「第10回」と「第10.5回」の記事で、瞑想の第二段階である「集中しない瞑想」について解説し、それとの関連で、前回は「退屈」についての「特別記事」を投稿しました。
【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意味について
【第10.5回】「瞑想」の第二段階《実践編》|「無意識の力」を伸ばす「集中しない瞑想」
【特別記事】「退屈」とは何か?|「何もしないこと」の中に留まったほうがいい理由
「集中しない瞑想」を実践することで、当人の「無意識」は育っていきます。
つまり、意識して「瞑想しよう」と思うことなく、「瞑想状態(思考のない静かな状態)」を保てるようになっていくのです。
いわば、私たちの「無意識」が半ばオートで「瞑想状態」を維持してくれるようになるわけですね。
そして、そのような「無意識による瞑想」を深めていく過程で、おそらくほとんどの人が、避けがたく「退屈」と直面することになります。
なぜなら、「無意識による瞑想」を深めていく際には、「意識してするべきこと」が特に何一つないからです。
ですが、その時に「退屈」を避けようとするのではなく、あえてその中に留まることによって、第二段階の「集中しない瞑想=無意識による瞑想」は深まっていくことになります。
「退屈」の中に留まることで、やがて「退屈」は溶けて消えていき、後には「穏やかな解放感」が残るはずです。
そうした体験をすることで、当人は徐々に「別に頑張って『瞑想しよう』と思う必要はなかったのだな」と理解できるようになっていくでしょう。
なお、これから説明していくことになる瞑想の第三段階では、日常生活の中に瞑想を持ち込んでいくことになります。
しかし、そのためには上記のような「無意識による瞑想」の習熟が必須です。
というのも、考えてみれば当たり前ですが、起きてから寝るまでずっと「瞑想しよう」と意識し続けることなど、誰にもできないからです。
ですが、「無意識による瞑想」というアプローチをそもそも知らない人は、「起きている間中ずっと意識を途切れさせないことが『悟り』なのではないか?」と思っていることがあります。
彼らはそれが、瞑想の実践における「ゴール」だと思っているわけです。
ですが、それは違います。
「最終的な悟り」は、瞑想がほとんど呼吸と同じくらい「無意識」に持続するようになった時に起こります。
逆に、もしも意識して「瞑想しよう」と思っているならば、その人はたとえ何十年瞑想を実践していたとしても、私の言う第一段階である「集中する瞑想」の枠内にいまだ留まっている状態にあります。
なので、第三段階の実践は、「第10回」と「第10.5回」で解説した「集中しない瞑想」をしっかり実践してから始めるようにしてください。
できれば、「黙って坐ったまま30分間ほぼ思考しないでいられるようになること」を達成できてから、第三段階の実践に入ることを推奨します。
そうでないと、おそらく第三段階の「瞑想的な日常生活」の実践は、スムーズに進んでいかないでしょう。
それから、今の時点で言っておこうと思うのですが、今回の記事はかなりの長文であり(全部で10000字以上あります)、その上、内容も哲学的で難しいです。
ですので、この記事を読むのは、なるべく第一段階と第二段階の実践を終わった後にしてください。
「先のこと」を知りたくなる気持ちは私もよくわかるのですが、実践が進んでいない段階で読んでしまうと、かえって混乱する可能性が高いです。
しかし、おそらく第一段階と第二段階の実践が既に終わっている人であっても、今回の内容はすぐには理解しがたいはずです。
それは、今回の記事の核心が、私たちにとって最も重大な「錯覚」である、「『自我』と『自分』との同一化」を扱っているからです。
この「錯覚」は、普通に生きているとまず意識することのないものなので、理解することが非常に難しいと思います。
なので、もしも今読んで理解できなかった場合、実践が進んでから再読してみてください。
今回の記事の内容を理解できるようになる頃には、きっとその人は「自由」とは何かを理解し始めているはずです。
「自由」に向かうための最後の障害となる「『自我』と『自分』との同一化」とは一体何なのか?
また、どうやったらこの「錯覚」をはっきり見抜くことができるのか?
