「内側の牢獄」の鍵の在り処

技法の解説書の原稿がとりあえず最後まで書けたので、一休み中です。

やはり、こういう「手ぶらの時間」がないといけません。

読者の方の中には、私が休みなしでずっと書いてばかりいると思っている人もいるかもしれないですが、全然そんなことはなくて、私は「あ、書こう」と思った時以外は書かないのです。

要は、そのへんの「猫」と同じです。

気が乗らないことはやらないし、無理にやろうとすると心が悲鳴を上げるのです。

おかげで現代日本で生きていくのはなかなか大変ですが、幸い、今は少しのんびり過ごせる境遇にあります。

だからこそ、これだけ執筆活動にも専念できるのですが、だからといって、「何がなんでも書かねば」とはまるで思っていません。

そもそも私は気分屋なので、「習慣化して毎日きっちり同じようにする」というのは苦手です。

なので、気が乗らなければ、「あ、やーめた。もうやらない」という具合で、書くのをやめて坐禅をします。

で、坐禅を組んでると、突然記事のアイデアが湧いてきて、今度は「お、これ書きたいぞ」となってきて、「もう坐禅、やーめた」となります。

本当に気分屋なんです。

でも、それだけ私が「手ぶら」であるということだと思います。

私は「こうしなければならない」とか「こうでないといけない」とかいうのは、受け入れないことにしています。

なぜなら、それは「不快」だからです。

「こうでなければならない」という想いに囚われる時、「自我」が理想を握りしめます。

その時、自分の中に「正解」が作り出され、それ以外は全て拒否されます。

そこから焦燥感と性急さが生まれ、失敗への恐れや休むことへの罪悪感が生まれるのです。

それらは全て「不快な感覚」を伴います。

心を縛られることによって発生する、これらの「不快な感覚」を私は耐えることができません。

息が詰まり、身体が固まり、眉間に思わずしわが寄り、心に波が立ち始める。

仮に、そういう「不快な感覚」を我慢することで、「生産性」が上がるのだとしても、私はごめんです。

だったら私は「手ぶらであること」を選んで、「生産性」のほうはゴミ箱に捨てます。

私は「生産的であろう」とは全く思いません。

ただ「自由であろう」としか思いません。

そして、逆説的なことですが、もしも「自由」を貫いていると、アイデアやインスピレーションは向こうから勝手にやってきます。

「考えよう」という意図さえなく、「考え」は向こうから訪れるようになるのです。

逆に、「自我」が理想を握りしめて「正解」だけを求めていると、私たちの心は閉じてしまいます。

そうして、今の自分に見えるものしか見えなくなり、思考の袋小路にハマってしまうわけです。

その時、当人は「何が何でもアイデアをひねり出さないと」と焦り始めます。

なぜなら、そうしないと「自分の価値」を証明できないからです。

「自我」は「自分の価値」を人に認めさせようとし、人から見放されることを恐れています。

「自我」が「不自由」なのはそのためです。

「何かを実現しないと自分はやっていけない」と思っているから、「手ぶらでいること」ができないのです。

でも、もしも「握りしめているもの」を手放せば、その人は再び「手ぶら」になります。

人から評価されてもされなくても、別にどっちでもいい。

人から見放されても、特に何も困らない。

そう思えた時、人は心おきなく「手ぶら」になれます。

そして、その「手ぶらであること」がその人の創造性を高め、結果的に独創的な活動を可能にするのです。

しかし、多くの人は「手ぶらになること」を恐れています。

コントロールを手放すことが怖いのです。

実際には、コントロールを手放したほうが、かえって物事はスムーズに運ぶのですが、それは一度でも「手ぶら」になったことのある人しかわかりません。

本当は、他人をコントロールしようとしなければ、かえってこちらの想いは相手に通じますし、自分をコントロールしようとしなければ、かえって自分の創造性は開花します。

これは私の経験的には間違いのない事実です。

でも、自分でそれを経験したことのない人は、そんな風には思えないはずです。

だから、「コントロールを手放したら自分はおしまいなのではないか?」と思って、多くの人は「自我」で自分をガチガチに固めて縛り、息を浅くして生きているのです。

ですが、もしも息が深くなれば、「コントロールしないほうがむしろよい」ということを、その人は学び始めます。

すると、少しずつコントロールを捨てられるようになります。

そしてやがては、自分から積極的にコントロールをどんどん捨てるようになっていくのです。

この時、「なんだ、コントロール欲求って、ただ邪魔なだけのゴミだったんじゃないか」と、その人は思うようになるでしょう。

ともあれ、私は「不快な感覚」には耐えられません。

そこには生物を「死」に近づけるものが含まれています。

人の可能性を閉ざし、呼吸を塞ぎ、心を乱し、身体に緊張を作り出すものが含まれています。

そして、私はそれらから抜け出し続けることを、ほとんど唯一の「サーダナ(修行)」としています。

絶えず「自由」で在り続けること。

いつも悠々楽々、息をし続けること。

そのためには、自分の内側に常にアンテナを張っていなければなりません。

もしも身体に「詰まり」や「痛み」や「強張り」が生じたなら、それは私の命の中で「何か間違ったこと」が進行しているということです。

それは「不快さ」として感知され、その感覚は「お前は自由を失おうとしている」と私に告げるのです。

だから、「不快さ」に対する感度こそが、「自由」で在り続けるためには必要不可欠なものなのです。

もしも私が無意識に何らかの理想を握りしめれば、私の心身は「不快感」というシグナルでそれを教えてくれます。

だから、全てが私の「悟り」を日々支えてくれているわけです。

この世の全てが「不快さ」というシグナルによって、「悟り」と「自由」の喪失の気配を、私に示してくれるのです。

私が自分で自分を束縛する時、私の中の「悟り」が死にます。

だから、私が「悟った魂」であるためには、まず私自身が私を束縛しないことが必要です。

「手ぶらである」ということは、そういう意味で、社会的な問題である以上に、自分自身の問題なのです。

「手ぶらであること」を自分自身に許せるかどうか?

何かをその手に握りしめた時、力んだその手を開けるかどうか?

もしもつかんだものを手放せなければ、どれだけ「自由な環境」にいたとしても、当人は「内側の牢獄」に閉じ込められます。

その「牢獄」の鍵は本当は自分が持っているのに、人はそのことに気づきません。

「自分を閉じ込めたのは、他でもない自分自身だったのだ」とは、自覚することができないのです。

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