今回は、久しぶりに「武道論」を書いてみたいと思います。
武道については過去に二つ記事を書いています。
武道における「不動心」とは何か?瞑想の実践が深まることで、「戦う理由」は消滅する
【筆者の失敗談】探求で出会う「よくある罠」|「霊的な覚醒」は悟りに必要なのか?
これらの記事でも書いていますが、私は過去に武道の道場に所属して稽古をしていたことがありました。
やっていたのは合気道で、7~8年ほど稽古して、最終的には三段まで昇段しました。
合気道の場合、技能審査によって昇段できるのは四段までで、そこから先は本部の推薦がいるため、三段というのは一般的な門下生の中ではそれなりに影響力のあるほうだと思います。
当時の私は道場の師範に雇われて、道場運営のお手伝いなんかをしつつ、後輩の指導にあたっていました。
まあ、最後は私が師範に逆らったことで破門になっちゃったんですが。
それはともかく、そんな風に合気道の稽古をしていたことで、いろいろと学ぶところがありました。
瞑想法や呼吸法と出会った経験も、合気道の道場が人生で初でしたし、稽古を通じてそれらの有効性をいくらか検証することもできました。
そして、かつて道場で学んだことは、その後の私の人生に少なくはない影響を与えたようにも思います。
実際、武道の稽古というものは、単に「武力を高めていく」ということだけが目的なのではなくて、もっと広い意味での「学び」を得ることが可能なものだと私は思っています。
そうでなければ、これだけ多くの人々が武道を稽古したりしないでしょう。
もちろん、もろに打撃を当てることを前提にしたフルコンタクト格闘技なんかをやっている人は、純粋に「他人との戦い」に強くなりたいのだと思います。
でも、そういう欲求を持っている人ばかりでもありません。
実際、いくら柔道の背負い投げを極めたとしても、それをごく普通のサラリーマンや主婦が日常で活かす場面はそうないはずです。
たとえば、腹の立った取引先の相手に関節技を決めても余計に問題が増えるだけですし、夫婦喧嘩で華麗に投げ技を決めたくて柔道を習う人はまずいないと思います。
じゃあ、いったい人々は何を得たくて武道を稽古するのでしょうか?
今回は、このことに関して、私がかつて合気道の稽古を通じて学んだことを一つお伝えしたいと思います。
それは、ある意味で「人間という存在」そのものに関する知見ではないかと思います。
武道を現に稽古している人はもちろん、武道の経験がない人にとっても、今回の記事を読むことで何かしら気づきを得られるかもしれません。
興味がある人は、ぜひ最後まで読んでみてください(ただ、今回もいつもの如く一万文字を超える長文なのですが…)。
ではまあ、始めていきましょうか。
◎「日本の武道」が辿った歴史|「武道」と「武術」の違いについて
まず最初にちょっと言葉の定義と言うか、人によっては気になりそうなところを詰めておこうと思います。
武道を稽古したことのない人は特に気にしたことがないと思いますが、「武道」と「武術」と言う言葉を、稽古している当事者たちはけっこう意識的に使い分けていたりします。
そもそも「武道」という言葉はそんなに歴史が古くありません。
以下、歴史の話を少ししますが、私もそれほど詳しいわけではないので、話半分くらいに聞いておいてください。
だいたい大正時代くらいまで、「武道」という言葉は一般的に使われていなかったようです。
それまでは、人間的な完成を目指す「道」ではなくて、あくまで人を殺すための「術」として、「武」というものは存在していたわけです。
どうも戦国時代に、実際にたくさんの人を殺傷することに成功した一部の人々が、その経験の中で「効果的な人間の殺傷技術」を身に着けたようです。
そして、こうした人々は、江戸時代になってから「武術家」として門下生を取り、これを教え始めます。
彼らは「効率的に人体を破壊する『術』」をこそ教えており、それはあくまでも「技術」の伝授でした。
そこでは精神修養であるとか、「人とはどうあるべきか?」といった問いとかは、それほど重視されていなかったのではないかと私は想像しています。
しかし、明治維新における刀狩りによって武士階級が事実上廃止されたことで、上記のような「武術的な身体技法」というものがいったん途絶えてしまったようです。
その後、日本が近代化していく中で、血なまぐさい「殺傷技術」としてではなく、「精神的な修行」という教育的・文化的な側面を強調することで、「武術」は一時的に息を吹き返します。
確かに、「武術は殺傷技術である」という前提を取ると、おおっぴらに子どもたちに教えたりするのも難しかったことでしょう。
