今回は、少し前にX(旧Twitter)のほうでポストした論点について深掘りしたいと思います。
それは、「内側の悩み」と「外側の問題」についてです。
人生を生きていると、誰もが様々な「問題」に直面し、苦悩することになります。
時には、「この問題を解決しない限り、自分はきっと幸せにはなれないに違いない」とまで考えることもあるわけですが、実際のところ、本当にそうなのでしょうか?
今回の記事では、「問題を解決する」というのはいったいどういうことなのかを考えていきます。
「長年悩んでいることがある」という人や、「問題とどう取り組んだらいいかわからない」という人は、考えを整理する参考にしてください。
では行ってみましょう。
◎「悩み」は内側に根を持っており、「問題」は外側に存在している
まず、「問題」を解決するために重要な視点を確認しておこうと思います。
よく言われることではありますが、多くの人は「問題」と「悩み」を混同しています。
「問題」というのは、たとえば「経済的に余裕がない」とか、「社会的に孤立している」とかいったようなもので、それを解決するには「具体的なステップ」を踏む必要があります。
逆に言えば、「具体的なステップ」を愚直に踏み続ける限り、「問題」は少しずつ解決に向かって進んでいくわけです。
それに対し、「悩み」というのは「解消するための具体的なステップ」が、あるようでないようなものです。
たとえば、「顔の作りが整っていなくて悩んでいる」という人は、他人からいろいろとアドバイスをされると思います。
「寝る前にフェイスケアをしてみたら?」
「せめて疲れが顔に出ないようによく寝たほうがいいよ」
「いっそ思い切って整形するとかどう?」
「そもそも気にし過ぎだよ。自意識過剰なんだって」
人によって様々なアドバイスをするはずです。
確かに、どのアドバイスも「一理」あるのでしょうけれど、言われた当人はいまいち腹の底に落ちません。
それでも、ひょっとすると当人は言われた通りフェイスケアをしてみたり、夜にたっぷり寝るよう心がけたり、プチ整形に挑戦してみたり、「メンタルを鍛えよう」と思って自己啓発本を読んだりすることもあるでしょう。
しかし、それだけやっても、「やっぱり顔が気になる…」と思って当人は悩み続けるのではないかと思います。
おそらく、周りからどんなに「そんなこと気にしなくて大丈夫だよ」と言われても、気にする人は「自分の外見」を気にし続けるでしょう。
仮に整形手術を繰り返して顔をそっくり作り変えても、「まだ足りない気がする…」と感じ続ける人だっているはずです。
つまりここには、「確実に解決に向かうための具体的なステップ」が存在しないのです。
さっき論じた「外側の問題」については、「客観的に妥当な解決に必要となるステップ」というものが存在しました。
だからこそ、それをただ愚直に踏んでいけば「解決」に少しずつ近づくことができたわけです。
しかし、「悩み」というのは当人の「外側」ではなく、あくまでも「内側」に根差しているものです。
そのため、当人が「もう気にならない」と感じたら、「悩み」は何もしなくても勝手に消滅します。
逆に、当人の中に「やっぱり気になる」という想いが残っていると、たとえどれだけ手を尽くしても「悩み」を解消することは不可能なのです。
◎内側に「理想」がある限り、「悩み」は消えることがない
よろしいでしょうか?
