「観察する」のではなく「味わって遊ぶ」ために|瞑想会でおこなう内容の方向性について

最近、認識が変化したことで、瞑想会でおこなう内容についても、「いわゆる瞑想」にこだわらなくてよいのではないかと思い始めました。

以前は、基本的に「黙って坐る」というイメージを持っていたのですが、今はそれよりも、まず参加者一人一人の感覚を開きたいと思っています。

たとえば、歩く瞑想をする前に、自分で自分の足の裏を触って確かめたりするつもりです。

どんな形をしているかな?
温度はどんなだろう?
硬いかな、柔らかいかな?

そんなことを感じながらゆったり呼吸し、自分の手で足の裏を丁寧に揉んでみる時間を作りたいです。

そもそも、歩く瞑想をする時は、足の裏の感覚の変化を観察するわけですが、今の私は「観察する」という言葉ではなく、「味わう」という言葉を使いたいと思っています。

「観察する対象」として感覚を切り離してしまうのではなく、「生きている自分」を確かめるみたいに、それを積極的に味わうのです。


そういえば、私は昔ダンスをやっていた時に、恩師から「足の裏の感覚を大事にするんだよ」と言われたことがありました。

ある時、畳の部屋で稽古をしていた時のことでした。

私の恩師は「畳の感触を味わうんだ」と言いました。

私は裸足で立って、足を少し動かしてみました。

すると、確かに足裏に独特の感覚があったんです。

「じゃあ、今度はその感覚で遊んでみよう」と師は言いました。

そして、私は足の動かし方を色々変えながら、変化する感覚をただ味わったのです。

それは決して「雑念を払うための集中」ではありませんでした。

それはただ「純粋な遊び」であったのです。


私は瞑想もまた「遊び」にできると思っています。

そのためにも、まずは足の裏の感覚を確かめて、手で触れながら自分の息を通していきます。

息を吸う時に足の裏に息を入れ、息を吐く時には足の裏から息を吐いていくのです。

そうやって足の裏に「息」を通わせていった上で、歩く瞑想をしたいと思っています。

それは、「足の裏を通した遊び」です。

もちろん、そこには無思考も起こります。

なぜなら、人は本当に深く「遊び」に没頭する時に、迷いや疑いが消えるからです。

そうして肩の力を抜いて、深く息をしながら「瞑想で遊ぶ会」にしたいと思っています。

まぁ、はたしてこれを「瞑想会」と呼んでいいのかどうかはわかりませんが、今の私はそんな風に思っています。


そもそも、多くの人が瞑想に困難を覚えるのは、当人が「何らかのゴール」を握りしめているからです。

ある人は「悟りたい」という想いを抱えているかもしれませんし、また別な人は「静寂に至りたい」という想いを抱えているかもしれません。

しかし、そうして「未来に存在するゴール」を設定してしまうために、当人の心からは余裕がなくなり、「早くゴールしなければ!」という性急さが生まれます。

そして、その性急さが当人の呼吸を浅くしてしまい、心身を強張らせて「瞑想状態(静かな幸福感に包まれている状態)」を阻害するのです。

私は「瞑想をしよう」と考える必要はないと思います。

ただ遊べばいいのです。

いかなる「ゴール」も持たず、ただ今ここの感覚に意識を溶かしてそれと一つになれば、その時には束縛も苦しみも存在できなくなります。

私としては、そのような「自由の味」をこそ、参加した人には持って帰ってもらいたいと思っています。


ということで、私の瞑想会はあんまり「瞑想会っぽさ」はないと思います。

むしろ、「大人が集まって自分の心と身体で遊ぶ会」みたいになるんじゃないかと想像しています。

もしも「むしろそういうほうが面白そう」という方がおられましたら、ぜひぜひ参加の申し込みをしてみてください。

あなたからのお申し込みをお待ちしています。

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