【Q&A】「PNSE(継続的非記号体験)」についての個人的な見解

先日、読者の方から質問のメールをいただきました。

質問者に確認したところ、「質疑応答を公開してもOK」という許可をいただけましたので、ブログ上で公開し、読者の皆さんと共有したいと思います。

なお、今回の質問者のお名前は、ここでは「Aさん」とさせていただきます。

質問の中心テーマは「PNSE」についてです。

「PNSE」というのは、「Persistent Non-Symbolic Experience」の略で、日本語にすると「継続的非記号体験」となります。

何やら難しそうな用語ですね。

PNSEというのは、「心理学的な悟り」と呼ばれており、ジェフリー・マーティン博士という方が提唱している概念のようです。

その中身としては、「自我の存在感が希薄になった状態」とか、「根拠なく幸福感が持続している状態」などと言われます。

質問者であるAさんは、そのPNSEに対する私の見解が聞きたかったのだそうです。

私はPNSEについてはほとんど何の知識もなかったので、質問をいただいてからネットで少しリサーチし、それから次のような回答をしました。

以下、私とAさんとの間でおこなわれたやり取りを掲載いたします。

◎筆者からの回答

こんにちは。
【「存在する喜び」への道】管理人の湯浅です。

お問い合わせ、ありがとうございます。
PNSEという言葉には聞き覚えがなかったので、少し調べてみました。

どうやらPNSEは「心理学的な悟り」のことのようですね。
学術的な詳しいことはわかりませんが、私が調べた範囲で感じたことを、以下にお答えします。

結論としては、PNSEは私が「悟り」と定義しているものと部分的には重なっていますが、完全に同じものではないと思います。

私にとって「悟り」とは、インド哲学における真理の三側面である、「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」について理解することです。

この「悟り」の定義は、インドでヴェーダ聖典が書かれていた時代からあったようなので、おそらく2000年以上の伝統があるものと、私自身は思っています。

それに対して、PNSEは「サット」についてはほとんど言及していないようで、どちらかというと、「チット」や「アーナンダ」についての理論なのではないかと思います。

まず、PNSEは日本語にすると、「継続的非記号体験」という意味とのことです。
「継続的」というのはそのままの意味ですが、「非記号体験」というのは、おそらく「世界をそのまま観ている状態」を意味するのではないかと思います。

たとえば、瞑想を実践していると、思考が沈静化してきますが、さらに内側が静かになってくると、目に映るものに意味付けをしなくなっていきます。

そもそも私たちは普段、いちいち言葉にはしなくても、あらゆるものに無意識にラベルを貼っています。
道を歩いていて車とすれ違ったら、「今、車とすれ違ったな」と心の中で言語化はしなくても、「車」という存在は個別に認知していて、無意識にそれを処理しています。

しかし、瞑想状態が深まると、そういった個別的な物事の意味付けが停止するようになっていきます。
つまり、「車」という物を区別して見ることなく、一切を「ひとつながりのもの」として感じ取るようになるのです。

これについては、昔私が即興舞踊をやっていた時に、しばしば実感したことがあります。

踊っていてトランスに入ってくると、「こう踊らなければ」という自我の訴えが弱まってきて、身体が、何も考えなくても自然と動くようになっていくことがありました。

そういう時は、目に映る景色を「ここは床」とか「ここは壁」とかいった形で区別せず、「一切がただ在る」という風に感じやすく、「その中で身体が自動的に踊っている」という状態になりやすかったです。

これは、今にして思うと、インド哲学における真理の三側面、「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」の内の「チット」の前兆のようなものだったのではないかと思います。

「チット(意識)」について理解すると、「自分の存在の根源は人格や個性に属するものではなく、この『意識』なのだ」と悟るようになります。
いわば、「自我」から「意識」のほうに、アイデンティティの軸足が移行するような感じですね。

そして、この「チット」について理解する上で重要になるのが、「私は在る」という状態に留まることです。
「私は在る」というのは、思考や感情が沈静化し、「自我」が沈黙した時に生じる、純粋な「在る」という感覚的な体験のことです。

これは、ダンスの例で先ほどご説明したような、「世界を意味で区分けせず、そのまま感受している状態」と表現できるのではないかと思います。
この状態に留まる時間が日常的に増えてくると、ある瞬間に不意に「『自我』は『自分』ではない」という気づきが起きます。

この気づきが「真理の探求」における大きなターニングポイントになります。
それ以降、徐々に「自我」から「意識」へとアイデンティティの軸足が移って行くようになり、その結果として、「チット」の理解が徐々に深まっていくことになるわけです。

