「あなたの光明」を表現してほしい|「真理」という概念を追わず、「自由」という感覚を問う

◎「サット・チット・アーナンダ」は探求を助ける「概念」に過ぎない

最近、認識にかなり大きな変化がありました。

読者の方と質疑応答をする中で、「悟りとは何なのだろう?」と改めて問い直したことが、きっかけとして大きかった気がします。

詳しくは、こちらの記事に書いています。

「自由」を生きるということ|誰もが「自身の光明」を表現している

いったいどんな認識の変化があったかと言うと、
「別にサット・チット・アーナンダにこだわらなくてもいいのではないか?」と思い始めました。

インドの古い哲学では「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」について理解すると、その時に人は悟ることができるとされています。

しかし、だからといって、「サット・チット・アーナンダ」に固執しなくてもいいように思います。

今の私の感覚から言うと、「悟り」というのは「真の自由とは何かを理解すること」です。

実際、「サット(存在)」について理解すると、当人は「世界」という観念から自由になります。

そして、「チット(意識)」について理解すると、思考や感情、自我との自己同一化が解け、それらから自由になることができるでしょう。

また、「アーナンダ(至福)」を理解することによって、感覚的な欲望やコントロール欲求に溺れにくくなるので、結果的に「感情的な自由」が確立されると思います。

なので、「サット」「チット」「アーナンダ」を理解すると、確かに束縛が破壊されて「自由」にはなるわけです。

しかし、だからといって「絶対にサット・チット・アーナンダを理解しないと悟れないんだ!」と考える必要も別にないのではないかと思います。

なぜなら、それらは結局のところ、探求を進めていく上での方便として利用される「単なる概念」に過ぎないものだからです。

実際、「サット」も「チット」も「アーナンダ」も、「ハイ」と言って取り出して見せることはできません。

それらを理解している人は、自分の感覚で「これだ」と認識できるでしょうけれど、だからといって、「サット・チット・アーナンダ」を物のようにはっきり指し示すことはできないのです。

確かに、「サット・チット・アーナンダ」は、2000年以上前から存在する、伝統的な真理の定義です。

古代インドのヴェーダ聖典の時代から、それは脈々と受け継がれてきました。

しかし、最初にこれらの概念を考えついた人たちだって、「サット・チット・アーナンダ」が実体を持って存在しているとは思っていなかったはずです。

もちろん、「チット(意識)」には「在る」という根源的な存在の感覚が備わっていますが、それはあくまで主観的なものであって、その感覚を他人に伝えようと思ったら、「概念」を使うしかありません。

つまり、「サット・チット・アーナンダ」というのは、後世の探求者たちが「とりあえずの道標」として利用できるように、綿密に作られた一種の「物語」なのではないかと思うのです。

それらの「物語」は、まだ「サット・チット・アーナンダ」の感覚を全く知らない探求者にとって、「とにかくこの方向に進んでいけばいいのだ」という一つの目安にはなるでしょう。

しかし、探求がある程度進んだら、むしろ「これらはしょせん概念に過ぎない」と理解した上で、それに束縛されないほうがいいように思います。

◎「アーナンダ」を確認するのではなく、「自由」が在るかを確認する

私がこういうことを感じるようになったのは、やはり質問メールを受け取り始めたことが大きいと思います。

というのも、探求者の方たちからいくつか質問をいただく中で、「サット・チット・アーナンダ」が確固とした実体として存在しているように思っておられる読者の方が、結構多いように感じられたからです。

たとえば、「アーナンダ」の感覚というのは、捉えどころのないものです。

最初は「確かに、言われてみればなんとなく心地いい気もするけど…」と感じるくらいで、「これこそがアーナンダだ!」とすぐに確信が持てるわけではありません。

それは最初、とても頼りない感覚です。

「ホントにこれがアーナンダなのかな?」と半信半疑になることもあります。

しかし、それを日常の中で継続的に観察していくことで、「確かに無根拠に持続してるな、これ」と後になってから確認することができていき、最終的に「じゃあ、きっとこれがアーナンダなんだろう」とその人は個人的に結論付けるわけです。

なので、それはあくまでも「個人的な感覚」であり、「他人のアーナンダ」を確認することは誰にもできません。

「ずっと胸に心地いい感じがするんですよ!」と言って説明すれば、「じゃあ、たぶんそれがアーナンダなのかもね」というくらいは言えるかもしれませんが、「あなたの感じているものは間違いなくアーナンダだ」とは誰にも断言できないと思います。

なぜなら、この世の誰も「他人の感じていること」を確認することはできないからです。

それゆえ、「アーナンダ」というのは、あくまで一人一人が個人的・感覚的に確認していくものであって、誰の目から見ても明らかな「物」ではないわけです。

それは、もともと「アーナンダ」というものが、「自由」というものの感覚的な側面を表す概念だったからだと思います。

つまり、「本当に心の底から自由になった時には、こういう感じがするよね」という個人の感覚に対して、後の世の探求者の助けになるように、先駆者がとりあえず「ラベル」を貼ったのだと思うわけです。