その鍵は、まさにこの第三段階である「瞑想的な日常生活」の実践の中にあります。
では、具体的な実践の話に入っていきましょう。
◎「瞑想的な日常生活」がうまく実践できているかを判定する基準
まず最初に、「瞑想的な日常生活」についてのイメージを持てるようにしてください。
漠然とでも構いませんので、この実践の方向性を意識できるようになってほしいのです。
と言うのも、第三段階以降は、これまでの「集中する瞑想(第一段階)」や「集中しない瞑想(第二段階)」と違って、具体的な手順というものがないからです。
実践する個々人が、自分自身の日常生活の内容に即して、瞑想を実践していくことになります。
それゆえ、当然ながら、「何をしながら瞑想をするか」は人によって異なります。
たとえば、ある人は駅員の仕事をしているかもしれませんし、主婦として毎日家事をしている人もいるかもしれません。
そうであるならば、駅員の人は駅員としての仕事をしながら瞑想をし、主婦の人は家事をしながら瞑想していくことになります。
私のほうで、「この仕事をしている人はこうで、こういう仕事をしている場合はこうする」といったように、全てのケースを網羅的に説明することはできません。
各自が自分で「自分の実践は正しく進んでいるか?」を判断しなければいけません。
そして、その際の指標となるのが、これまでの第一段階・第二段階の実践で培った「サマーディ」の経験です。
「集中する瞑想」や「集中しない瞑想」をしっかり実践していれば、「内側の思考が静かになって、不思議と心地よさを感じた体験」を何度かしたことがあるはずです。
「内側が静かである」とはどういう感じがするものなのか?
それは、自分で実際に味わったことがないとわからないものです。
逆に言うと、もしも自分で「内的な静けさ」を体験したことがあるのであれば、それが当人にとっての「羅針盤」となります。
実際、もしも日常生活の中でも瞑想をするならば、日々のちょっとした瞬間に、突然「内的な静けさ」を感じるようになっていくでしょう。
別に目を閉じて坐っているわけでもないのに、かつて坐って瞑想をしていた時に感じたのと同じような「静寂」と「心地よさ」を、当人は感じるようになります。
もしもそういった「静寂」と「心地よさ」を感じる瞬間が、生活の中で増えていっているようであれば、「瞑想的な日常生活」の実践はうまく進んでいると判断して問題ありません。
これが、ほとんど唯一の基準です。
◎「ドライ・ナレッジ」の罠|「認識」の後に「体験」がやって来るまで実践をやめないことの重要性
ただ、おそらくこの段階では、「静寂」を感じることはできても、「心地よさ」までは感じられない可能性が高いです。
それゆえ、実践している当人は、「なんか内側が静かだけれど、だから何?」と感じやすいです。
「静かである」ということに、特段の意味を感じることができないのです。
これは探求の世界で「ドライ・ナレッジ(渇いた知識)」と呼ばれることのあるものです。
たとえ「静寂」を体験しても、いきなり全てが変容するわけではありません。
むしろ、「内側が静かになったところで、それに何の意味があるんだ?」と当人は感じることがあります。
「静かになったけど、だから何?」というわけです。
このような「無意味感」は、「サマーディ(解放感)」が深まっていく過程で、自然と解消されていきます。
なぜなら、もしも「静けさ」の中に留まり続けるなら、次第に「心地よさ」も感じるようになっていくからです。
ですが、往々にして、「静けさの理解」が先に来て、「心地よさの体感」は後になってからやってきます。
それゆえ、「瞑想的な日常生活」を実践していると、「確かに思考は湧かなくなったけど、それに何の意味があるんだ?」という「無意味感」を覚える時期がどこかで来ると思います。
しかし、そこで実践をやめてしまうのは非常にもったいないです。
と言うのも、せっかく「思考が湧かない状態」を実現できたのであれば、「心地よさ」がやってくるのは時間の問題だからです。
そして、もしも「心地よさ」を感じることができるようになったら、「無思考を保つことに何の意味があるんだ?」という疑問は自然と消え去ります。
おそらく当人は、「無思考を保つことは無意味である」とはもう感じなくなるでしょう。
