前回と前々回とで、私は瞑想の実践における第二段階について説明しました。
【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意味について
【第10.5回】「瞑想」の第二段階《実践編》|「無意識の力」を伸ばす「集中しない瞑想」
最終的に、自身を縛っている「執着」を破壊し、「自由」を実現するためには、「原因のないサマーディ」を内側に定着させる必要があります。
そして、そのための第一歩が、瞑想の第二段階における「集中しない瞑想」の実践である、という話でした。
ですが、おそらく実際に「集中しない瞑想」を実践し始めると、多くの人が「ある問題」に直面するのではないかと思います。
それは「退屈」を強く感じ始めることです。
そもそも、「集中しない瞑想」を実践する時は、特に何かに集中するということもせず、当人はただ目をつぶって坐り続けます。
当然ながら、そうやって何もしないでいると、「退屈」を感じてしまいやすいです。
そういった時、いったいどのように考えたらいいのか?
そもそも、「退屈」の正体とは何なのか?
今回はそういったことを書いていきたいと思います。
ちなみに今回の話は、連載の第三部である「瞑想の実践」の流れの中で話すことにはなりましたが、実のところ、第二部で語った「苦しみの受容」とも深い関係を持っています。
そういう意味で、「退屈」というのは、私が提唱している方法論の中でも、かなり重要なトピックとなります。
なので、今回は連載の流れをあえていったん中断させて、「特別記事」という形で投稿します。
「瞑想」や「苦しみの受容」を実践しようとされる方は、ぜひこの記事を最後まで読んで、ポイントをおさえておいてください。
では、行ってみましょう。
◎「何もしないこと」ができない現代人
あなたは日常の中のどんな瞬間に、「退屈」を感じますか?
たとえば、ちょっとした待ち時間などに、何もすることがないと「退屈」を感じるかもしれません。
ですが、現代人の多くは、そういった時にすぐ、スマホをいじって「退屈」を誤魔化してしまうのではないかと思います。
私は以前、近所にあるラーメン屋に週に一回ラーメンを食べていっていた時期があるのですが、そこにやってくるお客さんは、注文してからラーメンが出てくるまでの間、みんなスマホをいじっていました。
私は興味深かったので、いったいどれくらいの割合の人がスマホをいじっているのかを、調べてみたことがあります。
ラーメン屋に行く度に、相手からバレない程度に他のお客さんのことを観察して、何人中何人がスマホをいじっているかを調べたのです。
すると、だいたい85~90%くらいのお客さんが、スマホをいじっていることがわかりました。
時には、私以外のお客さんの全員がスマホをいじっていることもありました。
しかし、そんな風にまるで示し合わせたかのようにスマホをいじっている割には、別にスマホを見る緊急性が高いようにも感じられませんでした。
なぜなら、彼らは席に着くとすぐにスマホを取り出しはするものの、ラーメンがやってくるとスマホをサッとしまって、食べることに集中し始めていたからです。
つまり、「今どうしてもスマホで確認しないといけないことがあった」というわけではなくて、「とりあえず『待っている時間』をやり過ごしたいだけ」だったと考えるのが妥当でしょう。
こういったことは、電車に乗る時などに周りを見回しても感じるかもしれません。
特に都会の電車の乗客は、そのほとんどが乗車中にスマホをいじっているのではないかと思います。
このように、多くの人たちは「ただ待っているだけの時間」に耐えることができません。
別にスマホを使ってネットサーフィンをしたり、動画を観たりすることに緊急性があるわけではないのに、ほとんどの人はスマホを見ることをやめることができないのです。
なぜかと言うと、彼らが巧妙に「退屈」を避けようとしているからです。
ほんのわずかな時間であっても、多くの人は「何もしないで待つ」ということができません。
なぜなら、そうして何もしないでいると、「退屈」がやってくることがわかっているからです。
◎「飽きた物事」にしがみつくか、「退屈」の中に留まるか
このように、現代人の多くは、「退屈」をなんとかして避けようとしています。
しかも、そのうちのかなりの人は、自分が「退屈」を避けようとしていることを、自覚してさえいません。
つまり、無自覚に「退屈」から逃げ続けているのです。
たとえば、週末になるとどこの行楽地も人でいっぱいになるのは、ひとえにこのためでもあります。
多くの人は、仕事のない休日を、家で何もしないで過ごすことができません。
それで、「仕方がないから、どこかに出かけるか」と言って、レジャースポットに出かけていきます。
でも、そのように考えるのは彼/彼女だけではありません。
むしろ、同じように「退屈だしどこか楽しいところにでも行くか」と思って出かけてきた、たくさんの人たちによって、有名なレジャースポットはごった返すことになります。
当人は、「なんでこんなに人が多いんだ!」と気分を悪くするわけですが、だからといって、「家で何もしないでいればよかった」とも思いません。
というのも、何もしないで「退屈」するくらいだったら、人でごった返したレジャースポットでもみくちゃにされるほうが、当人にとっては「まだマシ」だからです。
もちろん、コロナが流行して以降、休日を家の中で過ごす人も増えました。
ですが、それでも問題の本質はそれほど変わっていません。
たとえば、休日に家でずっとネットフリックスやアマゾンプライムなどで映画を観て時間を潰していると、最初のうちは当人も「退屈」を感じなくて済みます。
ですが、ずーっと映画を観続けていると、どこかの段階で当人は映画を観ることに飽きてしまいます。
それは、ネット上で提供されている全ての作品を観終わってしまったからではありません。
まだまだ観ていない作品がたくさん残っているにもかかわらず、当人は「なんだかもう飽きちゃったな」と感じ始めてしまうのです。
それでも、何もしないでいると「退屈」なので、仕方なしに新しい映画を観ようとします。
当人はもう映画を特に面白いとも感じていないのですが、「退屈」から逃れるためには、何かをし続けるしかありません。
そんな風に飽き飽きしていることを続けるのは、当人にとって苦痛でさえあるはずなのに、それにもかかわらず、映画を観ることをやめられないのです。
なぜなら、映画を観ることをやめた後に、当人は代わりにすることを思いつかないからです。
あなたにも経験がありませんか?