そこで、「精神修養」をあえて目的に掲げることで、教育や文化の中に滑り込み、「武術」はなんとか生き残る道を選んだわけです。
ちなみに、「武道」という言い方は、だいたいこのあたりからされるようになったようです。
人を殺傷するための「術」ではなくて、人間的な完成を目指すための「道」なのだという、イメージ戦略の一環だったのではないかと思います。
ちなみにこれが、時代としては大正時代になります。
しかしその後、第二次世界大戦の敗戦を経験した日本では、GHQから「武道の稽古は危険思想を助長するものだ」という風に判断され、武道の稽古が一時的に禁止されてしまいました。
この「武道禁止令」を何とかして通り抜けるために、日本の武道家たちは苦心します。
そして、「武道というのはあくまでも筋骨を鍛えるためのスポーツなのだ」と当時の武道家たちは主張したのです。
つまり、「そこには軍国主義的なイデオロギー性は存在しておらず、ただ身体を鍛えることが目的である」とGHQに向かって伝えたわけです。
もちろん、当の武道家たちも本心ではそんなこと思っていません。
彼らの中には、まだ「純粋な殺傷技術」としての側面が強く残っていた古武道を稽古した経験のある人もいたでしょうし、武道の「精神修養」としての側面を理解していた人もいたはずです。
ですが、それを前面に押し出してしまうと、GHQに潰されてしまうので、仕方なく当時の武道家たちは「嘘」をついたわけです。
「これはあくまでただのスポーツに過ぎないんです」と。
そして、この主張はどうかこうか認められて、武道はあくまでも「スポーツ」として稽古を許可されるようになっていきました。
だからこそ、今もオリンピックでは「柔道」の試合が競技として開催されています。
決して「柔術」ではなく、「柔道」としてスポーツ化されたものが、世の中では受け入れられていったわけです。
と言ったような経緯があるため、「武道」と「武術」を混同して語ると、中には怒る人がいます。
たとえば、「武術」を稽古している人は、「純粋に効果的な身体運用法」をひたすら追求している場合が多く、「精神修養」は別に重んじていなかったりします。
そういう人に、「へー、『武道』やってるんだ」とでも言おうものなら、ムッとした顔で「あんなのと一緒にしないでもらえるか?」と言われてしまうかもしれません。
実際、「武術家」たちは、自身の「技術」に誇りを持っていることが多いです。
彼らは、あたかもプロの職人のように、自分自身が磨き上げてきた「技術」のことを、とても大事にしているのです。
それに対して、世の「武道家」の中には、単に「楽しいスポーツ」として趣味でそれを稽古しているだけの人もおり、そういう人にはそれほど高度な技術がなかったりもします。
また、「武道家」を自称することで、「あくまでも大事なのは『技術』じゃなくて『精神修養』だから」と言い訳ってぽく言う人もいます。
実際、「技術」に自信がない人は、「あくまで自分は『武術家』ではなく『武道家』なのだ」と言うことによって、一種の「逃げ」を打つことがあるわけです。
もちろん、真剣に稽古をして「技術の研鑽」も大事にしている「武道家」だっているでしょうけれど、そういう人はむしろ少数派かもしれません。
それゆえ、「武術家」の人たちは、「武道家」を自称している人が「武」について、とくとくと語っているのを見ると、「何を偉そうに…」と感じやすかったりします。
それは言ってみると、陶芸などの熟練の職人が、街の陶芸教室の先生を「真の陶芸家」とは見なさないのと同じメンタリティかもしれません。
もちろん、街の陶芸教室の先生も、陶芸で食っているプロではあるでしょうけれど、「自分の技術一本で勝負している」とは言い難いと思います。
そこには、「陶芸」というものにかける「熱意」や「覚悟」という点において、大きな差が存在しているのではないかと思います。
いずれにせよ、「武道」と「武術」というのは、「混ぜるな危険」です。
知らずに一緒くたにすると、論争に発展しかねません。
そして、私はあくまでも「武術」ではなく、「武道」として合気道を稽古していました。
「身体技術の追求」も、もちろんしてはいましたけれど、決してそれ一辺倒というわけではなく、「人格の向上」も課題として意識していたわけです。
ということで、前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、そろそろ本題に入っていきましょう。
◎武道における鉄則は「相手に寄りかからないこと」
今回私がお伝えしようと思っているのは、「身体技術」と言うよりは、「人間というものの成り立ちに関する知見」です。
