用語集

当サイト内の記事にて言及されている専門用語や概念についてまとめています。
探求の実践や理論的な理解にお役立てください。

真理

「サット(存在)」「チット(意識)」「アーナンダ(至福)」の三つの側面を持つ。
三つを一つなぎにして「サッチターナンダ」と言う場合もある。
この三つの側面それぞれについて深く理解した時、束縛は完全に破壊され、人は本当の意味で「自由」を得る。

サット(存在)

「意識」と「ハート(純粋な喜びの源)」によって観照される有形/無形の全てのものを指す。
「サット」について理解すると、「世界の実在性」が崩壊し、「アートマン(個我)」のみが存在することが理解されるようになる。

チット(意識)

私たち自身の「主観」のこと。
古典的なヨーガの思想では、「プルシャ」とも呼ばれている。
人格や意志を持たず、ただ一切を観ている者であり、「観照者」とも呼ばれることがある。

アーナンダ(至福)

あらゆる感情が吹き消された後、その「空(くう)」の中で感じられる穏やかな解放感のこと。
胸のあたりに感じられるため、「ハート」とも呼ばれる。
仏教でいうところの「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」に近い概念。
ちなみに、当サイトでは「存在する喜び」や「純粋な喜び」などと表現している。

ハートの感覚

「アーナンダ(至福)」の中に留まっている時に胸のあたりに感じられる「穏やかな解放感」のこと。
決して強い刺激ではないが、無条件に感じることができ、何の原因もなく持続する。
それゆえ、この「ハートの感覚」に留まり続けると、当人はやがて「自分という存在の本質は『至福』なのだ」と理解するようになっていく。

自我(エゴ)

私たち自身の人格や意志が繋ぎ合わされた構築物。
物事を判断したり、本来何の方向性も持たない「意識」に方向を与える役割を持つ。
思考や感情を観察する主体であるため、瞑想の実践においては「観察者」と呼ばれることもある。
「自我」と「意識」を別々のものとして識別することは、探求の道において大きなターニングポイントである。

マインド

いわゆる「心」のこと。
五官が受け取った情報や過去の経験の記憶などを元に、様々な反応を生み出すシステムである。
思考や感情の束によって構成され、「自我」による影響を強く受ける。

アートマン(個我)

本当の自分、「真我」のこと。
「個我」とは言っても、「特定の個人」を指す言葉ではない。
「サット」「チット」「アーナンダ」などの形で現れ、その本質は「不変」とされる。

不二一元論(アドヴァイタ)

インド哲学におけるヴェーダーンタ学派が提唱する思想。
「不二(ふに)」とは「二つではない」という意味であり、一元論的な考え方を根底に持つ。
なお、「サット」「チット」「アーナンダ」は不二一元論の概念である。

サマーディ(三昧)

瞑想の実践などを通して感じられる「静寂」と「穏やかな至福感」のこと。
なお、不二一元論では主に、以下の二つのサマーディが定義されている。

  • サヴィカルパ・サマーディ
    対象や原因を持つサマーディ。
    集中する対象を持つ瞑想の実践の中で感じられることがある。
  • ニルヴィカルパ・サマーディ
    対象や原因を持たないサマーディ。
    瞑想が無意識に維持されるようになると日常的に生じるようになっていく。
ドライ・ナレッジ(渇いた知識)

「知的な認識」だけが先行し、「体験的な理解」がまだ到来していない段階における、その「知的な認識」のこと。
この段階において、実践者は「頭では理解できたが、だから何なのだ?」という疑問に囚われやすく、時に実践が無意味に感じられることもある。
それゆえ、ドライ・ナレッジに囚われてしまうと、実践者は実践を続ける意味を見失いがちだが、そのまま実践を継続するとやがて「体験的な理解(たとえば至福感など)」が起こり、「無意味感」は消失する場合が多い。

瞑想

「内側の思考が静かになっている状態」のこと。
この「静かな状態」を作り出すための方便としての種々の技法が、「瞑想法」と呼ばれる。

瞑想的な日常生活

瞑想(思考のない状態)が無意識に起こるようになった後、それを日常生活の中で持続させていく実践のこと。
瞑想を呼吸のように自然なものとして定着させることを目的としておこなわれ、「観照者の目覚め」を促す作用がある。

観照者の目覚め

「自我」と「意識」が別のものであるということを初めて自覚する瞬間に生じる気づき。
この気づきを経ることによって、「自我」は徐々に解体されていき、当人はやがて「自由」となる。

識別(ヴィヴェーカ)

「意識」と「意識でないもの」とを区別する力。
瞑想の実践は、基本的にこの識別(ヴィヴェーカ)を育てるためにおこなわれる。
ヴィヴェーカが十分に育つことで、当人は「意識以外のもの(思考や感情、自我など)」によって束縛されなくなっていく。

私は在る

ヴィヴェーカが十分に育ったことで、「意識」そのものに留まれるようになった状態のこと。
もともとは聖書の言葉であり、「変化する世界」の中で「変化しない意識」として在る状態。
この「在る」という感覚に留まり続けることによって、束縛は破壊され、人は「自由」に近づいていく。

知識

古典的なインド哲学において、「知識」とは「私は在る」という感覚を自分自身で知っていることを意味する。
このため、探求の道では「知識」と「情報」は明確に区別される。
たとえなんらかの「情報」を頭の中に持っていたとしても、真理の探求をする上では、それは「知識」と呼ばれない。
また、真理の探求について語る書物の中では、「知識=私は在る」はあらゆる束縛を断ち切る剣であると言われることもある。
なぜなら、人は「私は在る」という感覚に留まることによって、自身の執着を破壊することができるからである。

世界

「自我」が私たちの記憶を利用して作り上げている、人生の舞台。
人は生まれてから成長していく過程で、「自分はこの世界の中で生きている一人の個人なのだ」という考えを持つようになるが、真理の探求はこのプロセスを逆行していく。
それゆえ、「私は在る」や「ハートの感覚」に留まることで、「自我」による私たちへの支配力は低下していき、結果的に「世界」はやがてその実在性を失うことになる。
そうして「世界」の実在性が崩壊した時、人はあらゆる束縛からの真の「自由」を得ることができる。

カルマ(業)

人を何らかの行為へと駆り立てる感情的なエネルギーのこと。
「カルマ」によって人は行為し、最終的にその報いを受ける。
行為を通してそれに飽きれば「カルマ」は浄化されることになるが、もしも行為に取り憑かれると「カルマ」が一層積み重なっていく。
「カルマ」が残っている限り、人は行為をやめることはできず、ここから「執着」が生まれてくる。