なぜなら、「静けさ」の中に「至福」があるということを、当人は体験的に理解できるようになるからです。
このように、瞑想の実践というのは、しばしば「認識的な理解」が先行し、「体験的な理解」が後になってからやってきます。
そこにはいつも「時間差」があり、「ドライ・ナレッジ(渇いた知識)」の体験から来る「無意味感」を避けることは非常に難しいです。
つまり、「~ということはわかったけど、だから何?」と感じてしまいやすいわけです。
なので、これから先の実践においても、「だから何?」と感じた場合、まだ「ゴール」には達していないと思っておいたほうがいいです。
それはあくまでも「ドライ・ナレッジ」の段階であり、真の意味での「体験的な理解」はその後でやってきます。
実際、「真理」は決して「不毛なもの」でもなければ「渇いたもの」でもありません。
なぜなら、私たちにとって存在することそのものが「喜び」であるからです。
ですが、そのことを自分自身の体験を通して理解できるようになるまでは、「ドライ・ナレッジ」は避けられません。
このことはぜひ、頭の片隅に置いておいてください。
◎「瞑想的な日常生活」の中でも、思考や「自我」の働きは継続する
話が少しわき道にそれましたが、「瞑想的な日常生活」の実践で大事なことは、上記のような「静けさ」の感覚を重視することです。
「それだけが実践の羅針盤である」と言ってもいいくらいです。
もちろん、仕事や家事をしていれば考えなければいけないこともあるでしょうし、「自我」によって判断を下さねばならない場面も多いでしょう。
ですが、それらは別に実践の妨げとはなりません。
なぜなら、もしも思考をする場合には、その自分の思考を観察すればいいだけだからです。
おそらく、第一段階と第二段階の実践を経た後なら、それはさして難しいことではなくなっているはずです。
「思考を観察している状態」というのは、思考に巻き込まれて我を失うことなく、自覚的に考えることができている状態です。
そもそも、「無自覚な思考に巻き込まれている状態」と「自覚的に考えている状態」は、感覚的にまったく違うものです。
大事なのは、「思考に巻き込まれて我を失わないこと」であって、「どんな時も一切思考しないこと」ではありません。
「思考する必要がある時」は思考していいのです。
それは一般の人も覚者も同じです。
覚者は、それ以外の人たちとは違って、日常的に無自覚な思考に巻き込まれたりはしないので、「思考すること」も別に問題とはならないのです。
ですから、もしも仕事や家事をする中で思考することがあったとしても、無自覚な思考に巻き込まれているわけでないなら、「瞑想状態」は持続していると判断して問題ありません。
なぜならその時当人は、思考に飲み込まれて同化してしまうことなく、思考から離れて立つことができているからです。
そして、思考することだけでなく、「自我」を働かせて判断を下すことも、私たちは避けることができません。
「自我」の働きがなくなれば、私たちは社会生活を送ることができませんし、他者とのコミュニケーションも不可能になってしまうでしょう。
ですから、「自我」は表に出てきていても構いません。
むしろそれは避けようのないことだと考えておいたほうがいいと思います。
ただし、この瞑想の第三段階である「瞑想的な日常生活」を続けていくと、どこかの段階で、「自我」とのかかわり方が大きく変わるような「ある気づき」が起こります。
「瞑想的な日常生活」を実践するのは、ほとんどそのためであると言っても過言ではないくらいの「重大な気づき」です。
それは、「『自我』とは『本当の自分』ではない」という気づきです。
以下、説明していきます。
◎全ての探求者がかかる罠|「自我」と「真我」の同一視
たとえ第二段階の「集中しない瞑想」を実践して「無意識」が育っていたとしても、「『自我』こそが『自分自身』である」という感覚は、おそらくなくなっていないでしょう。
私たちはみんな、「自我」を「自分自身」と同一視しています。
実際、「私」という感覚は、私たちの「人格」や「個性」といったものと混ざり合っています。
だから、私たちは「自分」というものを、「この身体を持って、今までの人生を生きてきた、こういう性格の一個人である」と思って疑っていません。
ですが実際には、「本当の自分(真我)」はそうしたものとは別物です。