実際、私は合気道の稽古によって「身体技術」についてもいろいろ学びましたけど、「人間とはいかなる存在なのか?」ということについても学ぶところがありました。
今回お伝えするのは、そんなものの中の一つです。
ちなみにそれは、「自立」というものについての考え方です。
たとえば、合気道を稽古していると、「相手に寄りかかってはいけない」ということをよく言われます。
「たとえ相手が急にいなくなっても、それでバランスを崩したりしないように、常に自分だけで身体のバランスが取れているように注意して姿勢を整えなさい」と指導されるのです。
このため、「自分の身体を相手に乗せかける」だとか、「意識的に寄りかかることで相手を押し出そうとする」だとかいったことは、「やってはいけないこと」とされています。
実際、そういうことをしていると、もしも相手がいなくなったら、当人は盛大に転んでしまうでしょう。
つまりそれは、「自分自身のバランスがちゃんと取れていない状態である」と合気道では見なされるわけです。
でも、物理学的に考えたら、相手を動かすには何らかの力を加える必要があるはずです。
そして、「自分の体重」は力として使えるはずなので、それを利用しても別に問題はなさそうに思えます。
実際、体格の大きな格闘家は試合にも強いものですし、「重量がある」ということは、もうそれ自体が「パワー」みたいなものなわけです。
しかし、日本の武道はあくまでも「柔よく剛を制す」という精神を受け継いでいます。
つまり、「たとえ自分の身体が小さくても、体格の大きい者を組み伏せることができる」というのが、日本の武道における「理想的なイメージ」なわけです。
実際、そういう「武道家」や「武術家」はこれまで存在していました。
たとえば、合気道開祖の植芝守平翁はとても小柄な人でしたし、弟子の中でただ一人、合気道十段を与えられた藤平光一師は、160㎝台という体格でしたが、アメリカ人の巨漢をいともたやすく制して見せています。
なので、「相手を制する際に必ずしも体重が重要なわけではない」というのは事実なわけです。
そうは言っても、初心の頃はどうしても相手に体重をかけて技をしたくなってしまいます。
たとえば、立っている相手を倒すために身体をぶつけに行ったり、倒れた相手を起き上がらせないために上から乗っかろうとしたりするわけです。
ですが、何度もそういうことを繰り返していると、あることに気づきます。
それは、「体重をかければかけるほど、自分も相手に振り回される」ということです。
これはいったいどういうことでしょうか?
以下、説明していきます。
◎押した分だけ押し返される「作用反作用の法則」について
「相手に体重をかければ、そのぶん相手に振り回される」というのは、いわば「作用反作用の法則」です。
小学校の理科でたぶん習ったと思いますが、覚えていますか?
たとえば、戸を押して開ける時、私たちの身体は、戸を押したのと同じだけの力でもって、戸から押し返されています。
「私たちが戸を押す力」と「戸がこちら押し返してくる力」の大きさは等しく、方向だけが逆になっています。
このような物理的な法則が、「作用反作用の法則」と言われるものです。
ちなみに、この場合は戸を押す力が「作用」で、戸が押し返してくる力が「反作用」ですね。
でも、基本的に私たちの身体よりも戸のほうが軽くて動きやすいので、私たちの身体が戸に押し返されてのけぞったりすることはありません。
反対に、戸のほうが動いて私たちに道をあけてくれます。
しかし、もしも何らかの仕掛けで戸が完全に固定されていた場合、私たちは戸を動かすことができません。
むしろ、一生懸命になって戸を押し続けることで、自分の身体の方が後ろ向きに押し戻されてしまうでしょう。
これは、戸を押したのと同じだけの力で、こちらが押し返されているために起こる現象です。
つまり、何かを動かそうとして力をかける時、私たちはいつも「かけた力」と同じだけの大きさの力でもって、相手から動かされそうにもなっているわけです。
こんなわけで、武道の稽古においても、こちらが相手に力をかけると、それと同じだけの力がこっちに向かって返ってきます。
このため、「相手を何とかして押しのけよう」と思って寄りかかれば寄りかかるほど、それと同じだけの力が跳ね返ってきて、押し戻されてしまうのです。
もちろん、こちらの体重のほうが重ければ、身体が重い分だけ足裏の摩擦も利いて踏ん張ることができますから、無理やり押し切ることができるでしょう。
でも、いろんな相手と組んで稽古していくと、自分より体格の大きな相手と組むこともあるわけです。