まずこの「問題」と「悩み」の区分をしっかり意識してください。
整理すると、次のような感じですね。
- 問題
当人の外側に存在している。
「客観的に妥当な解決策」が存在しており、それに従って行動すれば徐々に解決していける。 - 悩み
当人の内側に根を持っている。
当人がそれを気にしている限り、たとえ何をしたとしても解消できない。
「悩みがある」ということは、言い換えると「当人が何かに執着している」ということです。
この「執着」を手放さない限り、「悩み」は消えることがありません。
逆に、もしも「執着」を手放せた場合、「悩み」は自然と解消します。
つまり、「悩み」というのは、当人の「外側」の状況を一切変えなくても、「内側」を変えるだけで解消させることが可能なわけです。
しかし、それが「悩み」を解消する上での難しさであったりもします。
なぜなら、先ほども書いたように、「悩み」については「客観的に妥当な解決方法」が存在しないからです。
当人が「理想」を握りしめることをやめない限り、「悩み」というのは不滅です。
「悩み」というのは、そういう意味では当人が握りしめている「理想」の影のようなものです。
「こうでなければならない」
「これでないと納得できない」
そのような想いを捨てられないと、「理想と違う現実」を前にした時、当人は避けがたく苦悩することになってしまうのです。
実のところ、「理想をどうやって捨てるか?」という問いは、極めて重要にして巨大な問いです。
この問いに対して私は、このブログの文章全体で答えようとしているところがあります。
実際、もしも全ての「理想」が消えたなら、その時、「悟り」が起こります。
しかし、それは強制できるものではありませんし、意図的に目指せるものでもありません。
だからこそ、話し出すと長くなってしまうのでもあり、現時点でこのブログには40万文字ほどの文章がストックされているのですが、いまだに話が終わる気配はないのです。
なので、「どうやって『理想』を手放すか?」という論点については、今回の記事だけでは完全にはカバーできません。
一応、この記事のあとのほうで、「解決案」を一つ提示してはいますが、それも万能ではないと思っておいてください。
そういうわけで、この記事では「理想の捨て方」はメインテーマではありません。
今回、私が特に提示したいと思っていることは、「『悩み』と『問題』を混同しないことの重要性」についてです。
ここをきちんと意識するだけでも、物事の見通しがかなり良くなると思います。
なので、この論点について、ここから集中的に説明していきます。
◎「お金がない」が「問題」として現れる時
「『悩み』と『問題』の混同」というのが何かというと、たとえば、「お金が無くて不安で眠れなくなる」と言ったようなケースがこれに該当します。
「そんなの、お金が無くなったら不安になって当然じゃないか」と思うかもしれません。
ですが、実際のところ、「お金がない」ということと「不安になる」ということとは別の話です。
この記事で設定した定義で言うなら、「お金がない」というのは「外側の問題」であり、「お金がないことを不安に思う」というのは「内側の悩み」です。
そもそも、どのくらいの経済状態で「お金がない」と感じるかは、人によってかなり差があるものです。
たとえば、年収1000万円くらい稼いでいる人は、年収が300万円くらいまで落ちてしまったら、「自分はもうおしまいなんじゃないか…?」と思って悩むのではないかと思います。
しかし、たとえば私の場合は、田舎の安アパートで一人暮らしをしているので、月に10万円もあれば余裕を持って生きていけます。
それゆえ、私からすると年収300万円でも収入としては十分すぎるくらいです。
このように、「お金がない」という一見すると現実的で客観的な問題に思えるものであっても、「個人の主観」が大きくかかわってきます。
たとえ年に300万円を稼いでいても、「これじゃダメだ」と思っていたら、当人の中でそれは「悩み」に変わるわけです。
もちろん、「年収1000万円」よりも「年収300万円」のほうが少ないのは事実です。
それゆえ、年収が下がった当人は、きっと生活水準を落とさなければならなくなるでしょう。
たとえば、住む場所を変えねばならなくなるかもしれませんし、食べる物も質素にしなければならないはずです。
家族からの視線が痛く感じるようになるかもしれませんし、友人や知人の中には急に態度を変える人だっているかもしれません。
そして、「そんなことがあってはならない」と思う時、当人は「理想」を握りしめ始めます。
「住む場所を変えたくないし、今まで通りのものを食べたい」
「家族からは尊敬されていたいし、友人や知人からは一目置かれてしかるべきだ」
そのように考える時、当人は自身の「執着」によって束縛されます。
それゆえ、「とりあえず年収300万円で暮らしていけるように生活を整える」という方向には舵を切らず、「年収1000万円に何が何でも返り咲く」という方向に進もうとしてしまうのです。
もちろん、「年収1000万に返り咲くこと」が現実的に可能であれば別にいいと思います。
しかし、何らかの理由で年収を再び上げることが難しいのであれば、「年収1000万円」にこだわるよりも、素直に生活レベルを落とすほうが妥当なはずです。