PNSEの中の「非記号体験」というのは、おそらくこの「私は在る」を指しているのではないかと思います。
それは、「世界を記号化して分割せず、そのまま感受している状態」と言えるかもしれません。

実際、PNSEを体験した人のアンケートでも、「自我の感覚が薄れる」ということを言っているものがあるようです。
おそらく、PNSEというのは、「自我」を通して世界を解釈する機能が弱まった状態なのではないかと思います。

もちろん、それがそのまま「チットの理解」なのではなく、あくまで「私は在る」は「チットを理解する前兆」です。
「私は在る」は「観ている者(観照者)に留まる」ということですが、「チットの理解」とは、「自分というのはその観照者なのだ」と自覚することを意味します。

「私は在る」に留まっているだけの場合、まだその自覚はありませんけれど、日常的にそのような「非記号体験」に留まるならば、遅かれ早かれ、「チットの理解」は起こるのではないかと思います。

しかし、この概念の提唱者であるジェフリー・マーティン博士は、どちらかと言うと、「チット(意識)」よりも「アーナンダ(至福)」に関心があったように見受けられます。
というのも、彼自身がかつて事業で成功したのに、ちっとも幸福を感じられなかった経緯があるようだからです。

ジェフリー博士の中では、「本当の幸福とは何なのだろうか?」という疑問が強くあったのではないかと思います。
実際、PNSEの体験者の証言の中にも、「欠乏感が無くなる」とか「日常的な満足感の持続」とかいったものが散見されます。

そして、それらは一過性のものではなく、持続性があるもののようです。
だからこそ、「《継続的》非記号体験」と呼ぶのでしょう。

これは「アーナンダ(至福)」の特徴をよく表しています。
「アーナンダ」に辿り着くと、人は「無根拠な幸福感」を感じます。
その幸福感を感じるために何をする必要もなく、しかもそれは日常的に持続するのです。

おそらく、ジェフリー博士が特に注目して追い求めていたのは、どちらかというと、この「アーナンダ」のほうではないかと思います。

彼の中には、「『成功しても満たされない心』をどうやって満たしたらいいか?」という問題意識があったでしょうし、それはそのまま、PNSEというものの定義にも反映されているように感じます。

このように、PNSEというのは、認識論的には「私は在る」という「チットの前触れ」であり、感覚的には「アーナンダ」の体験と言えるのではないかと思います。

そして、「最終的な悟り」はこの「チット」と「アーナンダ」の中にひたすら留まり続けることで、結果的に起こります。

それが「サット(存在)」の理解です。

「私は在る」と「至福感」の中に留まっていると、「自我」の影響力はどんどん弱まっていきます。
「自我」は私たちに「世界」という舞台を用意して、そこで「特別な個人」を目指すゲームをさせようと画策しています。

「自分の外側に世界というものが実在していて、そこで『特別な存在』になることこそが『生きる意味』なのだ」という風に、自我は私たちに絶えず思い込ませようとするのです。

ですが、「チット」と「アーナンダ」の理解がある一定以上に深まると、この「自我」の機能がうまく働かなくなっていきます。
そのため、「自我」は「世界という人生の舞台」を当人に用意し続けることができなくなり、「生きる意味」という物語が破綻してしまうのです。

結果、「『世界』は別に実在しておらず、存在するのは『意識』と『至福』だけだ」という理解が起こります。
これが「サット(存在)」についての理解であり、この理解が起こった時に、その人の探求は終わるのです。

ですので、PNSEは確かに「悟り」に至るいくつかの段階と重なってはいます。
しかし、「伝統的な悟りの定義(真理の三側面)」と完全には一致していません。
少なくとも、「サット(存在)」についての理解は、ほとんど考慮されていないように感じます。

ただ、「私は在る」と「至福感」が「サットの理解」の前提ではあるので、PNSEに留まり続けることで、「最終的な悟り」に至るということも、ひょっとしたら、あるのかもしれません。

以上、見解と呼べるかわかりませんが、PNSEについて調べてみて感じたことをお伝えしました。

もしまたわからないことや疑問点などがありましたら、いつでもご連絡ください。

ご質問ありがとうございました。

◎Aさんからの返信

上記の私の返答の後、Aさんから再度お返事をいただきました。

どうもAさんはあるブログでPNSEが批判的に論じられているように感じたそうで、そこから私の見解を聞いてみたくなったようです。

その批判とは、「もしも何かしらの『特定の活動』によってPNSEが起こるのであれば、それは本来『無根拠な幸福感』であるはずのPNSEとは言えないはずだ」というものです。