そういう時には、相手を押せば押すほど、自分の側が動くことになってしまいます。
それは、止まっている車を普通の人が押したところで、車はビクともしないのと同じです。
むしろ、押している自分の身体の方が、反対向きに動いてしまいます。
このような関係性は、こんな風に図にできるのではないかと思います。

このように、力をかけて無理やり相手を動かそうとすると、かえって自分が動かされそうになってしまいます。
「じゃあ、どうしたらいいのか?」ということになるのですが、その答えは「寄りかかることをやめること」です。
「え、でも、寄りかからなかったら力をかけようがないんじゃ…」とたぶん誰でも思うでしょう。
ところが、不思議なことに、相手に寄りかかることをやめると、相手に力が通るようになっていくのです。
別に踏ん張って「動けー!」と力をかけなくても、相手に対して影響を与えられるようになっていくわけです。
「そんなことあるの?」と思いますよね。
でも、本当です。
今度は、この「不思議な現象」について説明します。
◎「相手を支配したい」という欲求によって、当人は絶えず振り回される
これは、実際に自分で経験したことがないとにわかには信じがたいと思うのですが、「力をかけよう」という想いがなくなると、自然と「力が通る」ようになっていきます。
実際、「武道」や「武術」の世界では、「力をかけること」と「力を通すこと」は別のこととして認識されている場合が多いです。
たとえば、「力をかけよう」とする人は、自分の体重を増やして、筋力を増強させる道を選びます。
つまり、「物理的に相手に押し負けないフィジカル」を身に着けようとするのです。
それに対して、「力を通そう」と考える人は、まず自分の中にある「相手に寄りかかりたくなる欲求」を何とかしようとします。
そもそも私たちが相手に寄りかかりたくなるのは、力ずくで相手をコントロールしたくなってしまうからです。
言い方を換えれば、「相手を思い通りに支配したい」という自身の欲求によって、私たちは支配されているのです。
そういう場合、当人は相手を力ずくで振り回そうとしますが、そうすることによって、作用反作用の法則が働いて、自分のほうまで振り回されます。
あなたも職場や家庭でそういった経験がありませんか?
これは別に「物理的な現象」だけに当てはまる話ではありません。
人と人とがかかわる局面では、常に発生する問題です。
たとえば、「言うことを聞かない部下」を何とかしようとする時に、「相手を自分の思い通りに動かしたい」という欲求が強すぎると、「なんであいつはいつも言うことを聞かないんだー!」と当人はイライラすることになってしまいます。
もちろん、権力を持っていれば無理やり言うことを聞かせることもできるかもしれませんが、相手の不満はどこかで爆発することになるでしょう。
つまり、「かつて自分が押し付けた力」が、形を変えて返ってくることになるわけです。
また、世の中には「自分のパートナーを思い通りに変えたい」という欲求に支配されている人もいます。
そうすると、当人の思考は「どうやってこの人を理想通りに変えようか?」という問いを中心に回るようになっていきます。
そして、思い通りになったりならなかったりする中で当人は一喜一憂することになり、時には相手と衝突することにもなるでしょう。
こんな具合で、「相手をコントロールしたい」という欲求に衝き動かされている限り、そこには「争いの種」が尽きることはありませんし、相手に力をかければかけるだけ、自分自身が振り回されてしまいます。
しかし、当人の主観では「なんであいつはこっちの思った通りに動かないんだ!」と感じられています。
実際には自分の側から相手に「侵略的な意図」でかかわっているにもかかわらず、当人は「相手が抵抗するのが悪い」という風に感じてしまうのです。
この場合、当人を振り回して苦しめているのは、実のところ「自分自身で相手にかけた力の反作用」です。
自分のほうが相手に力をかけて支配しようとしているから、当人はそれが返ってきて振り回され、苦しむことになってしまっているのです。
つまり、言ってみれば、自分で自分の首を絞めているような状態なわけですね。
しかし、当人の主観では「被害者は自分のほうだ」と感じていたりします。
つまり、「自分がこんなに苦しいのは、動かない相手のせいなんだ!」と当人は感じてしまうのです。
実際、合気道の稽古をしていても、同じようなことがよく起こります。
たとえば、体格の大きな相手と当たった時に、力で無理やり相手を動かそうとすると、その人はだんだん息が切れてきます。