別に「年収1000万円でなければ死んでしまう」というわけでもないのですから。
ですが、「悩み」の真っただ中にいる当人の主観では、「生活レベルが落ちてしまったら、そんなの死ぬようなものじゃないか!」と感じられていたりします。
要は、「これまでの自分」が崩壊することが、「全ての終わり」みたいに感じられるわけですね。
しかし、どこまで行っても、なんだかんだで手はあるものです。
実際、もし「年収300万」からさらに転落したとしても、暮らそうと思えば暮らしていけます。
借金をすることになったとしても、債務整理や自己破産という手段がありますし、本当にどうしようもなくなったら最終手段として生活保護に頼ればいいと思います。
「お金がない」という状況には、このように実に様々なレベルがありますが、「自分の今の状況で取れる具体的なステップ」が必ず何かあるものです。
「年収300万」がまだ手元に残っているのであれば、取れる手段は多いはずですし、たとえ収入が完全に途絶えたとしても、まだ何かしらの解決策は残っています。
「内側の悩み」については、諦めることで人は「自由」になれるのですが、「外側の問題」に関しては、あえて諦めないことで「活路」が開けるわけなのです。
◎「悩み」がもたらす「苦しみ」から目を逸らす時、人は「夢」を見始める
ともあれ、このように「金銭問題」というのは「外側の問題」と「内側の悩み」がミックスしやすい領域です。
もちろん、「どのくらいのレベルでお金がないのか?」によって「問題解決」のためのステップは変わってきます。
実際、年収300万円で「お金がない」と感じている人が取るべきステップと、収入が完全に途絶えてしまった人が取るべきステップは異なるものです。
ただ、冷静に落ち着いて考えれば、「最適解」を絞っていくことは可能です。
なぜならそれはあくまで「外側の問題」だからです。
そこには、「悩み」と違って「具体的な解決策」が存在しており、落ち着いて考えることができるなら、「次は何をするべきか」を明確に絞り込むことができるわけです。
しかし、そこで「お金がない!もうダメだ!」と思って不安に飲まれてしまうと、冷静に考えることができなくなります。
つまり、「問題」を抱えるのと同時に、「悩み」にも苛まれるわけですね。
そうすると、当人はすぐ目の前にある「現実的な解決策」が見えなくなり、「起死回生の一発逆転」を狙い始めてしまったりします。
たとえば、生活するお金がもうないのに、「この講座を受講すれば、あなたも楽々月収~万円に!」と謳う情報商材になけなしのお金を突っ込んでしまい、余計に困窮してしまったりするのです。
これは、「内側の悩み」に飲まれてしまい、「外側の問題」と向き合えなくなってしまっている場合の典型例です。
つまり、当人は「自分の理想」をどうしても手放せないので、「問題解決のための具体的なステップ」が踏めないわけです。
経験のある人はわかると思いますが、「外側の問題」を解決する時というのは、人は感情的にならないものです。
なぜなら、その時、当人は「決められたステップ」をただ淡々と踏んでいくだけだからです。
逆に、「悩み」に飲まれたまま「問題」を解決しようとすると、往々にして人は感情的になります。
たとえば、周りの人の助言に対して感情的に反応し、怒ったり落ち込んだりします。
そして、「一発逆転する夢」に酔って、気分も身体もフワフワと浮ついた状態になっていくのです。
「これは危ないな」と周りの人にはわかるのですが、その人自身にはわかりません。
それが「悩み」の怖いところです。
先ほど上のほうでも書きましたが、「悩み」というのは解決策がありません。
それにもかかわらず、考えずにはいられないのが「悩み」というものです。
「考えても無駄だ」とわかっていても、当人は考えることをやめられません。
そうして「最悪のケース」を考えると当人は不安になって苦しくなり、その「苦しみ」から目を逸らすために「一発逆転の夢」を見ては暴走し始めてしまいます。
もちろん、「悩み」の中にある人は、苦しくて仕方ないものです。
苦しいからこそ「夢」を見るのです。
「自分の理想通りになった世界」を夢見つつ、「そうなっていない現実」を前にして、当人は絶えず引き裂かれます。
その「苦しさ」が、当人から落ち着きを奪っていき、「外側の問題解決のためのステップ」を見えなくしてしまうわけなのです。
◎「苦しみ」の中で考えることは、「酔っ払い」が問題を解こうとするようなもの
「苦しみ」の中にある時に、「落ち着いて考えましょう」と言われても、それは無理というものでしょう。
なので、「内側の苦しさ」をどうにかしない限り、「外側の問題」と冷静には向き合えません。
もし向き合おうと思っても、「最悪のケース」を想像して余計に苦しむか、「理想的な夢」を描いて暴走するしかできないでしょう。
それゆえ、まず見るべきは「内側の苦しみ」です。
「『苦しみ』がここに在る」とそのまま認めて、その「苦しみ」と共に留まります。
すると、「苦しみ」は徐々に小さくなり、やがて消えていくでしょう。
なお、苦しみと共に留まる方法については、こちらの記事で詳述しています。
「外側の問題」をどうするか考えるのは、「内側の苦しみ」をどうにかしてからにしたほうがいいです。
でないと、おそらく落ち着いて「最適な解決策」を取ることができないと思います。
