最近、「深く息をするのが大事だ」とよく書いています。
しかし、「深く息をすること」と「大きく息をすること」は、実は別のことです。
「深く息をしましょう」と言うと、「要は深呼吸しろってこと?」と思うかもしれませんが、別にそういう話でもないんですね。
また、「息が深い」というのは、「肺活量が大きい」ということとも違います。
なぜなら、たとえたくさんの空気を肺に取り込んでも、その分の酸素をちゃんと身体に定着させなければ無駄になってしまうからです。
たとえば、身体に思いきり力を入れながら空気をたくさん吸い込んでも、全身が硬直しているので、血の巡りが悪くなってしまっています。
すると、せっかく肺に空気を入れても、毛細血管の隅々まで酸素が行き渡りません。
これでは、どんなに取り入れた空気の容量が大きくても、それが「生命力」に反映されないでしょう。
逆に、リラックスして深い呼吸をしている人は、胸やお腹はそれほど大きく動きませんが、細く長い息をすることができます。
そして、その人は筋肉が適度に緩んでいるので、全身の毛細血管もよく開通していて、組織に酸素が速やかに供給されるわけです。
これはまさに、全身が「生命力」で静かに脈打っているような状態です。
この時、当人は「頑張ってたくさん呼吸をしよう」という意図的な努力もなく、自然な呼吸を維持しながら、深く呼吸をすることができます。
逆に、もしも「頑張って深く呼吸しよう」と思ってしまうと、心身が緊張してしまって毛細血管が閉まってしまいます。
そういう意味で、「深い呼吸」というのは自然発生的で無努力におこなわれるものなわけです。
じゃあ、どうやってそのような「深い呼吸」を実現したらいいかと言うと、方法はいろいろありますが、やはりまず「姿勢」でしょう。
「姿勢」と聞くと、力んで「気をつけ」の形を取ることのように考える人がいるかもしれませんが、それも誤解です。
そもそも、「姿勢」と言う言葉は、「姿」と「勢い」からできています。
「姿」というのは「外から見た身体の形」のことですが、「勢い」というのは「内側に流れている生命力」のことです。
あなたもこんな人を見たことがあるかもしれません。
たとえば、明らかに「外から見た形」は整っていないのに、「生命力」は漲っている人と言うのがいます。
私は、アーティストや芸術家なんかに多い印象を持っています。
そういった人たちは、背中が丸くなっていたり、腰の位置が横に流れてズレてしまっていたりします。
こういった場合、世間一般的な意味では「姿勢が悪い」と評価されるわけですが、「内側の勢い」は外から見てもわかるくらい迸っていることがあります。
私からすると、こういう人の「姿勢」には「力」があります。
確かに「姿」は崩れているかもしれませんが、「内側の勢い」は十分だからです。
ですが、だからといって「姿」と「勢い」が全く関係ないわけでもありません。
坐禅をやっているとしばしば経験することなのですが、長時間坐り続けていると、自然と「姿」が調整されていきます。
というのも、「良い姿」で坐ったほうが、深くて心地よい呼吸ができるからです。
このため、「深い呼吸」を実現するために、身体が無意識に「姿」をアジャストしてくれるのです。
そうして落ち着いた深い呼吸ができるようになっていく過程で、自然と息がもっと通るようになり、その結果として「内側の勢い(=生命力)」も増していきます。
これによって、「姿」だけでなく「勢い」も伴った「良い姿勢」が実現します。
すると、心の状態も落ち着いてきて、冷静な気持ちで内側を眺められるようになるんですね。
このことを、禅やヨーガでは「調心・調息・調身」と言っています。
「調心」によって心は落ち着き、「調息」によって呼吸が深まります。
そして、「調身」によって「姿勢」は正されることになるわけですね。
要は、「姿」が整うことによって「息」が深く入るようになり、息が入ることによって「勢い」が増し、それに伴って「心」が一つところに落ち着いてくるということです。
なお、この「調心・調息・調身」は並行して深まっていきます。
どれから深めることもできるのですが、深まる時には三つ一緒に深まります。
そして、そこには「快の感覚」があります。
心が調い、息が調い、姿勢が調う。
それによって、心と身体はなぜだか「快」を感じるわけです。
世間一般では、「快楽」とひとまとめにされますが、野口整体では「快」と「楽」とは区別されています。
たとえば、崩れた姿勢というのは「楽」ですが、そこに「快」はありません。
「楽」であるからこそ、ダラダラと同じ姿勢を取り続けることができるのですが、それは決して「快い」わけではないのです。
逆に、「良い姿勢」をしていることは決して「楽」ではないですが、そこには確かに「快の感覚」があります。
なぜなら、「姿」が調整されて「息」が深くなっていくと、「生命力(=内側の勢い)」が高まってくるからです。
そもそも生物というのは、基本的に「生きること」を求めるように作られています。
それゆえ、「自身の生命力が高まること」をすると、「報酬」が得られるように最初から設計されているのです。
その「報酬」というのが、「快の感覚」です。
たとえば、運動部などに所属していたことのある人は、こんな経験がありませんか?