なぜなら、その時に当人は、呼吸を止めて、踏ん張って、力の限りつかみかかって、なんとか相手を動かそうとしているからです。
しかし、そんなことをすればするほど、自分のほうが疲れてきますし、しかも自分がかけた力が反作用となってそのまま返ってくるので、主観的にはまるで逆風の中を進んでいるかのような抵抗感が生まれてきます。
それにもかかわらず、相手は平然と立っていたりするのです。
これでは、「ちょっとは空気読んで動けよ!(こっちは大変なんだよ!)」と言いたくなる人も出てこようというものです。
ですが、繰り返しますけれど、そんな風に「大変な想い」をしなければならなくなるのは、当人が相手を力ずくでコントロールしようとしているからです。
このコントロール欲求を手放さない限り、相手との間では「力の衝突」が起こり続けますし、「思い通りにならない!」というイライラからも自由になることはできないのです。
◎「自分の足」で立つための方法について
合気道を長く稽古していると、段々とこういったことがわかるようになっていきます。
それは、「力をかけて相手を支配しようとする限り、同じ力によって自分は苦しむことになる」という理解です。
そして、このことが理解できるようになった人は、自然と「寄りかからない」という立ち方を模索し始めます。
その際に取られる手段の一つが「瞑想の実践」です。
そもそも、「他人を思うように支配したい」というのはあくまでも「自我」の欲求です。
当人はひょっとすると、他人を豪快に投げ飛ばすことで、後輩から尊敬されたいのかもしれませんし、先輩から一目置かれたいのかもしれません。
だからこそ当人は、力ずくで相手を動かすことになってもいいから、なんとか「自分が勝った」という形に持っていきたくなっているわけです。
ですがそれは、「後輩からの敬意」や「先輩からの期待」に対して寄りかかることを意味します。
つまり、当人はそれらがないと「自分の足」で立っていることができないわけです。
なので、「自我」の欲求から解放されることは、「寄りかからずに立つため」にはほとんど必須事項になってきます。
だからこそ、多くの武道の道場では、瞑想の実践が重視されているのでしょう。
実際、瞑想の実践を続けていけば、当人の「自我」は徐々に弱まっていきます。
「他人を思い通りに支配できること」は、「自我(エゴ)」からすると「無上の喜び」なわけですが、瞑想によって「自我」が希薄になってきた人は、徐々にそういったことに価値を見出さなくなっていくのです。
結果、「相手を支配したい」という欲求が沈静化して、「無意識に力をかけて相手を動かそうとする」ということを、当人はしなくなっていきます。
これが瞑想の実践によって「自立」に至ろうとするアプローチです。
また、気功や呼吸法の実践も、「自分の足で立つ」ということに資する部分があります。
こちらは「瞑想の実践」において採用した「自我」を滅却するという「認識論的な方向からのアプローチ」ではなく、どちらかと言うと「物理的にちゃんと立つ」という「身体的な方向からのアプローチ」になります。
実際、いくら「自我」が弱くなっていたとしても、筋肉や骨格の配列がデタラメでは、「しっかり立つ」ということは難しいものです。
なので、気功や呼吸法の実践をすることによって、全身を整えて、そこに「氣」を通していく修行も必要なわけです。
ちなみに、私がかつて所属していた流派のトップに位置する合気道家は、それを「天地に氣を通す」と表現していました。
実際、身体のアライメントが整って、「しっかり立つこと」ができるようになってくると、天と地を結んだ直線の中に、自分の身体が含まれているかのような感覚がしてくるものです。
こういう状態になることをもって、日本では「自分の身体に氣を通す」と表現し、その「氣」を相手に向かって流すことをもって、中国武術などでは「勁(けい)を発する」と言うのではないかと思います。
なお、氣が通った際の体感のイメージは、下のような感じです。

この状態になると、身体が軽くなって、全身からほのかにエネルギーが溢れているのを感じるようになります。
もちろん、科学的に「氣」を計測することはできないので、それはあくまで「主観的な感覚」に過ぎませんが、道場での稽古ではその「有効性」を検証できます。
実際、この状態で相手に向かって「力を通す」と、それはこちらに返ってこずに、相手の中にそのまま流れていきます。
「力をかける」やり方だと、押した分だけ押し返されたわけですが、「力を通す」場合にはいつも決まって一方通行です。
つまり、作用反作用の法則がここでは働かないのです。
たぶん厳密には働いているのでしょうけれども、主観的にはそれを感じなくなります。