人格も性格も、身体も個性も、「私たち自身」ではないのです、
しかし、「自我」は人格や性格、身体や個性といったものを、絶えず「自分自身」と関連付けます。
だからこそ、私たちは人格、性格、身体、個性の中核に存在する「自我」のことを、「自分自身」と同一視して疑いません。
しかし、「自我」はあくまでも私たちが産まれた後で、後天的に作り上げられた「構築物」に過ぎません。
つまり、人格や個性といったものは、「自我」によって後天的に「自分」に紐づけられたものだということです。
このような「自我」による「関連付け」の力は強大です。
実際、「自我」は「人格こそが『自分』である」「この人生だけが全てである」という観念を、私たちの意識の奥深くまで染み込ませることで、私たち自身を支配しています。
この支配から完全に「自由」になることが「悟り」なのですが、上記のような考えを打破することは非常に難しいです。
だからこそ、これまで語ってきたような様々な実践が必要ともなるのです。
私は今、とても正直に語っているつもりです。
ですが、ほとんどの人にとって、こういった言葉は何言っているのかよくわからないのではないかと思います。
「『自我』は『本当の自分(真我)』ではない」という理解は、あくまでも自分の体験を通じて起こるものです。
ですから、ひょっとしたら私は「こういった説明をあえてしないほうがいいのではないか?」とも思っています。
なぜなら、体験的に理解していないにもかかわらず、私の言葉だけ読んで「理解したつもり」になってしまう人もいるかもしれないからです。
それはまさしく、先ほども書いた「ドライ・ナレッジ(渇いた知識)」です。
私は別に「『自我』は『自分』ではない」という思考を繰り返してほしいわけではありません。
おそらく、そんなことをしても何も変わらないでしょう。
そうではなくて、私は「『自我』は『自分』ではない」ということを、自分自身で体験してほしいのです。
「自我」は非情に巧妙です。
おそらくあなたはその罠にかかることを避けられないでしょう。
「瞑想的な日常生活」を実践している間も、当分の間は「自我」との一体化が続くはずです。
しかし、たぶん主観的には「探求は終わったんじゃないか?」と感じ始めるのではないかと思います。
なぜなら、「瞑想的な日常生活」をある程度継続していくと、「思考が静まった状態」を維持することは容易になっていきますし、日常的に湧いてくる思考や感情も客観的に観察できるようになっていくからです。
その過程で、「思考や感情は客観的に観察できる。ならば、思考や感情は『自分』ではない」という理解が起こります。
「客観視できる」ということは、それが「自分自身」ではなく「認識対象」であるという紛れもない証です。
そして、「瞑想的な日常生活」を続けるなら、そのような「客観視する力」はどんどん成長していきます。
そうしてさらには、「身体も客観的に観察できる。ということは、身体も『自分自身』ではない」と理解するようになるかもしれません。
ですが、「自我」をそんな風に思考や感情や身体と同じように対象化して、客観的に観察することができる人が、果たしてどこにいるでしょうか?
むしろ、「自我」とは私たちにとってまさに「観察者」そのものです。
「自我」が思考や感情や身体を観察し、「自我」が「それらは『自分』ではない」と言っているのです。
ここにおいて、「自我」はあくまでも「観察する主体」であり、私たちは「この『観察する者』こそ『自分自身』なのだ」という感覚を強く抱きます。
このため、「自我」と「自分」はピッタリ一つにくっついた状態になってしまいます。
そこに、「『自我』と『自分』は別である」という認識が生じる余地はありません。
そして、「自我」はこのように言います。
「『私』はとうとう理解した。『私』は『真我』そのものである」と。
つまり、「自我」は「私こそが『本当の自分自身』だ」と言い出すのです。
そして、私たちはそれを疑いなく信じてしまいます。
おそらく、このピット・フォール(落とし穴)に落ちることを完全に避けることは無理でしょう。
実際、私もこの落とし穴に落ちました。
私たちは「自我」の言うことをいつも鵜呑みにしてしまいます。
ですが、実際のところ、「自我」は「真我」ではありません。
私たちは本来、「自我をも超えた者」なのです。