これは、「サット」や「チット」についても同じでしょう。

これらの概念は、あくまでも「道に迷いかけている探求者が、とりあえずどっちの方向を目指したらいいか」を理解するための「道具」です。

それを使うのは良いと思いますが、絶対視して心が縛られてしまうと、かえって「自由」を見失ってしまいます。

たとえば、「自分の感じているこれは、本当にアーナンダなのだろうか?」ということを疑い出したら、キリがありません。

そもそも、それを保証してくれる他者はこの世のどこにも存在しないのです。

それでかえって不安になるくらいなら、「アーナンダを自分は理解できたのだろうか?」とは問わないで、「今、自分は自由を感じているか?」と問うた方がいいのではないかと思います。

実際、もしも心に迷いや疑いがあるのであれば、きっと何かに束縛されているはずです。

であるならば、その時に当人はきっと「自分は自由だ」とは感じられないと思います。

また、「これはアーナンダなのだろうか?」という問いには、究極的に答えがありませんが、「自分は今何かに縛られていないだろうか?」ということは、よくよく観察すれば誰でも確認可能です。

なので、「アーナンダ」はあくまでも「探求を助けるための概念」として捉えるだけにとどめ、それを「実体のあるもの」と考えないほうがいいと思うのです。

◎「自由な人」は、「自分自身の表現」をする

おそらく「アーナンダ」という言葉の響きがなんだか哲学的なので、人によっては「過剰な意味」を付与してしまうのでしょう。

しかし、それはあくまで「自由」について感覚的な側面から表現した「概念」です。

なので、「アーナンダという何か特別なものを体得しないといけないのだ」と思って力む必要はないのです。

むしろ、そんな風に力んでしまったら、当人の「自由」は制限されます。

きっと心と身体が強張って、思い通りに動けなくなってしまうでしょう。

もちろん、「自分はサット・チット・アーナンダを理解できただろうか?」と問うことも、最初のうちは役に立つと思います。

ですが、探求も折り返し地点を過ぎて、「どうもチットとアーナンダらしいものはわかってきたな」というところまでやってきたら、むしろ「サット・チット・アーナンダ」については忘れてしまってもいいのではないかと思います。

というのも、もしもこれらの「概念」に固執すると、「特別なこと」をしないといけないかのように思えてきてしまうからです。

たとえば、「チットを日常生活の中でどうやって保ったらいいのか?」といったことを考えて、心身が強張ってしまうわけですね。

ただ、これについては、私にも非があったと思います。

なぜなら、以前の私は「サット・チット・アーナンダ」をどこか無意識に絶対視していて、「これらをきちんと理解しないと悟ることはできないのだ」と思い込んでいたからです。

しかし、今はそうとも思いません。

もしも心が「自由」であるなら、その人は既に悟っています。

何の疑問も持たず、「縛られている」という感覚もなしにいられるならば、その人は「光明」を得ています。

それゆえ、私にとって「悟り」とは「自由」の別名です。

そして、「自由な人」は、その一挙手一投足でもって、「自身の光明」を表現するでしょう。

ある人は「光明」を得た仕方で庭の掃除をするかもしれませんし、別のある人は「光明」を得た仕方で料理をするかもしれません。

踊りを踊る人もいれば、歌を歌う人もいると思います。

いずれにせよ、「自由」から生まれるものは何であれ、「その人自身の表現」になります。

そして、この観点から世の中を改めて見回してみた時、いかに多くの人たちが悟っているかを知って私は驚きました。

たとえば、「本物」の歌手は歌を歌うことで「自身の光明」を表現していました。

「本物」の絵を描く人たちも、キャンバスに「自身の光明」を表現していました。

彼らの心は「自由」であり、何ものにも束縛されていません。

そこには、いかなる「なぜ?」もなく、迷いも存在していないのです。

◎「悟り」の数だけ、「表現の仕方」が存在する

もちろん、彼らは探求者のように自覚的には「自由への道」を歩んでいないでしょうから、何かの拍子に迷いや疑いに囚われやすいかもしれません。

しかし、少なくとも彼らが表現をしているその時には、彼らの中に迷いや疑いは存在しておらず、その心はまさに「自由」そのものなのです。

これに対して、探求者は極めて自覚的に「自由」というものを求めていきます。

それゆえ、どういう時に自分の心が「不自由」になるものかを、探求者は深く知りぬいているものです。

だからこそ、「サット・チット・アーナンダが自分の中に在るかどうか」を自問するより、
「今の自分は自由かどうか」を確認したほうがいいと私は思います。

なぜなら、「サット・チット・アーナンダ」はあくまで「探求上の概念」なので、体験したことがないとよくわかりませんが、「自由」だったら「今在るか無いか」を明確に自覚することができるからです。

