「自由な生」とは義務ではなく、その人自身の命が導く必然である

私はブログや書籍の中でよく「身体の声を聴きましょう」ということを言います。

たとえば、「今、何を食べるべきなのか」は身体が知っているので、頭で栄養素を考えたりせず、身体が欲しているものをこそ食べたら健やかになれると、私としては思うのです。

でも、私がそのように言うのは、別に思想的な理由からではありません。

私は「身体の言うことが『正しい』のだから、それに従うべきだ」という理論を提唱しているつもりはないのです。

私はただ、「身体の声に耳を澄ませると、『快い生き方』を身体が教えてくれるものだよ」と言っているだけに過ぎません。

それは「呼吸が深くなる生き方」であり、「心が自由になる生き方」です。

そして、それは単純に「快」であるので、だから「身体の声」を無視しないほうがいいと私は思うわけなのです。

でも、世の中には「身体の声を聴くべきだ」ということを、教条的に言って回る人たちもいます。

たとえば、「オーリングテスト」というものがあります。

これは、片手で何かしらの物体に触れて、もう片方の手の指で輪っかを作り、この輪っかを他人が離そうとした時に離れないくらい強く指がくっついていたら、手で触れているその物体はその人の身体に適合していると判定する試験法です。

これもまた、見方によっては「身体の声を聴く」ということになると思います。

この食べ物は自分の身体に害をなさないか?
この物体を使うと、自分の身体はアレルギー反応を起こさないか?

そういったことを、「オーリングテスト」では感覚的に調べることができるわけです。

しかし、人によってはこういったメソッドそのものの「神秘性」に魅せられてしまって、「身体の声を聴いている自分」に酔ってしまうことがあります。

要は、「自分は他の人間とは違って、身体の声に配慮している」ということで、優越感を感じ始めるわけです。

こういった人たちは、確かに「身体の声」を聴こうとはするのですが、その動機は「快のある生き方」を求めることにはなく、「自分の特別性」を証明することだったりします。

つまり、そういった人たちは、「息を深くすること」や「心が自由であること」を求めているわけではなく、「自我を満足させること」を求めているということです。

もともと「オーリングテスト」を考案して普及させた人たちはそんなつもりはなかったかもしれませんが、何らかのメソッドが人々の間に広まると、それは金科玉条のように固定化して変質し始めます。

たとえ、もともとは「苦しむ人たち」の助けになることを願って開発された方法論であっても、それが普及してある種の権威性を獲得すると、それに乗っかって他人を攻撃する人々が必ず現れるのです。

そういった人たちは、「自分の苦しみ」を解決するために技法を使わず、他人を否定して自分の「自我」を満足させるために「師の教え」にしがみつきます。

そうして「教え」は腐敗し始め、本来の意味を失っていくのです。

なので、(まあ、そんなことはないとは思いますが、)今私が説いている内容も、そのうち何かの間違いで世の中に普及してしまった場合、「湯浅原理主義者」が現れて、私の言葉を論拠に使い、他人を攻撃し始めるかもしれません。

私自身にその意図がなくても、それはもう止めることができません。

私は何らかの「教え」を提示しているつもりはないのですが、受け取る側がそれを「絶対視」してしまうと、その人は「私の言葉」以外の言説を否定せずにはいられなくなります。

それは結局のところ、「その人の心が束縛されて不自由になっている」ということであり、私としてはまさにそういう人の心を解放するためにこそ語っているのですが、当人はそれを「自分事」として受け止めることがありません。