もし「外側の問題」が深刻で、一刻も早く解決しなければならないようであれば、考えることを外注するのも有効な手です。
つまり、その問題解決の専門家(弁護士、医師、福祉事務所の職員など)に依頼して、代わりに「どうするべきか」を考えてもらうわけです。
いずれにせよ、「内側の苦しみ」が落ち着くまでは、あまり「外側のこと」は考えようとしないほうがいいです。
なぜなら、「内側の苦しみ」が残ったまま「問題」を解決しようとするのは、言ってみると、「酔っ払いが酒に酔ったまま問題解決にあたろうとしている」ようなものだからです。
「お酒に酔っている人」に冷静で適切な判断ができないのは、誰にでもわかるはずです。
そういう場合には、まず「酔いを覚ますこと」を優先して、落ち着いてから「どうすべきか」を考えたほうがいいのです。
「内側の苦しみ」を終わらせることは、「酔い」を覚ますのと同じことです。
実際、「苦しみ」が消えることによって、当人の思考はクリアになり、現実認識は歪まなくなります。
つまり、もしも「内側の苦しみ」が収まってきたら、その時には自然と「どうするのが最適か」を冷静に考えられるようになるわけです。
◎「悩み」が消えると、「多くの問題」が一緒になって消滅する
また、もしも「内側の悩み」が消えると、「外側の問題」をそもそも「問題」だと感じなくなってしまうことも多いです。
たとえば、さっきの「年収1000万から年収300万に減った人」の例で言うと、「内側の悩み」が消失することで、当人は収入が減ったこと自体を問題視しなくなるため、「別に年収300万でもいいか」と自然と考えるようになったりします。
もちろん、「生活水準を落とすために家賃の高いマンションから引っ越しをする」などの現実的な作業は発生するかもしれませんが、当人はきっとそれを淡々とこなしていくでしょう。
この際、もしもその人が「年収1000万円」にこだわったままであったなら、その引っ越しは当人にとって「屈辱的なこと」として体験されていたはずです。
しかし、「別に年収300万でいい」と思っていると、引っ越しは感情を抜きにした「ただの作業」となっていきます。
つまり、「問題」を問題視しなくなったことで、「するべきこと」をただ淡々とすればよくなっていくわけです。
このように、「内側の悩み」と「外側の問題」とをお互いを切り分けて対処することで、物事を円滑に処理することが可能になります。
そもそも、「内側の悩み」はあくまでも「個人的な執着」に由来しているものであり、「外側の状況」とは関係がありません。
「外側の状況」はただの「きっかけ」に過ぎず、「悩み」の原因は当人の「内側」に存在するわけです。
それゆえに、「外側の状況」を変えたとしても、「内側の悩み」を根本的には解決することができません。
一時的に目を逸らすことはできるかもしれませんが、なにかの「きっかけ」で再び噴出してくるでしょう。
そして、もしも「内側の悩み」によって苦しんでいる場合には、当人は「外側の問題」に適切に対処することができません。
「苦しみ」が強いがゆえに冷静さを失ってしまい、場合によっては、パニックになったり暴走したりしてしまうのです。
ですので、「内側の悩み」が強い場合は、「外側の問題」はいったん棚に上げて、まず自分が抱えている「苦しみ」そのものと向き合うことを優先します。
もしも「苦しみ」から逃げずに向き合うならば、それは徐々に溶けていくでしょう。
もちろんそれは「苦痛な体験」ではありますが、そこから得られるものは非常に大きいです。
というのも、もしも「苦しみ」が溶けたなら、その時には当人が握りしめていた「理想」も一緒に溶けて消えるからです。
「こうでなければならない」という思い込みが、「内側」から完全に消滅するのです。
そうして初めて、当人は「外側の問題」と正面から向き合うことができます。
場合によっては、「外側の問題」をもはや「問題」とは感じなくなるかもしれません。
なぜなら、「苦しみ」が溶けた後においては、世界を「理想」の通りに変える必要を当人は感じないからです。
そして、それでも何か「するべき作業」が残っているようであれば、後はただ、それを淡々とこなしていけばいいのです。
◎最後にまとめ
以上の流れを表でまとめると、以下のようになります。

だいたいこんな感じですね。
しかし、世の中では「悩み」と「問題」を混同している人が、けっこう多い印象があります。
そういった人たちは、「内側の悩み」を解消するために「外側の状況」を変えようと格闘したり、「外側の問題」を解決しようとして「内側の悩み」に翻弄されたりしています。
ですが、優先順位としては、まず「内側の悩み」をどうにかすべきだと私は思います。
もしも「内側の悩み」を解消できれば、その時には「外側の問題」の大部分はそもそも「問題だ」とは感じなくなりますし、「苦しみ」が消えていれば思考も明晰に働くようになるので、「まだ残っている問題」をテキパキと効率的に処理できます。
「悩み」と「問題」の狭間で苦労している人は多いと思いますけれど、今回の記事を参考にして、まずそれらを切り分けてみてください。
あなたが「解決の糸口」を見出せるように祈っています。
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