もしもあなたの内側に迷いや疑いがあるのなら、あなたの心はそれによって束縛されています。

その時、あなたは「自由」を失っており、あなたの「光明」は一時的に迷いや疑いによって覆い隠されているのです。

ですが、もしあなたの迷いや疑いが解けて、「あるがままの自分」でいられたなら、あなたはきっと「自由」を感じるはずです。

その時、覆われていた「光明」は再び表に顔を出して、「その人自身の表現」をし始めるでしょう。

何をするかは問題ではありません。

ゴータマ・ブッダは静かに坐ることでそれを表現しましたし、イエスは人々に神を説くことでそれを表現しました。

でも、それらはあくまでも「彼ら自身の表現」です。

誰もがゴータマやイエスと同じことをしなければならないわけではありません。

そもそも、本当の意味で「自由」になった時に、「他人の真似」をする人はいません。

もしも「自由」になったなら、その人は「自分の心が求めること」をこそするでしょう。

だから、「悟った時に何を始めるか」は人によって千差万別です。

悟ったからと言って、誰もが同じような人間にならなければいけないわけではないのです。

◎私はただ「自由であってほしい」と思う

このように考えるようになってから、私は全ての人の中に「隠された光明」を見るようになりました。

一時的に迷いや疑いで覆われて見えなくなっていることもありますが、それはただ隠れてしまっているだけです。

誰の内側にも「光明」は既に在ります。

その「光明」を再び輝かせるには、ただ迷いや疑いを流し去って、「自由」になればいいだけなのです。

なので、私は読者の方々に対して「真理を悟ってほしい」とはあんまり思わなくなりました。

そうではなくて、私はただ「自由であってほしい」と思っています。

そして、もしも私の記事を読んだり質疑応答をしたりすることで、迷いや疑いが晴れるなら、その時、その人は悟っています。

なぜならその時その人は、「自分の自由」を体現しており、「自分の表現」をしているからです。

ですが、「サット・チット・アーナンダ」を全面的に理解していないと、その「自由」も限定的で一時的なものとなりがちです。

だから、「自由」を全面的で完全なものとするために、「サット・チット・アーナンダ」を理解しようとするのは正しいことだと思います。

でも、順序としては「自由であること」が先のはずです。

そもそも人は、「悟りたい」と思ったから探求を始めたわけではなく、「自由になりたい」と思ったからこそ、自身の探求を始めたはずです。

それがいつの間にか順序があべこべになってしまって、「悟りたい」という願望に縛られて、かえって「不自由」になっていたりします。

繰り返しますが、「サット・チット・アーナンダ」は「探求のための概念」です。

そこに実体はありませんし、特別視して追い求めると、かえってそれによって束縛されてしまいます。

気にするべきは、「自分の心に自由が在るかどうか」です。

「心が自由でない人」は、たとえ外側の社会がいくら自由になったとしても、やっぱり束縛されたままでしょう。

そして、「自分の表現」をすることができず、「他人の真似」をし続けることになってしまうのです。

だれもが内側に「光明」を抱いています。

そして、一切の迷いと疑いが消えた時、「それ」は表に出てきて輝きます。

その光は、「無明」という暗闇の中で生きている無数の人たちの目を覚まさせる、まさに「希望の灯火」です。

「本物」の芸術家やアーティストたちが人々を強く惹きつけるのは、彼らが「自身の自由」を表現し続けているからです。

彼らは誰の真似もせず、むしろ他人が彼らの真似をします。

「自身の光明」を表現する人たちは、そんな風に意図せず人々に影響を与えるのです。

◎あなたの心は「自由」だろうか?

誰もが「自分の光明」を表現してほしいと私は思います。

他の誰にもできないような仕方で、「その人自身の祈り」を表現してほしいのです。

だからといって、「特別な人間」になる必要なんてありません。

なぜなら、その人が「その人自身」であるということそのものに、大きな意味と価値があるからです。

もちろん、「自由」だって「物理的な実体のない概念」です。

それゆえ、「自由」というのはつかみどころがないようにも思えるでしょう。

しかし、実際には「自由」というのは、「サット・チット・アーナンダ」のような哲学的な概念にくらべると、はるかに自覚しやすいものだと思います。

たとえば、もしも何らかの思考や感情に囚われていたら、その人の心は「不自由」でしょう。

また、自我によって支配され、承認欲求やコントロール欲求に振り回されていても、やっぱりその人は「不自由」なはずです。

そして、そういう時、当人は心のどこかでその「不自由の感覚」を感じていると思います。

なぜなら、誰もが本当は「自由」というのがどんなものかを、心の底では知っているからです。

きっと、「自由とは何か?」ということについて、子どもたちは知っています。

「好きなように描いてごらん」と言われた時、まだ幼い子たちが目をキラキラさせながら伸び伸びと絵を描くのを、あなたも見たことがあるはずです。

しかし、何年かして小学校にあがる頃には、「自意識」が当人を束縛し始めます。

「他の子や先生からどう見えるか」を気にし始めて、「自由」に絵を描けなくなってしまうのです。

探求とは、再び幼子の頃のように「自由」になるための旅路です。

つまり、「悟り」とは、「自覚的で醒めた無垢」を指す言葉なのです。

だから私は読者の人たちには、「悟り」という概念を追いかけるのではなく、自分の心にこう問いかけて欲しいと思っています。

「今、自分の心は自由だろうか?」と。

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