◎「自我」とは、「警察官(真我)」のふりをして、私たちから「真理」を盗み続ける「泥棒」のようなもの
このことを、20世紀の偉大な覚者であるラマナ・マハルシはこんな風に言っています。
「自我というのは警察官のふりをして泥棒を捕まえようとする泥棒のようなものである」と。
実際、「自我」はいつも「警察官(真我)」であるかのようなふりをしています。
そして、自分こそが「泥棒(自我)」を捕まえる「正義の味方」であるかのように振る舞います。
ですが、実際には「自我」こそが「泥棒」なのであり、私たちがそのことに気づかないと、「自我」は私たちから「真理」を盗み続けます。
そうして私たちは「自我」が「名誉や名声を求めろ」と言うと、その声に黙って従い続け、「孤独や苦しみを避けろ」と「自我」が言うと、私たちは即座にUターンして、孤独や苦しみから逃げ出すのです。
「自我」こそが私たちを支配しており、その支配を破壊しない限り、私たちは永遠に「自由」になることはできないでしょう。
「自我」が全てを支配しており、私たちは「自分という真理」を見失い続けているのです。
◎「自我」を客体化する「観照者」の目覚め
「瞑想的な日常生活」を実践する最大の目的は、このような「自我」との一体化を打破することです。
もしも「瞑想的な日常生活」を続けていくならば、「内側が静かな状態」に留まることも容易になっていくでしょう。
そういう時、思考は一切湧いておらず、「自我」も黙っているはずです。
実際、第二段階の「集中しない瞑想」の実践において、「何もしないこと」に十分慣れていれば、「自我」に仕事を与えないこともできるようになっているでしょう。
もしも「するべき仕事」が無ければ、「自我」は静かに黙っています。
そして、この「沈黙」が破られる瞬間、ある「大きな気づき」が起こるのです。
たとえば、家で何もせずにぼんやり過ごしていたとします。
内側には一片の思考もなく、「自我」は黙って静かにしています。
そんな中、突然「そうだ、そろそろ晩御飯の支度をしなくっちゃ」と「自我」が言い出したとします。
すると、「そうだ、そろそ…」と「自我」が言いかけたくらいの段階で、「なんとも奇妙な感覚」を当人は体験します。
それは、「自我」が対象として客体化されてしまう感覚です。
それまで、「自我」は常に「主体」でした。
たとえば、思考や感情や身体などの対象を、「自我」はあくまでも「主体」として客観的に観察し、「自分こそが観察者だ」と思っていたのです。
ですが、「沈黙」の中で「自我」が突然喋り出す時、ある段階で、「自我」の「主体性」に疑義が差しはさまれます。
なぜなら、そんな風に全てを観察しているはずの「自我」についてまで、「ただ観ている者」が存在していることに気づくからです。
「自我」は確かに思考や感情や身体を観察することはできますが、「自我」自体を観察することはできません。
それはちょうど、私たちが自分の肉眼で自分の顔を見られないのと同じです。
でも、「瞑想的な日常生活」を続けていると、ある瞬間に、「自分」で「自我」を観る体験をしてしまいます。
全てを観察する「主体」であったはずの「自我」が、対象として客体化されてしまうのです。
であるならば、「自我」は「本当の自分」ではないことになります。
それは、思考や感情や身体が「自分」でないのと同じことです。
対象として客体化できるのであれば、それは「自分」ではあり得ません。
なら、「自我」さえも対象として客体化する、この「観ている者」は何者なのでしょうか?
これこそが、古来より「意識」または「チット」と呼ばれてきたものです。
「意識」は全てをただ観ています。
「意識」は、「自我」のように考えたり判断を下したりすることはできませんが、そんな「自我」のことさえも対象として「観照」しています。
「自我」は自覚的に意志を持って対象を「観察」しますが、「意識」は一切意志を持たず、ただ全て照らす光源のように「観照」するのです。
このため、「自我」のことを「観察者」、「意識」のことを「観照者」と呼ぶこともあります。
一度整理してみましょう
- 自我(観察者)
思考や感情や身体を観察する者であり、意志を持って判断を下す主体 - 意識(観照者)
自我さえも対象として客体化する者であり、意志を持たず全てを照らす光源のような存在
よろしいですか?
