「第9回」と「第9.5回」の二つの記事を通して、私は瞑想の四段階における最初の段階、「集中する瞑想」の実践について説明しました。
【第9回】「瞑想」の第一段階《理論編》|なぜいったん「自我」を強化するのか?
【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想
この最初の段階においては、何らかの対象に自覚的に注意を「集中」することで、内側の思考を閉め出していきます。
その結果、どこかの段階で「全く思考のない状態」に当人は至ります。
この時の「思考が内側にない感覚」が、今後の実践を進めていく上で、非常に大切になるということでした。
でも、いったいどうして「思考が内側にない時の感覚」を知っていることが、そんなに大事なのでしょうか?
今回は第二段階である「集中しない瞑想」の実践方法について話す前に、まずこのことの説明から入っていこうと思います。
いわば、第二段階を始める前の「理論編」です。
なお、今回はいささか哲学的な話に踏み込んでいきます。
なので、実践が十分に進んでいない段階では、「何を言ってるのかよくわからない」という風に感じるかもしれません。
もし「難しすぎて理解できない」と感じる場合には、無理に今理解しようとせずに、また実践がもっと進んでから、改めて読み返してみてください。
よろしいですか?
では、始めていきましょう。
◎「サマーディ=三昧」とは「集中によって感じる幸福感」
まず話の最初に、今回の記事で中心となる概念について説明します。
それは「サマーディ」です。
「サマーディ」は、仏教だと「三昧(ざんまい)」と呼ばれています。
たとえば、私たちも「読書三昧」とか、「旅行三昧」とか言ったりしますよね?
読書に思いっきりのめり込んで、時間も忘れるくらい熱中することを、「読書三昧」と言うわけです。
このように、「三昧=サマーディ」というのは、「極度の集中状態」の中で感じられる「満たされた幸福感」のことです。
そして、「サマーディ」はもともと瞑想の世界の用語です。
瞑想において、どんな時に「サマーディ」が発生するかと言うと、たとえば「呼吸に集中する瞑想」を実践していて、当人の集中が非常に深くなった時などに、「サマーディ」が発生することがあります。
何らかの「瞑想技法」を集中的に実践したことのある人は、経験があるかもしれません。
呼吸や燃える炎、あるいは必死に唱えているマントラなど、何らかの対象や行為に向かって集中することを続けていると、実践者はどこかの段階で「サマーディ」に入っていくことがあります。
そこには「思考のない静けさ」と「穏やかな解放感」があります。
一度これを経験すると、だいたいの人はびっくりしてしまうのではないかと思います。
と言うのも、突然思考が無くなって、なぜか「心地よい感覚」がしてくるからです。
ですが、そのような状態は長くは続きません。
ほんの数秒だけのこともあるでしょうし、長くても数分かもしれません。
いずれにせよ、そのような「サマーディ」は突然現れては、急に消えていきます。
しかし、多くの場合、実践者本人はこの「心地よさ」に執着し始めます。
「またあの感覚を味わいたい!」と思うんですね。
そして、それ以降はこの欲求が当人の中で「雑念」となってしまいます。
たとえば、瞑想技法を実践をする際にも、「あの感覚よ、再び来い!」と望む気持ちがあまりに強くなりすぎて、前のようには純粋な気持ちで技法に集中できなくなったりするわけです。
そう言えば、私は前にどこかの記事で、「『楽しさよ、起これ!』と言って楽しくなることができる人はいない」と書いたことがありますが、このことは「サマーディ」についてもそのまま当てはまります。
「サマーディ」というのは、集中が深まったことの《結果として》、ある種の「副産物」のような形で発生してくるものです。
だから、「サマーディよ、起これ!」といくら念じてみたところで、それは発生しないわけです。
それが「サマーディ」のもどかしいところです。
◎「原因のあるサマーディ」と「原因のないサマーディ」について
ここまでの流れはいいですか?
