最近、認識に大きな変化があったため、プロフィールを一から書き直しました。
その認識の変化とは、「悟りを絶対視しなくなったこと」です。
以前は、「人が苦しみから救われるには、絶対に悟りという『ゴール』まで辿り着かないといけない」と思っていました。
ですが、記事を書きながら様々なことを考え、読者の方と質疑応答で向き合う中で、
「悟りを絶対視することも束縛なのではないか?」と感じるようになったのです。
思えば、私が本当に求めていたのは、「悟り」ではなくて「自由」でした。
私はただ、肩の力を抜いて深く呼吸をし、囚われのない伸び伸びした心で生きたかっただけなのです。
それが、いつのまにか「悟り」という概念に囚われて、誰もが何か「特別なもの」を目指さないといけないかのように思い込んでしまっていました。
ですが、今はこう思っています。
私はただ「自由」で在り続けたいのだ、と。
そもそも、「悟り」というのは「到達したら終わり」というものではありません。
「悟り」というのは毎日毎瞬間、新たに悟り直すものです。
もしも何らかの理想を握りしめそうになった時には、それに気づいて手放していく。
そうして、囚われのない「自由な心」で、伸び伸びと自在に心身を働かせ続ける生き方こそが、「悟った人の生き方」だと思います。
ですから、「悟り」というのは毎日新たに体現し続けていくものです。
それは同時に、「自由で在り続けること」と同義です。
もしも「自分はもう悟った」と思ってそこに留まれば、次の瞬間にはもうその人の「悟り」は古くなって動きが鈍くなっています。
しかし、それは「自由な生き方」ではありません。
「自由」というのは「一度達成したら終わり」というようなものではありません。
「自由」とは、瞬間ごとに生まれ直し、新たに生き続けていくものです。
「自由」とは、何かに寄りかかったりすることなく、過去にしがみつくことさえなく、日々「新しい自分」で在り続けることだと思うのです。
なので、これからは、「真理」や「悟り」についてはたぶんあまり言及しなくなると思います。
私にとって、それらはもう「古い概念」になってしまいました。
それにいつまでもしがみついていたら、きっと私は「自由」を失ってしまうでしょう。
だから、これからは、ただ「自由」で在ろうと思います。
そして、読者の方たちにも、「悟ってほしい」とは言いません。
私はただ、「どうか自由であってほしい」と願います。
あなたは深く呼吸ができていますか?
眉間に気づかぬ間にしわが寄ってはいないでしょうか?
肩に入った力みが抜けなくなっていないですか?
もしもあなたの心が何かによって束縛されているならば、きっとあなたの身体も強張っているはずです。
だとしたら、あなたは「内側の幸福感」を感じることも、おそらくできていないでしょう。
「自由である」ということは、実のところ、とてもシンプルなことです。
それは「深く息ができている」ということです。
あなたが自然と「深い息」をできているならば、きっとあなたの心は「自由」なはずです。
その時、あなたの内側には迷いもなければ疑いもないはずです。
あなたはその時、「心の欲すること」をするでしょう。
それは「あなた自身の光明」の表現です。
その時、他でもないあなただけの「オリジナリティ」が、あなたの内側から独自の歌声を響かせているのです。
私はあなたに「悟ってほしい」のではありません。
わたしはただ、あなたに「悟り」という名の「自由」を生きてほしいのです。
「悟り」はどこか遠くにある「目指すべきゴール」ではありません。
むしろ、それは私たちの足元に在るものです。
私たちは、毎日毎瞬間において、「自分の悟り」を問われています。
あなたは、「今この瞬間に自由だろうか?」と、「存在」によって絶えず問われているのです。
あなたの息が深くなるなら、「あなたの悟り」はもうそこにあります。
そして、「あなたの悟り」があまりにも光り輝いているので、目の見えない人にもそれが見えます。
あなたはそうして助けるつもりさえないままに、誰かのことを助け始めることでしょう。
どうか「自由」であってください。
今の私が望んでいることは、本当にこのことだけなのです。

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