この数日、時間が空くと坐禅を楽しんでいるのですが、坐禅の「形(かた)」というのは、本当に気持ち良いです。
たぶん、坐禅に限らず、ヨーガのアーサナ(ポーズ)なんかも、もともとは「気持ちの良いもの」だったのだと思います。
私は想像するんですが、きっとこれらの「形」というのは、古代インドの賢者たちが「お、なんかこの体勢になるとめっちゃ気持ち良いうえに、なんだか活き活きしてくるんだが!?」っていう感じで発見したのだと思います。
そこには「快の感覚」があり、そこから「生命の神秘」が開けてきます。
でも、後世の人間は「形」を窮屈なもののように感じてしまいます。
それは、古代の賢者と違って、私たち自身の心と身体が深く束縛されているからです。
実際、姿勢が崩れて息が浅くなってしまっている人は、坐禅を心地よく楽しむことができないでしょう。
きっと心もさまよいがちで、ジッとしているとイライラするため、落ち着いて坐っていることができないはずです。
ですが、もしも姿勢が調い、息が深まり、心が透明に澄んでくると、古代の賢者たちの気持ちがなんとなくわかるような気分になってきます。
「うお、ホントだ!気持ち良いわ、これ!」という感じです。
人間の身体と心というのは、本来は「形」を通して「快」を感じるようにできています。
というか、むしろ私たちの「快の感覚」を増幅するものだけが「形」として残ってきたのではないかと思います。
だから、「形の修行」というのは、「窮屈なところに自分を押し込めていく」というようなものではありません。
そうではなくて、それは「形を心地よいと感じられるところまで、自分自身を自由にしていく」という方向性で進めていくべきものだと、私は思うのです。
それにしても、「形は快だ」というのは、今さらながら目から鱗の発見でした。
ようやく私も、そういうことが少しは理解できるようになったということでしょう。
この調子で、「古代の賢者たちの遺産」と親しみつつ、「快」を豊かに育てていこうと思います。

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