「サマーディ=三昧」というのは、何らかの対象や行為への集中によって起こりますが、それを「起これ!」と言って、自分で作り出すことはできません。
「サマーディ」はあくまで、「集中することの副産物」であり、「ことの成り行き」として、結果的に発生するものなのです。
ここまでのことがひとまず理解してもらえたと仮定して、もう一歩踏み込んだ説明をしていきます。
実は、探求の道においては、「サマーディ」というのは二つあります。
それは、「サヴィカルパ・サマーディ」と「ニルヴィカルパ・サマーディ」の二つです。
これは不二一元論というインド哲学の学派が提唱している概念になります。
「不二(ふに)」というのは、その名の通り「二つではない」という意味です。
ただ単に「一元論」と言うだけでは足りず、「二つではなくて一つである」と重ねて強調するように、「不二一元論」と言うわけです。
何が「一つ」なのかと言うと、「本当の自分」です。
「自分」というのは身体とか人格とかにバラバラに分かれているわけではなく、そもそも「一つ」であるということです(このことについては、たぶん今の段階で理解することは難しいので、サラッと流しておいてください)。
そして、この「不二一元論」では、「サマーディ」を二つに分けて説明しています。
それが、先ほども挙げた「サヴィカルパ・サマーディ」と「ニルヴィカルパ・サマーディ」です。
「ヴィカルパ」というのは、「不二一元論」では「区別」とか「分別」を意味します。
そして、「サ」という接頭語は「有る」を意味し、「ニル」という接頭語は「無い」を意味します。
つまり、「サヴィカルパ・サマーディ」というのは、「区別が存在するサマーディ」のことであり、それに対して、「ニルヴィカルパ・サマーディ」というのは「区別の存在しないサマーディ」であるということになります。
はい、早くも専門用語の連発です。
ですが、この概念は本当に大事ですから、ひとまず「なんとなくの感じ」だけでも良いので憶えておいてください。
なお、「サヴィカルパ・サマーディ」がなぜ「区別の存在するサマーディ」と言われるのかというと、この「サマーディ」が集中する対象を持っているからです。
たとえば、呼吸に集中することによって「サマーディ」を感じた場合、それは「サヴィカルパ・サマーディ」です。
なぜなら、「呼吸」という対象と「呼吸に集中する自分」という両者の間に、区別が存在しているからです。
そういう意味では、「サヴィカルパ・サマーディ」は「集中する対象を持つサマーディ」とも表現できます。
私がこの記事の最初のほうで説明していた「サマーディ=三昧」は、この「サヴィカルパ・サマーディ」のことだったわけです。
では反対に、「ニルヴィカルパ・サマーディ」とは、いったいどんなものでしょうか?
それは、「瞑想対象を持たないサマーディ」です。
言ってみれば、「何かに集中する」ということをしていないにもかかわらず、なぜか生じる「サマーディ」とも表現できます。
しかし、私がこう書くと、「そんなことあり得るの?」と疑問に思う人もいるかもしれません。
確かにこのことは、自分で実際に体験しない限り、不可能なことのように思えます。
というのも、私たちには「原因の存在しない事象」というものが、そもそもよく理解できないからです。
◎二つの「サマーディ」について定義の確認
ここでいったん、二つのサマーディについて整理しておきましょう。
- サヴィカルパ・サマーディ
原因のあるサマーディ(集中する瞑想の中で感じる幸福感) - ニルヴィカルパ・サマーディ
原因のないサマーディ(ただ在ることの中で感じる幸福感)
どうでしょう?
いくらか頭の中は整理できましたか?