こちらから送り込んだ力が、触れた部分を通して相手の中を流れていき、結果的に相手は大きく動かされます。
こちらには「動かそう」という意図がないのに、相手は体勢を崩されたり、遠くにふっとんだりするのです。
これを図で示すと、以下のような感じです。

このように、不思議なことに、「相手を動かそう」という執着がなくなると、なぜか相手は動くようになります。
実際、「絶対思い通りにしてやる!」と思ってにらみ合っていると、相手だって「意地でも動いてやるもんか!」と抵抗してきてしまうものです。
そこにおいては常に争いと衝突が絶えませんし、相手を動かそうとした分だけ、自分自身が振り回されます。
その状態を解消するための突破口は、実のところ、「相手を無理に動かそうとせず、まず自分自身が自立すること」だったりするのです。
◎「欲求の放棄」とは、「取引」ではなく「明け渡し」である
しかし、だからといって、「相手を動かそうと思うのを自分はやめた!」と宣言してみても無意味です。
なぜなら、そうやって宣言する人は、「コントロール欲求を手放すことで、相手をコントロールできるようになりたい」という欲望を、あいかわらず内側に持っているからです。
実際、「コントロール欲求を手放せば、相手を動かすことができる」と知って、「だったらコントロール欲求を手放します」と言うのであれば、それは「欲求の放棄」ではなく「単なる取引」に過ぎません。
つまり、ここにおいて当人は「コントロール欲求を手放すこと」を代償にして、「相手を思いきり動かせる権利」を買おうとしているわけなのです。
しかし、もしもそう思っているのであれば、やっぱりまだ当人は「相手を動かしたい」という欲求を持ったままです。
「欲求の放棄」は全然起こってなどおらず、むしろ当人は自分で自分を欺いています。
つまり、「自分は既に欲求を放棄したのだ」と、当人は間違って思い込んでしまっているわけです。
そうではなくて、「コントロール欲求を手放す」というのは、一種の「明け渡し」のようなものです。
そこでは、「相手をコントロールすることはもう諦める。そのうえで、相手が本当に動くかどうかは、天の采配に任せよう」というような、ある種の割り切りが必要です。
つまり、たとえ結果がどうなろうとそれを受け入れる覚悟でもって、コントロールを手放すことが求められるのです。
ただ、もしも本当に「コントロール欲求」を放棄することができると、「コントロールしようとしないほうが、相手に力が通って技が成立しやすい」ということを、当人は徐々に学ぶようになっていきます。
別に結果をコントロールしようとは思っていないのですが、コントロールしようとしないほうが「かえって良い結果になる」ということを、当人は経験から学んでいくわけです。
そうした経験をたくさん重ねると、当人の「自我」は、「ひょっとしてオレっていないほうが物事はうまくいくんじゃないか?」と思い始めます。
実際、そういう側面はあると思います。
なぜなら、何でもコントロールしようとし過ぎることで、かえって「余計な問題」を生み出してしまうのが、「自我」というものの性質だからです。
ともあれ、「自我」自身が「オレはどうも消えていたほうがいいみたいだな」ということを学習すると、当人の「自我」はますます希薄になっていきます。
「相手に勝ちたい」
「負けたくない」
「いいところを見せたい」
「失敗して恥をかきたくない」
こういった想念は全て、「自我」に由来しているものです。
なので、「自我」が希薄になった人は、これらの考えから自由になっていきます。
要は、「他人からどう思われようと、自分は自分だ」と思うようになるわけです。
そして、そのように思えるようになった人こそが、「自分の足」で立っている人です。
その時、当人は他人に寄りかかろうとせず、相手を支配して「自我」を肥やそうともせずに、「自分自身」に定まっています。
だからこそ、わざわざ自分の力を誇示するために誰かを倒そうともしません。
そういう意味では、当人の中で「戦う理由」は希薄です。
しかし、そんな風に「自分の足」で立っている人こそが、「全身に氣の通った人」であり、「勁」を発することで、他人を動かす影響力をその身に宿しているのです。
◎「自分の足」で立つ人は、そのつもりもなく他人に影響を与え始める
このように、他人に寄りかかろうとしない人は、かえって相手を動かすことができます。
そういう人は、「自分の足」で立てているので、相手の存在を必要としていません。
たとえ相手が急にいなくなっても、そのことでバランスを崩して転んでしまったりしないのです。
