全ての作為を捨てた時、「起こるべきこと」が起こり始める

さきほど、新しく気づいたことがあるので、共有しておきたいと思います。

昨夜は、深夜の12時ごろに目が覚めて、それから書籍の原稿を推敲していました。

それから、推敲にいくらか区切りがついたので、昨日Xでポストした短い洞察を新しい原稿にまとめる作業に取り掛かったのです。

これらは『断章集』の第二弾として、そのうち公開・出版するつもりです。

今の時点で完成している原稿も、先ほど公開しましたので、お読みになりたい方は下記の記事へ行ってみてください。

【アナウンス】「断章集」の第二段作成に着手しました

ちなみに、この数時間で既に100ページ弱の原稿が完成しています。

と言いますのも、昨夜起きてからずっと言葉が「降りて」来ていて、湧出が止まらなかったからです。

その中で、言葉の湧出が一区切りすることもあったのですが、そこで坐禅を組んでいると、不思議なことを起こりました。

いつもは、身体の中に「詰まり」や「痛み」や「強張り」があることに気づくと、そこに息を通して調整していたのですが、さっき坐禅を組んでいて「それも余計なことなのではないか」と思いました。

それで、本当に何もしないでただ坐っていたのです。

すると、次第に全身を何か温かい膜のようなものが包む感覚がしてきました。

その膜はわずかに振動していて、私は心地よい揺れを感じながら坐り続けていました。

内側の状態は透明で、思考一つ浮かんでは来ません。

するとそのうち、その膜と一緒に、身体の感覚が消失しました。

明らかに姿勢が調ととのっていると思われるのですが、その存在を感じられなくなりました。

身体が消えたのです。

これまでにも、呼吸法を実践していて、息が全身に通るようになると「身体が消えた」と感じることがありました。

それは、身体の中の「詰まり」や「強張り」が一切なくなって、身体を感じるための「とっかかり」がなくなるためだと思っていました。

確かにそれはそうなのですが、先ほど体験した時ほど明確に身体が消えたことはありませんでした。

全身に息が通っているはずなのに、物理的な呼吸はほとんど止まっているかのようにかすかで、本当に死んでしまったかのようでした。

にもかかわらず、そこには「生命力の高まり」が感じられました。

そして、「何の心配も要らない」という絶対的な安心感があったのです。


仏教に「自然じねん」という言葉があります。

「しぜん」ではなく、「じねん」と読みます。

草木や動物など一切のことを指し、「あるがままの世界」を意味するのだそうです。

そして、人間もまたその「自然じねん」の一部であると説かれます。

私は先ほど身体が消えた時、自分がいかに「自然じねん」に逆らっていたかを知りました。

坐禅をするというのは、本当に何の期待もせず、いかなる作為もなく、ただ坐るということだったのに、私はそこに呼吸法の方法論を持ち込んで、意図的に「氣」を流そうとしていました。

そして、だからこそ、「起こるべきこと」が起こらなかったです。

本当に何もしなければ、「自然じねん」が「起こるべきこと」を起こします。

「失われるべきもの」は失われ、「死すべきもの」は死んでいきます。

ですが、「残るべきもの」は決してなくなりませんし、「自然じねん」もそれを奪うことがありません。

それを心の底から信頼すれば、何も「間違ったこと」は起こらないのです。

私は、自分がどれだけ多くのことを操作しようとしていたか、やっとわかりました。

だからこそ、「自然じねん」は働くことができず、私には「起こるべきだったこと」が起こらなかったのです。

この約一ヶ月、こうして文章を書き続けてきて、私はやっと「自分の命」を信じることができるようになりました。

心と身体が発する声に従っていれば、「間違ったこと」は決して起こらない。

むしろ、「起こるべきこと」が必ず起こる。

その確信を、私はこの一ヶ月で作ってきたのだと思います。

おかげで、ようやく「何の期待もせず『自然じねん』に委ねる」ということができました。

そうして、「痛みも苦しみも悲しみも、全て必要なことだったのだ」と思ったのです。

姿勢が崩れ、たとえ痛みを覚えても、それをすぐに取り除こうとするのではなく、ただ無心に、その痛みの中に留まっていれば、「自然じねん」が働き始めます。

そうして、意識的に姿勢を操作していた時とは比べ物にならないほどの精度で、姿勢が調ととのっていくのです。

これからは、「とにかく操作しようとしないで全てを『自然じねん』に任せ切る」ということを、「サーダナ(修行)」としていこうと思います。

とはいえ、これでは私が何を言っているのか、あなたにはよくわからないかと思いますが、伝えたいことは明確です。

それは、「起こるべきこと」が起こらないように邪魔をしているのは、いつも私たち自身だということです。

私たちの「自我」が、何らかの理想を握りしめ、「こうでなければならない!」と叫ぶ時、「自然じねん」は働きを阻害されます。

そうして「起こるべきこと」は起こらなくなり、苦しみがいつまで経っても終わらなくなってしまうのです。

逆に、「起こるべきこと」が起こる時、人は「失うべきもの」を失うことになり、「向き合うべき痛み」と直面します。

それこそが「あるがまま」ということです。

ですが、もしもその「喪失」や「痛み」をもそのまま受け入れるなら、「起こるべきこと」は完遂されて、「その人の命」はより純化していきます。

「余計なもの」が取り除かれて身軽になり、もっと「自由」になれるのです。

ですので、これからはもっと「あるがまま」で在ろうと思います。

自然じねん」は、決して「間違ったこと」は起こしません。

私はようやく、それを信頼できるようになりました。

「生」が導いていくところならどこへでも行き、そこで起こることは全て受け入れます。

それで、なにも「間違い」はありません。

たとえその結果、なにを失ったとしてもそれは「失ってしかるべきもの」だったのです。

とはいえ、だからと言って私の何が変わるというわけでもありませんし、「悟り」というものが単なる概念に過ぎないことも、もうわかっています。

だから、私がすることはやっぱり変わりありません。

「自分の命」が発する声に耳を澄まし、それを全面的に信頼して表現することです。

この声が続く限り、私は書き続けようと思います。

自然じねん」がそれを望むなら、私は自分の存在をそれに預けても良いと思いました。

ということで、変な文章になってしまいましたが、ちょっとした決意表明です。

これからも書き続けようと思いますから、どうぞよろしくお願いします。

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