では、次の話に入っていきます。
◎「原因のない喜び」について
「この世に『原因のない事象』は存在しない」
これは、私たちが産まれてから生きてきた過程で、骨の髄まで染み込ませてきた考え方です。
実際、私たちは「因果関係のない事象」を知りません。
たとえば、「楽しさを感じる」という結果が生じるのは、「好きなゲームで遊ぶ」とかいった何らかの原因があって初めて成り立つものです。
何の原因もないのに、つまりは「何もしていない」のに、なぜか「楽しさ」が湧いてくるというようなことは、私たちには理解できません。
ですが、「原因のない喜び」というものが、実際にはこの世には存在します。
私が過去に書いた記事を読んでいる人は、ひょっとしたら思い当たるかもしれません。
そう、全ての感情が取り払われた時に私たちに生じる、「純粋な喜び」がそれです。
実のところ、「純粋な喜び」というのは、「ニルヴィカルパ・サマーディ(原因のないサマーディ)」の中で当人が感じることになる「幸福感」のことです。
それは「感情の不在」という「空(くう)」の中で、突然内側に湧き出してきます。
そこには何の原因もなく、いかなる理由もありません。
だからこそ私は、「私たちの存在はまさに『喜び』そのものだ」と言うのです。
◎人が「自由」になるために「ニルヴィカルパ・サマーディ」が必要な理由
では、瞑想の実践において「ニルヴィカルパ・サマーディ」はどのような位置づけになるのでしょうか?
私の言う「瞑想の四つの段階」おいては、まず第一段階の「集中する瞑想」で、「サヴィカルパ・サマーディ」の基礎を築きます。
たぶん実際に実践を続けた人は、思考が静まってきた時に「なんとなく心地よい感じ」がするのに気づくのではないかと思います。
それが、「第9.5回」の記事で私が書いた「無思考の味わい」のことです。
【第9.5回】「瞑想」の第一段階《実践編》|「無思考の味わい」を知るための呼吸瞑想
これは一種の「サヴィカルパ・サマーディ(集中対象を持つサマーディ)」であり、この感覚を体感することによって、当人は「サマーディの味」がなんとなくわかるようになっていきます。
つまり、「思考がない状態って、なんとなく気持ちいいものなんだな」という理解が当人の中に生まれるのです。
そうしたら、その次は「ニルヴィカルパ・サマーディ(集中する対象のないサマーディ)」へと進んでいきます。
それはつまり、私の言う瞑想の第二段階、「集中しない瞑想」の実践です。
そもそも、第一段階のような「集中する瞑想」を続ける限り、「ニルヴィカルパ・サマーディ」には至れません。
というのも、「集中する対象」という「原因」が存在している限り、それはどうしても「サヴィカルパ・サマーディ(原因のあるサマーディ)」になってしまうからです。
そして、何らかの「原因」を追いかけ続ける限り、私たちは「自由」になることができません。
なぜなら、「サマーディの心地よさ」を追い求めるなら、当人は「サマーディを感じられそうな行為」をどこまでも追いかけ続けることになってしまうからです。
「集中する瞑想」の実践をやめられなくなるのは、こういった人です。
彼らは何年も何年も実践を続けていることが多いですが、「ニルヴィカルパ・サマーディ(原因のないサマーディ)」は理解することができません。
そして、「またあの心地よさを味わいたい」という執着に囚われて、自分で自分を束縛してしまいます。
つまり彼らは、「集中する瞑想」の実践にいつまでも執着し続け、「サマーディよ、起これ!」と必死で念じ続けるのです。
そもそも、私たちの「束縛」が破壊されるのは、「原因」が消滅して初めてです。
たとえば、「もっと人からカッコよく見られたい」と思っている男の子は、そう思っている限り、自分で自分を束縛します。
でも、当人にはそのその考えを捨てられません。
なぜなら、「人から『カッコイイ!』と言われることの心地よさ」を求めることがやめられないからです。
どうしたら彼が「自由」になれるかというと、「他人からカッコよく見られたい」という「原因」を取り除くことによってです。
実際、彼は年を取って大人になる過程で、「他人からカッコよく見られたい」とは、あまり思わなくなっていくかもしれません。
その場合、彼は自然と「自由」になります。
人目をさして気にしなくなり、「束縛」が破壊されるのです。
「ニルヴィカルパ・サマーディ(原因のないサマーディ)」というのは、このような私たち自身の「束縛」を破壊する力を持っています。