ですが、世の中には「自分の足」で立てないからこそ、他人に寄りかかろうとする人たちも多いと思います。
そういう時、当人は「相手がいなくなったらどうしよう」と不安に思って怯えています。
そして、そうであるからこそ、当人は絶えず相手に影響され続け、苦しむことにもなるわけです。
私たちは、他人を支配しようとして寄りかかり、精神的な支えにしようとして寄りかかります。
ですが、そういったことを続ける限り、当人は相手に振り回され続けます。
もしもそうやって振り回されることをやめたいのであれば、「他人を思い通りにコントロールしたい」という欲求を捨てねばなりません。
つまり、他人に寄りかかることをやめなければならないということです。
確かにそれは、様々な不安を抱える私たちにとって、非常に難しいことです。
しかし、もしもコントロール欲求を捨てることができたなら、当人は徐々に「自分の足」で立つようになり、苦しみはなくなっていくでしょう。
その時、当人は別に「他人に影響を与えよう」というつもりもなく、周りの人々に影響を与え始めます。
その人があまりにも「自分自身」であるがゆえに、周囲の人たちが動かされるのです。
そうして当人はまるで「台風の目」のようになっていきます。
人を動かすことはあるけれど、自分が動かさることはなく、自分自身は中心の「無風地帯」で一人でリラックスしています。
そして、当人の周りにいる人たちは、「変わるつもり」のなかった人までもが、影響を受けて変わっていくことになるのです。
「自分の足で立つ」というと、とかく根性論のように思われがちですけれど、実際のところそれは、むしろ「余分な力み」を抜いた上で、「そのままの自分」として在ることだったりもします。
なので、現状を変えようとするあまり、力んで踏ん張っている人は、一度「頑張ること」を放棄してみるのも一つの手です。
そもそも、私たちが内側にもともと持っている「力」は、実のところ、けっこう大きかったりします。
でも、「頑張って力をかけよう」とすると、その「力」はどこにも通っていくことなく、こちらに跳ね返ってきてしまうものです。
「力」を相手に通すには、「力み」が抜けていないといけません。
逆説的なことではありますが、これは武道においても人生においても、当てはまる事実ではないかと思います。
たぶん、私たちはもっと「楽観的」になっていいのだと思います。
実際、「自分で何もかもしなければならないのだ!」と深刻になって思い詰めるから、私たちの「自我」はいつまで経っても安心して休むことができないのです。
でも、もしも「自我」に思い切って「お休み」を出してあげるなら、その時、物事は思いのほか大きく動き出すのではないかと、私自身は思っています。
◎終わりに
ということで、今回は合気道の稽古をする中で私がかつて学んだ「人間存在に関する知見」を一つご紹介しました。
人によっては、日頃の自分や他人の言動を思い返して、「ハッ」とした部分もあったかもしれません。
きっとこういう学びがあるから、武道を稽古する人は世の中にたくさんいるのだと思います。
もちろん、趣味のスポーツとして「武道」を楽しむ人もいますし、純粋な「身体技術」として「武」を追求する人もいます。
また、中には、単に稽古仲間とおしゃべりするのが好きで道場に通っている人だっているでしょう。
目的は人それぞれです。
ただ、「自分が何を求めているか?」についてだけは、自覚的であったほうがいいのではないかと私は思っています。
たとえば、もしも「他人を支配するための方法」を求めて武道を稽古しているのであれば、稽古すればするほど、かえって道に迷ってしまって、余計に当人の「苦しみ」が深くなるかもしれません。
私は「武道の修行」というのは基本的に「自我の滅却」を内包したものだと思っています。
なので、「自我」によって苦しめられるのを終わりにしたい人は、「武道」をやったらいいと思いますし、逆に「自我」をもっと強めたいのであれば、「武道」ではなく「格闘技」をやったほうがいいと思います。
いずれにせよ、私がかつて「合気道の稽古」で身体を通して学んだことは、その後の「真理の探求」にも、部分的には活かされたように思います。
もちろん、「武道の達人になること」と「真理を悟ること」は必ずしも同じものではないと思いますが、武道を稽古しながら真理を探求している人は、相乗効果でいろいろな学びが得やすいかもしれません。
もしも何か学びが得られたら、お問い合わせフォームから、よければ私にも教えてください。
ではまた。

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