それは、「身体的には苦しい訓練なのだけれど、やっているうちにだんだん清々しくなってきた」という経験です。
それは、「楽」ではないけれど「快い」訓練です。
苦しい訓練に集中することで雑念が落ち、それによって当人の呼吸が深くなっていきます。
その結果、思考がクリアになって「生命力」も高まるわけです。
逆に「楽」ばかりを追い求めてしまうと、当人の「生命力」は低下していってしまいます。
たとえば、「姿」を崩した坐り方をいつもしていると、当人の胸やお腹が圧迫されるので、「自由な呼吸」が絶えず阻害されます。
そのため、当人の呼吸は徐々に制限されていき、「生命力」が下がってしまうわけです。
だから、「快の感覚」が指標です。
そもそも生物というのは、「快」のある方向に進むことで「強く」なるように最初から作られています。
だから、「楽」ばかりしないで、「快」へと心身を開いていくことが、「生命力」を高める上では大事であるということなのです。
しかしそれは別に「苦しくても歯を食いしばって耐えろ」と言うようなわかりやすい根性論でもありません。
重要なことは「今、『快の感覚』があるかどうか」を絶えずチェックすることです。
たとえ苦しい訓練をしていても、内側に「快」があるのなら、それはその人にとって「正解」です。
きっとその訓練を続けていくことで、「調心・調息・調身」が達成され、その人の「生命力」はもっと高まっていくでしょう。
逆に、苦しいばかりでちっとも「快」がないのであれば、それは「無理してやる必要のないこと」をやってしまっているのです。
また、もう一つの大事な視点は、「楽の状態」に長く浸かっていると、その人が無感覚になっていってしまうということです。
なぜなら、「楽な状態」に留まっている人は、「自分の内側」を丁寧に観察する必要がないからです。
こういった状態にある人は、思考停止して無感覚なまま機械的に同じことを繰り返し続けます。
なぜなら、それが「一番楽」だからです。
しかし、それによって当人の感受性は鈍っていってしまいます。
やがては自分が何を感じているかもわからなくなり、自分の頭で考える能力も失っていってしまうでしょう。
逆に、「快」を絶えず追求している人は、「自分の感覚」が変化すると、それを鋭敏にキャッチできます。
なぜなら、そういう人は「不快」を避けようとするからです。
たとえば、迷いや疑いに囚われて、無意識に呼吸が詰まってしまった場合、それは「不快な感覚」として当人には体験されます。
そして、「快」を追求している人は、こうした「不快な感覚」が内側に生じるとすぐそれに気づくことが可能です。
つまり、「今、自分の中で『何か間違ったこと』が進行している」とその人はすぐさま察知するのです。
そして、当人はそのまま落ち着いて自分の内側を観察し、迷いや疑いと向かい合います。
そこから、深く呼吸しながら迷いや疑いを丁寧に味わい溶かし去ることで、その人は「不快な感覚」から抜け出ていくのです。
このようにして「内側の束縛」が破壊されると、そこには「快の感覚」が現れてきます。
それを「アーナンダ(至福)」と言ってもいいのかもしれませんし、「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」と言ってもいいのかもしれません。
いずれにせよ、結論は同じです。
これによって当人の「生命力」は増大し、内側には「静寂」がもたらされます。
そして、これこそが本当の意味での「瞑想状態」なのです。
ということで、「深い息」というのは、「意図的に胸やお腹を大きく動かせばできる」というものではありません。
それは、「姿勢」が調っていく過程で、「自然と起こってくるもの」なのです。
そして、「姿勢」というのは、あえて「楽」を捨てて「快」を追い求めることで、勝手に正されていきます。
すると、私たちの心は原初の「透明で落ち着いた状態」を取り戻し、「瞑想状態」に入っていくのです。
このように、「息」というのは私たちの身体と心を橋渡しするような役目を果たしています。
「良い姿勢」という身体の側面と、「瞑想状態」という心の側面とは、「呼吸」が結びつけています。
だからこそ、「快の感覚」を指標として呼吸を少しずつでも深めていけば、自然と身体と心は元気になっていくというわけなのです。
あなたは今、「快」を感じていますか?
もし、あなたの中に「快」があるのなら、それはあなたの「生命力」が高まった証拠です。
そしてもし、もっと「生命力」を高めたいと思うのであれば、「自分自身で感じる」ということを大事にしてください。
無感覚は、「生命」にとって「死」のようなものです。
実際、何も考えず、何も感じないまま同じことを機械的に繰り返すことによって、私たちの内側で「何か」が死んでいってしまいます。
だから、もしも「生きよう」と思うなら、そのコツは「自分から感じようとすること」へと集約されます。
自分から感じようとする限り、たとえ毎日同じことをやったとしても、その行為は常に新しく、いつまでも無垢で手付かずなままです。
逆に、毎日違うことをとっかえひっかえしていたとしても、当人が何も感じていないなら、それらの物事は死んでいます。
だから、「感じること」こそが、「マスターキー」です。
もしも「自分で感じ、自分で考える」という在り方を手放さないなら、あなたの「生命力」は時と共に勝手に高くなっていきます。
逆に、「何も感ないまま、無批判に何かに盲従する」という生き方をすればするほど、あなたの「生命力」は低下するでしょう。
だから、どうか「自分」を生きてください。
そこに「生命の秘密」へと続く扉があります。
あなたの手元にはその扉を開くための「鍵」が既に在ります。
あとはただ、その「鍵」を携えたまま、「生」の中へと深く入っていけばいいだけなのです。

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