つまり、「理由があって起こる幸福感なら、それはPNSEという言葉の定義に反するじゃないか」ということですね。

また、AさんはPNSEの実践にも積極的で、「新しいPNSEの習得コースが公開されるのを楽しみにしている」とのことでした。

そこで、私のほうから再度、以下のようなお返事を出しました。

◎筆者からの返信

湯浅です。
返信ありがとうございます。

なるほど、確かに「何らかのアクティビティ」が必要であれば、それは「アーナンダ」としては未完成と言えるかもしれません。

というのも、「アーナンダ」は「何の条件も原因も必要としない幸福感」だからです。

ただ、ジェフリー博士は必ずしも「アーナンダ」を意識して、PNSEという概念を提唱しているわけでもないでしょう。

「アーナンダ」と「PNSEにおける幸福感」が同じものなのかは、私自身にPNSEの実践経験がないので、確かなことはわかりません。

いずれにせよ、AさんがPNSEに興味を持たれているのであれば、それを試してみるのはよいことではないかと私は思います。

PNSEであれ何であれ、「何らかのアクティビティ」をきっかけにして「持続的な幸福感」が現れるのであれば、後はそれを日常の中で定着させていけばよいと考えます。

要は、「意識的な実践」を「無意識的な状態」に移行させていくわけですね。

もしも日常の中でその「幸福感」を定着させようとしたときに、あいかわらず「何らかのアクティビティ」が絶えず必要になったりですとか、「数週間しか持続しないで消えてしまった」という場合は、それは「アーナンダ」とは違うものだったのだということになるでしょう。

しかし、もしそうなったとしても、「PNSE的な幸福感」の体験はAさんの中に残り続けるでしょうし、「アーナンダとPNSEは別だったのだな」という理解も手に入るはずです。

そういう意味でも、私はPNSEの実践を試みるのは、Aさんにとってよいことではないかと思います。

質疑応答は公開してもよいということでしたので、ブログに掲載させていただきますね。
ご協力に感謝します。

Aさんの探求がうまく進んでいくことを祈っています。
それでは、またいつでもご連絡ください。

◎「やりたいこと」は、何でもやってみることで前進できる

以上がAさんとの間でおこなわれたメールのやり取りです。

私としてはPNSEについては門外漢なので、詳しいことはわかりません。

ただ、ザっと調べた範囲では、「そんなに危険なものでもないのではないか」と感じました。

もちろん、中には「これさえ実践すれば、誰でもすぐに悟れるよ!」と言って大金をせしめようとする「悪徳業者」も存在するかもしれません。

なので、「絶対に安全だ」とまでは私も言いません。

実践される方は、必ず情報源の信頼性はチェックしてからやってみてください。

とはいえ、もしもPNSEに興味を持っておられる方は、それを試してみることには意味があるだろうと私自身は考えています。

もしPNSEの実践が本当に「チット」や「アーナンダ」の理解を助けてくれるなら、あくまで「一つの技法」として使えばいいと思いますし、最終的に「空振り」に終わったとしても、「この道は違ったんだな」ということは学べます。

そんな風に考えるので、私は基本的に、「何であれ当人が興味を持っていることはやってみるのがいい」と思っています。

そもそも、既に興味があるわけですから、「そっちの道は違うと思うよ」と他人が言っても、当人は「本当にそうかどうかを自分はこの目で確かめたいんだ」と現に思っていることでしょう。

だったら、それを外野が無理に引き止めるのは「野暮」というものではないかと私は思います。

実際、過去の私だって、「悟りというものは本当に在るのか?」という問いに囚われて、「自分で確かめないと気が済まない!」と思ったからこそ、進み続けることができたわけです。

なので、当人の中で興味が現にあるのなら、私は基本的に「やってみること」を推奨する派です。

逆に、「自分で確かめないと気が済まない」と思っている人を無理に引き止めると、それは当人の中で「執着」となって残りがちです。

そうなると、「結局、自分で最後まで確かめなかったけれど、本当のところはどうだったんだろうか?」という疑問が「しこり」のように当人の中に残ることになり、それがいつまで経っても解消されなくなってしまいます。

なので、「やってみたい」と思うことがあったら、やってみたらいいと思います。

もしそれで「ゴール」に辿り着けたなら言うことはありませんし、たとえ「失敗」を経験することになったとしても、「次からは違う道を試すようにしよう」と当人は思うことができるようになるでしょう。

それもまた「探求」の一部であると、私自身は思っています。


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