先ほど書いた「『自我』を客体化してしまう体験」というのは、まさにこの「観照者(意識)」が「自我」に気づく体験です。
この体験を、私の師である山家直生さんは、「観照者の目覚め」と呼んでいました。
これは探求の道における大きなターニングポイントとなります。
なぜなら、「観照者の目覚め」を体験すると、「自我」による私たち自身の「束縛」が、徐々に解体されていくからです。
今回の記事は、最後にそのことについて説明して終わろうと思います。
◎終わりに|「観照者の目覚め」によって、「束縛」は破壊され始める
先ほども書きましたように、「『自我』は『自分』ではなかったのだ」ということに気づくと、私たちの「束縛」は徐々に解体されていきます。
たとえば、私たちが「社会的な成功」や「他者からの承認」を求めるのは、それによって「自我」が満たされるからです。
「自分の存在」を他者に認めてもらいたい。
もっとたくさんの人から評価されたい。
こういった想いから完全に自由な人は、ほとんどいないはずです。
それは、世の中のほとんどすべての人が、「自我」によって束縛されているからです。
人から認めてもらえると、「自我」は大いに喜びます。
そして、もしも「自我」と「自分」とを同一視してしまっていると、「自我」を喜ばせることが「自分」の幸せであるかのように当人には思えてしまいます。
だから、多くの人は他者から承認されるために必死になって努力し続け、何とかして「自我=自分」を満たそうとするのです。
ですが、もしも「自我」は「自分」ではないと悟ったら、どうなるでしょうか?
その時には、「自我を満たすこと」と「自分を満たすこと」が同じことではないという理解が、当人の中で起こることになります。
つまり、別に「自我」を満たしても、本当の意味で「自分」が満たされるわけではないと、当人にはわかってしまうのです。
そうしてその人は、「承認欲求」に衝き動かされ続ける「終わりのないレース」から、進んで降りるようになります。
なぜなら、他者から認められたところで、「自分」が幸せになるわけではないと、理解するようになるからです。
そのようにして、「自我」による支配は崩壊し、「束縛」は少しずつ破壊されていきます。
「幸せ」を終わりなく追求し、「理想」を握りしめながらどこまでも走り続けることを、その人は自分からやめることができるようになるのです。
そして、そのための「最初の一歩」が、先ほど書いた「観照者の目覚め」です。
つまり、「自我」を対象として観照する「何者か」の存在に気づく体験をすることです。
この体験をすることこそが、第三段階の「ゴール」となります。
「観照者の目覚め」を一度でも体験すれば、おそらく瞑想の実践は自然と次の段階に進むことになるでしょう。
それについては、また次回、詳しく話していくつもりです。
ということで、今回は瞑想の第三段階である「瞑想的な日常生活」についてでした。
この第三段階の実践においては、実践する人によってどんな生活を送っているかが異なるので、画一的な実践法を提示することができません。
だからこそ、第一段階と第二段階の実践で培った「無思考の味わい」を羅針盤として、自分の実践が正しく進んでいるかどうかを、本人が自分で常に検証していく必要があります。
そして、もしも「瞑想的な日常生活」を続けていくなら、どこかの段階で「観照者の目覚め」を体験するはずです。
そうしたら、瞑想の実践は最後の第四段階にシフトしていくことになるでしょう。
今回は、本質的な内容までかなり深く踏み込んで扱ったので、おそらくほとんどの人は、初めて読んだ段階では十分に理解できないのではないかと思います。
ですが、今理解できなくても、特に問題ありません。
むしろ、「わかったつもり」になってしまうほうがよほど危険です。
もしも今わからないのであれば、「そのうちわかるようになるだろう」というくらいに楽観的に考えて、日々の実践を続けていってほしいと思います。
次回は第四段階である、「『私は在る』に留まること」について書いていこうと思っています。
ただ、おそらく言葉にして書けることはそれほど多くありません。
ここから先は、「説明」というよりも、「報告」という形に近くなっていくかもしれないです。
つまり、「観照者の目覚め」を体験した後に、私に何が起こったのかということについての「報告」です。
ですが、そういった「個人的な報告」もまた、後からやってくる人の役に立つ可能性がゼロではありませんから、なんとかできるかぎり言語化してみようと思います。
では、また次回。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