(ワーク)」「活動(アクション)」という三つの分けて考えました。
「労働(レイバー)」というのは、生存のための必要からおこなわれるものであり、これによって、「個の維持」が図られます。
また、「仕事(ワーク)」というのは大工仕事をイメージするとわかりやすいです。
これは、人間が生活のために必要な物質を手仕事で創り出す行為を指しており、これによって人は、「自分の指紋」のようなものを生活の中に残すことが可能です。
そして、「活動(アクション)」というのは政治的な活動や芸術的な表現行為を指し、「それが歴史を創り出すのだ」とハンナ・アーレントは言います。
ともあれ、産業革命以前に「働く」と言えば、それは基本的に「仕事(ワーク)」でした。
もちろん、奴隷として虐げられていた人々は仕方なく「労働(レイバー)」をしていたかもしれませんが、多くの人は「自分の仕事(ワーク)」に誇りを持ち、「自分だけの作品」を人々に日々提供していたのです。
しかし、産業革命以降、人間は、効率よく規格品を量産するための「単なるパーツ」になっていきました。
それゆえ、生産効率の悪い「仕事(ワーク)」はどんどん劣勢になっていき、「労働(レイバー)」が主流を占めるようになってしまったのです。
こうした経緯があるため、今の日本社会においても、「感情を殺して効率的に生産する労働者(レイバー)」になることをもって、世間からは「大人になった」と評されます。
逆に、心や身体の都合を訴えて、言われたとおりにしない人間は「未成熟な子ども」と言われかねません。
それゆえ、多くの人々が、社会から受け入れられるために、「心と身体の声」を圧殺して「無感覚な労働者(レイバー)」になっていきます。
確かに、それによって「生存」は確保されるのですが、そこまでして得た人生を、当人は「もういっそ早く終わってくれ」と思いながらイヤイヤ生きていたりするのです。
◎私たちの「身体性」こそが、「労働」を「仕事」へと変える
だから、私たちは「労働(レイバー)」への過度な依存から脱し、もう一度「仕事(ワーク)」や「活動(アクション)」の重要性を思い出す必要があります。
たとえば、それは「出来合いのお弁当で食事を済ませず、自分の手で一から料理を作る」ということかもしれません。
なぜなら、食事を出来合いのコンビニ弁当で済ませるのは「労働(レイバー)」のサイクルの一部ですが、自分だけの料理を作り出すことは「仕事(ワーク)」の文脈に属する行為だからです。
そして、「生活のための生産」を超えて、政治的な活動や芸術的な表現をすることによって、人は「活動(アクション)」の世界に足を踏み入れます。
それは「自分自身の命の表現」であり、結果的に人々を動かし、社会を変え、「歴史の流れ」を創り出すのです。
そして、その「活動(アクション)」に至る最初の一歩は、実のところ、「自分の身体性と向き合う」ということだったりします。
現に今ここで生きて脈打っている「自分の命の声」を聴くこと。
それによって、無機質で機械的な「労働(レイバー)」から、生産物に「個人的な指紋」を残そうとする「仕事(ワーク)」へと軸足が移っていきます。
なぜなら、その作品につけられた「指紋」というのは、その人の「身体性」に根を持ったものだからです。
実際、「本物の人」が語る言葉には、その人の温かな「血」が通っています。
その人はいつも「肉声」で語り、決して「借り物の言葉」を口にしません。
逆に、「偽物の人」が語る言葉には「血」が通っておらず、彼らはいつも他人の口真似ばかりしています。
だから、量産品のカーボンコピーである「労働(レイバー)」を、唯一無二の作品を生む「仕事(ワーク)」に変えるためには、「個人の身体性」が必要不可欠なのです。
そして、そのような「仕事(ワーク)」をすることのできる人こそが、「歴史の流れ」を生み出すような「活動(アクション)」の次元へと進んでいくことができるのです。
◎「労働」に閉じ込められて窒息しかけている現代人
とはいえ、ハンナ・アーレントは別に「労働(レイバー)」というものを「悪」として描いたわけでもなかったようです。
実際、もしも「労働(レイバー)」に深く没入するなら、「労苦に耐えて生産する喜び」を味わうことができるものです。
「生きている実感」の根はそこに在り、一切の「苦労」を根絶してしまうと、それはそれで「人間の生命力」を削ぐことになります。
しかし、今の時代の「労働(レイバー)」は、もはやかつてのような「清々しさを伴った苦労」ではなく、「理不尽な仕方での人間の磨り潰し」になってきています。
それはおそらく、産業革命以降、世界の「労働(レイバー)」をひたすら規格化してきた結果でしょう。
「替えが利くこと」や「いくらでも量産可能であること」を重視し過ぎたことで、「労働(レイバー)」に「血」を通わせることが、個人の努力ではほとんど不可能になってしまったのです。
そういえば、私はかつて、食料品の工場でライン作業のバイトをしていたことがあるのですが、この手の仕事は作業手順とノルマが完全に決められています。
それゆえ、そこからはみだすことは決して許されません。
決められた動作を決められた速さで、定時まで繰り返し続けないといけないのです。
でも、私はそんなのは堅苦しかったので、自分なりにやり方を工夫してオリジナルな作業手順を開発する「遊び」をしていました。
もちろん、最初はマニュアルのやり方よりも効率が悪いのですが、続けているうちに私のやり方のほうが生産性が高くなってきて、上司も最後には何も言わなくなってしまいました。
つまり、私は自分で勝手に「労働(レイバー)」を「仕事(ワーク)」に変えてしまったわけです。
でも、それもかなり昔の話です。
今のライン工の人たちに、そんな自由裁量権は与えられていないでしょう。
そうなると、基本的に全て言われたとおりにするしかないはずです。
こうなると、「労働者(レイバー)たち」は、「生産物に自分の『血』を通わせる」ということができませんし、そこで経験されるのは「清々しい苦労」ではなく「無意味な生命の消耗」以外の何物でもないはずです。
だから、まず「身体の感覚」を取り戻しましょう。
「感じること」よりも大事なことなんて、何もないんです。
全ては「そこ」から始まります。
自分の身体を感じ、感覚が開かれていくことで、私たちは「労働(レイバー)」によって席巻されているこの現代社会の中で「個人性」と「命の輝き」を失うことなく、生きていくことが可能になります。
逆に、もしも無感覚・機械的に生きるなら、その人は「社会的なシステム」に取り込まれてしまうことになるでしょう。
そうしてますます「無感覚・無感情な人間」になっていってしまい、その人の人生は色あせていってしまうのです。
◎「身体に根付くための第一歩」として入門書を書きました
ということで、「身体を開いて感覚を磨く本」を書きました。
あなたの感受性を豊かにする助けになると思いますので、ぜひ読んでください。

結局宣伝?
いや、最初はそんなつもりは全然なかったのですが、書き進めるうちに、「だったらこの本を読んでもらったらいいんじゃないか」という結論に自然となってしまいました。
なので、別に狙っていたわけではなかったのですが、そうなるだけの「必然性」はあったのだと思います。
ともあれ、kindle版なら、kindle unlimitedに加入していると無料で読めますし、加入されている方は、できればさわりだけでも少しのぞいてやってみてください。
あなたの身体が開き、感覚が豊かに育ち始めるための、「最初の一歩」を全力でサポートいたします。
はい、長くなりましたが、結局最後は宣伝でした。
「自分の身体」と和解し、「内なる動物性」が持つ輝きを失わずに生きることを求める人は「AmazonへGo!」で、よろしくお願いいたします。
ではでは。

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