なぜなら、もしも「ニルヴィカルパ・サマーディ」を体験すると、「幸福感を得るために何の条件も必要ではない」ということが、当人には自覚されてしまうからです。
それさえ理解することができたなら、「幸せ」になるために「偉大な何か」を成し遂げる必要もなければ、「特別な何者か」になる必要もないということが、当人には自然と理解されるようになります。
だからこそ、瞑想の実践によって「自由」を実現するために、「ニルヴィカルパ・サマーディ」を体験する必要があるわけです。
◎自分を満たすことができない限り「幸福を追求するレース」からは降りられない
一度、このような「原因のない喜び」を知ってしまうと、当人は物の考え方が根本的に変わります。
なぜなら、別に「楽しさ」や「高揚感」を追い求めて走り回らなくても、「幸せ」は既にここに在ると理解できるからです。
そして、そのことが理解できた時、世の中の多くの人たちがやっているような「幸福の追求」を、当人は自分から進んでやめることができます。
実際、「幸福の追求」には終わりがありません。
たとえば、インフルエンサーは最初の頃こそフォロワーが数千人で満足できていたのに、そのうち数万人いても満足できなくなっていきます。
また、年収300万円で満足していた人も、そのうち現状に満足できなくなって、「輝かしい成功」を求め始めるかもしれません。
そうして、もしも社会的に成功しても、ほとんどの場合、当人は「もっともっと」と求め続けることになるのです。
このような「終わりのない幸福追求」から進んで降りられるようになるためには、「ニルヴィカルパ・サマーディ(原因のない幸福感)」を体験することが必須です。
なぜなら、「幸福感」を現に感じていないのに、「幸福の追求」から降りるのは、結局のところ「自己欺瞞」だからです。
実際、「ニルヴィカルパ・サマーディ」を体験していないなら、当人はまだ本当の意味では満たされていません。
そして、心の深いところでは、「自分はまだ満たされていない」と当人は自分で知っています。
それにもかかわらず、「自分を満たすために幸福を追い求めるのはもうやめよう」と言ってみたところ、当人がそれで満たされるかというと、そんなことはありません。
むしろ、「満たされなさ」を埋められないまま「幸福を追求するレース」から自分だけ降りたことで、当人はかえって惨めさを感じる可能性もあります。
そして、そういった人は、この社会を呪い、「もうこれ以上捨てるものは無い」と感じ始めるかもしれません。
俗に言う「無敵の人」がこれに当たります。
「自分は『幸福の追求』というレースの『敗者』となった。もはや失うものは何も無い。こうなったら、最後に『勝者』のやつらを道連れにしてやる!」
彼らはそんな風に考えて、無差別に人を傷つけるのです。
「幸福の追求」を続けても人は満たされず、かといって、「幸福の追求」から逃げ出しても、やっぱり人は満たされません。
大事なことは、まず「自分自身」をしっかり満たしてあげることです。
そのためにも、「原因のないサマーディ(至福)」を我が身で体験することが必要なのです。
◎「ニルヴィカルパ・サマーディ」は、時間をかけて徐々に定着する
実のところ、これから説明していこうと思っている、瞑想の第二段階~第四段階というものは、全て「ニルヴィカルパ・サマーディ(原因のないサマーディ)」を自身の内に徐々に定着させていくためのプロセスです。
というのも、「ニルヴィカルパ・サマーディ」は非常に深い体験なので、一気に定着させるということができません。
それは、段階を踏んでちょっとずつ身に馴染ませていく必要があります。
そして、そのための最初のステップが、第二段階である「集中しない瞑想」なのです。
ここまでの解説で、今後の瞑想の進め方について、理論的な背景がわかっていただけたのではないかと思います。
ということで、今回は「理論編」でした。
次回はいよいよ「集中しない瞑想」の「実践編」に入ります。
とはいえ、いきなりめちゃくちゃ難しいことをやってもらおうとは思っていません。
第一段階の「ゴール」である「1分間、一切思考しないでいられること」が達成できていれば、問題なく次の段階へシフトしてもらえる内容のではないかと思っています。
では、また次回。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