「心」を動かす人

実は、私は米津玄師けんしの歌が大好きなんです。

彼の最初期からのファンと言うほどではないんですが、
たぶん7年くらい前から彼の歌を聴いています。

言うまでもないですが、彼は世界的なアーティストであり、「本物」の歌手です。

その歌声には唯一無二の響きがあり、
ほんのワンフレーズ聴いただけで、
聴き手には「あぁ、彼の歌だ」とわかってしまいます。

有無を言わさぬほどの「オリジナリティ」が、そこには在るわけですね。

彼の「心」が表現するものを、世界中の人が日々受け取っています。

そして、人々はそんな輝く彼の姿を見て、
「やっぱりすごいな」と思うと同時に、
多くの人は「自分なんかとは違う」と思います。

でも、ちょっと待ってください。

確かに、彼と聴き手は「違う人間」かもしれません。

ですが、その奥に在る「光」は全く同じです。

違うのは、「自分自身の光」をどうやって表現しているかということです。


そういえば、私はカラオケに行く機会があると、よく米津玄師の歌を歌います。

私、けっこう彼の「真似」がうまいんです。

実際、「歌う時の声の雰囲気が本人に似ている」って言われたことがあります。

でも、私は彼の歌を歌っていると、
時々、不意に涙が出てくることがあります。

彼の歌の中の何かが私の「心」に触れるみたいです。

そういう時、私は確かに彼の「真似」をしてはいるんですが、
主観的には、「真似をしている」っていう意識はないんです。

というのも、私は彼の歌に乗せて、「自分の心」を表現しているからです。

歌っている間、不思議な「波」みたいなものが身体を通り抜けていって、
私はなんだか乗り移られたみたいに彼の歌を歌っています。

そうすると、私の心は「こう歌いたい」と言うんです。

そして、その通りに歌うことによって、
私は身体が震えてきて、時々ちょっと泣いてしまうんですね。

確かに私は彼の歌を歌っていますが、感じているのは「私の心」です。

きっと彼の発している「光」が、
「私の奥に在る光」にまで灯りを届けてくれるんでしょう。


私たちは「本物」の人たちがする表現に触れることで、
自分の中の「光」を思い出すことができます。

そして時には、「本物の人の真似」をすることの中にも、
「自分の光」を表現できたりするのだと思います。

でも、本当はそんな風に「真似」をする必要もなかったりもします。

私たちが内に持っている「光」はみんな同じです。

ただ、「輝かせる仕方」が違うだけです。

たとえば、
米津玄師の歌を聴いて深く心を動かされ、声も出せずに涙を流している人は、
そうすることで「自分の光」を表現しています。

なぜなら、そこで「何か」を感じて動いているのは、
まぎれもない「その人自身の心」だからです。

でも、内側でほとんど何も感じないまま、
米津玄師の「スター性」に寄りかかって「真似」をしたり、
ただ、「自分の心」を忘れるために彼を追いかける人は、
「自分の光」を表現してはいません。

大事なことは、「自分の心」が感じているかどうかです。

それがあれば、なんであれ「自分の表現」になります。

ある人は、風の感触を楽しみながら、散歩をするかもしれません。

ある教師は、「自分の心」を砕いて子どもたちと向き合うかもしれません。

またある母親は、我が子の温もりを感じながら、その手で優しく抱きしめるかもしれません。

それらもまた、「その人自身の表現」なんです。

でも、ほとんどの人は
「そんなの大したことないじゃないか」と思っています。

「米津玄師に比べたら、自分なんて…」って思ってしまうんです。

でも、それは誤解です。

なぜなら、米津玄師の「心」とあなたの「心」そのものは同じだからです。

違うのは「表現する仕方」だけです。

感じて、揺れて、震えているその「心」は、
「世界的なスター」であろうと「市井の一般人」であろうと、
そこに違いはないんです。

そうでなかったら、どうして「スター」の歌を聴いて、
「人々の心」は震えるのでしょう?

そこで震えているお互いの「心」は、
たまたま「違う人間」に宿った「同じ魂」なんです。


比較によって問題が発生します。

「自分」と「スター」を比べるから、
「自分なんて大したことをしていない」と思ってしまいます。

でも、実際には誰もが「同じ心」でもって、
「自分の表現」をしています。

だからこそ、その「表現」は時に周りの人を動かします。

周りの人の「心」を動かすんです。

自分自身で感じているかどうかが全てです。

内側で何も感じないまま、
機械のように繰り返すことも私たちにはできます。

ですが、その時にはその人の「心」は死んでいて、
周りの人の「心」を動かすことはありません。

ただ、無感覚なまま、何かに従い続けるだけです。

でも、そんな無感覚な人たちの中にたった一人でも、
「自分の心」で感じて動く人がいると、
周りまで感化されて「心」を取り戻したりします。

ずっと「心」を殺して生きてきた人でさえ、
不意に「人間らしい心地」がしてくるんですね。

そうやって人に「ハッ」と気づかせることのできる人は、
たとえ「スター」でなかったとしても「本物」です。

そうした人は、他人を助けるつもりもないまま、
誰かのことを救い始めます。

その人の「心を躍らせている様子」が、周りの人を元気にし、
その人の「心を砕いて向き合う姿勢」が、不貞腐れていた人を我に返すんです。

「本物」の人は、
ただニコニコしながら散歩を楽しんでいるだけかもしれません。

あるいは、
我が子を愛情いっぱいに抱きしめている母親であるかもしれません。

でも、「彼らの心」は感じています。

風の感触や我が子の温もりを、他でもないその人自身が感じているのです。

逆に、何も感じないまま散歩をすることもできますし、
何も感じないまま子どもを抱きしめることもできます。

しかし、そういう時、そこには「何か」が欠けています。

「本物」の人たちが自分の一挙手一投足に吹き込んでいる
「大事な何か」が欠けているんです。

本当は、誰もがその「何か」を吹き込むことができます。

でも、多くの人はそれを失ったまま生きています。

何も感じないまま、機械的に日々を繰り返し、
「内側の光」を曇らせているのです。


「あなたの心」は、今何を感じていますか?

この文章を読んだことで、
「あなたの心」は何かを感じて動いたでしょうか?

人によっては何も感じなかったかもしれませんし、
何かを感じて「心」がゴトゴトと動き出した人もいるかもしれません。

もしも「心」が動いたなら、
その感触をどうか大事にしてください。

そしてできたら、
その「動いた心」を何かで表現してみてください。

丁寧に料理をすることで表現してもいいですし、
家族と触れ合うことで表現してもいいと思います。

決して機械的ではない仕方で、それを表現してみてください。

その時、あなたの中に在る「光」が、
あなたの行為を「神聖」にします。

あなたはまるで祈るように料理を作り、
祝祭のように家族とかかわることでしょう。

それは紛れもなく「あなたの表現」です。

私はそんなあなたの表現に、最大限の敬意を払います。

本来、「平凡」も「非凡」も関係ないのです。

それが「神聖かどうか」だけが全てなのです。

もしも機械的に繰り返すなら、そこに「祈り」はありません。

でも、もしも深く感じながらおこなっているなら、
たとえ毎日繰り返したとしても、その行為は日々新しいままです。

「心」を失うことは簡単ですが、
なくさないで生きていくのは難しいものです。

だからこそ、どうか「心」をなくさないでほしいと思います。

そして、もしもあなたが「心」をなくさないなら、
あなたの一挙手一投足が、周りにいる人たちの
「死んだ心」を生き返らせることでしょう。


あなたの「心」は、今、動いていますか?

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