なぜなら、それを「自分事」として受け止めてしまったら、「自我」が見せてくれる「甘い夢」に酔い続けることができないからです。


それゆえ、覚者というのはいつの時代も弟子に「冷や水」を浴びせかける役割を担ってきました。

弟子が「教え」を絶対視し、そこに「甘い夢」を見始めると、「お前は道を間違っている」と言って目を覚まさせようとするのです。

でも、そう言われた側は気分がよくありません。

なぜなら、その人の主観では、「自分はまさに『正しい道』の中におり、『霊的な覚醒』が達成されようとしていたところだったのに」と感じられるからです。

しかし、実際にはその人はむしろ「覚醒」から遠ざかっており、「自分で作りだした夢」の中に引きこもってしまっています。

だからこそ、自分の現状も見えなくなってしまっており、冷静に自己分析ができないわけです。

結局のところ、「自我」を信頼することで私たちは「道」を間違うのです。

頭が言うことを信じて、身体の言うことを信じないから、「リアリティ(現実)」から乖離して、「実体のない夢」の中を彷徨さまようことになるのです。

ここで埋めるべきは、自身の「空虚な心」です。

なぜなら、もしこの「空虚さ」を直視することから逃げようとすると、人は無意識に「夢」を作り出し始めるからです。

「夢」の中に逃げて「自我」を満たし、「これで何も問題はない」と思おうとするのです。

でも、その過程でその人は「自分の正しさ」にしがみつくことになり、「正しくない他人」を攻撃することになり、時には「正しさ」から外れた自分を罪悪視することにもなってしまいます。


でも、別に私はそれを「悪いこと」だと言いたいわけではありません。

ただ私は「そういう生き方は苦しいものだよ」と思うだけです。

私はただ、全ての人に「自由」で在ってほしいと思っています。

そして、「自分の正しさ」にしがみついて、「自分の空虚さ」から逃げている人は、「罪人」ではなく「不幸な人」です。

だから、その人に本当に必要なのは「罰」ではなくて「救い」なのです。

問題は、当人が「救い」よりも「自己放棄」を望んでいるということです。

「自分自身として在ること」を放棄し、「出来合いの思想」や、「わかりやすい権威」に寄りかかり、「自分の人生を生きる」という責任を忘れようとしているということこそが、その人の「苦しみ」の根っこなのです。

私はそういう人にも「自由の味」を知ってほしいと思っています。

その人が「生まれた時に居た場所」へ還れるように、私は手助けがしたいのです。

でも、そのために私にできることは、「目を覚ませ!」と言って冷や水を浴びせることだけだったりします。

するとその人は怒って私のもとを去っていくでしょう。

当人はそれによって私に対して「仕返しができた」と思っているかもしれませんが、私からすると、その人が私の元にいようが離れていこうが、別にどっちでもいいのです。

問題は、その人が私に対して「仕返しをした」という想いを得るために、「夢から覚める機会」を棒に振っているということです。

そうしてその人は、どこまでも「自分自身」から逃げ続け、そのような自分のことを正当化し続けるのです。


私は何度でも言いますが、私たちの心を縛るのは、いつだって私たち自身です。

「苦しみの創造主」は私たち自身なのです。

だからこそ、もしも「苦しみ」を感じた時には、外に原因を求めず、内側を見つめる必要があります。

もちろん、パワハラ上司に傷つけられたのなら、悪いのはそのパワハラ上司です。

でも、それならなぜあなたはそんな想いをしてまでその職場に居続けているのでしょうか?
その時、あなたはパワハラ上司の存在に耐えることを通じて、何かを守ろうとしがみついているのではないでしょうか?

いずれにせよ、私たちの心が本当に「自由」であれば、他人にはその「自由」を破壊することはできなくなります。

当人は、たとえ牢屋にぶち込まれたとしても相変わらず「解放感」と共に息をすることができるでしょう。

逆に、もしも心が束縛されていれば、どんな豪邸も牢獄になります。

結局のところ、私たち自身の心が私たちの生きる世界を創り上げるのです。

だからこそ、その心を「快」で満たす必要があります。

自分を束縛せず、深い息と共に生きていくためには、心が透明でなければいけません。

でもそれは、「こうでないといけない」という強迫観念ではないのです。

ただ、生物として「快い生き方をしたい」という欲求を追求した結果として、人は「自由な生き方」に自ずから価値を見出すということなのです。

それゆえ、これは「自由でなければならない」という話ではありません。

そうではなくて、「私は自由で在りたい」というだけの話なのです。

なぜなら、それが「快」だからです。


「正しさ」を求める人は、「快の感覚」よりも「自分の勝利」に価値を見出します。

それゆえ、たとえ心が不自由になろうとも、それによって呼吸が浅くなろうとも、その人は「自分の正しさ」にしがみつきます。

そこから束縛が生まれ、当人は「自分の苦悩」を自分の手でせっせと作り始めるのです。

だから、どうか「自由」で在ってください。

それは義務ではありません。

あなたの命の必然です。

あなたの心と身体が求める「快」が、あなたのことを「自由」にし、あなたの内側に在る束縛を、ひとつ残らず破壊するのです。

そして、だからこそ、「快さ」に従って生きる限り、その人は「間違い」を犯すことがあり得ないのです。

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