どんなに「楽しいこと」であっても、続けていれば人は飽きます。
そして、既に飽きてしまったことを続けることは、苦痛以外の何物でもありません。
しかし、それにもかかわらず、人はその「飽き飽きしている物事」にしがみつきます。
なぜなら、そうすることによって「退屈」から目を逸らせるのではないかと期待するからです。
つまり、どっちにしても八方塞がりなのです。
「飽きている物事」を続けて苦痛を味わうか、それとも「退屈」の中に留まるか。
ほとんどの人は「どっちも嫌だ!」と感じるでしょうけれど、他に選択肢はないのです。
◎「自我」が「退屈」を生み出すメカニズム
なぜ人がこんなにも必死になって「退屈」を避けようとするかというと、「退屈」というものが当人には死ぬほど恐ろしく感じられるからです。
実際、古来から「退屈」はしばしば「死」と関連付けられてきました。
たとえば、よく知られた言葉に「退屈は神をも殺す」というものがあるくらいです。
そして、私たちが「退屈」と直面する時、私たちは本当に「自分は死んでしまうのではないか?」という恐怖を感じることがあります。
「退屈」からどうしても逃れることができなくなってしまった経験のある人は、この恐怖を知っているのではないかと思います。
でも、なぜ「退屈」すると、人は「死ぬような心地」がするのでしょうか?
それは、「退屈」の中では、「自我(エゴ)」が存続できないからです。
そもそも、これまでの記事でも繰り返し指摘してきましたように、私たちのほとんどは、「自我」と「自分」を同一視しています(なお、ここで言う「自分」というのは、全てを観ているだけの「意識」のことです)。
だから私たちは、「自我」がもっと喜ぶように人から褒められることを求めたり、「自我」が傷つかないように人から否定されることを避けようとしたりします。
この「自我」と「自分」との同一化は非常に根が深いので、「自我」において起こっていることが、そのまま「自分」にも起こっているかのように私たちは錯覚しています。
「自我」が褒められて喜べば、「自分」まで嬉しいかのような気がしてきて、逆に、「自我」が否定されて傷つくと、「自分」まで否定された気がしてツラくなります。
そして、だからこそ、「退屈」の中でほとんどの人は「死の恐怖」に直面することになるのです。
なぜなら、「退屈」というのは「自我」にとっての「死」だからです。
つまり、「自我」が「退屈」の中で死にそうになった時、私たちは「自我」と一緒に「自分」まで死ぬかのように感じないではいられないのです。
実際、「退屈」の中で「自我」にできることは何もありません。
「自我」は「何かをすること」は大得意ですが、「何もしないこと」の中では無力です。
そして、もしも私たちが「何もしないこと」の中に留まると、「自我」は抵抗を始めます。
「このままじゃ死んでしまいそうだ!助けてくれ!今すぐ何かをさせてくれ!」
「自我」はそのように私たちに訴え始めます。
そして、この「自我」が死ぬことに抵抗する時に放出するエネルギーのことを、私たちは主観的に「退屈」という形で感じ取ることになります。
つまり、「退屈」という感情を生み出すことは、「自我」にとって「最後の自己防衛策」なのです。
「自我」は私たちに「退屈」を感じさせることによって、何らかの行為へと私たちを駆り立てます。
実際、「退屈」の中にいるとき、当人は「何でもいいから何かしたい衝動」に駆られるものです。
これは、「自我」が自身を延命させるために、「さっさと何もしないことの中から抜け出せ!」と言って、私たちをせっついている状態です。
そして、もしもこの声に従うと、「自我」は一命をとりとめます。
その時、「自我の作戦」は成功したのです。
その結果、「自我」はあいかわらず私たち自身に対して、強い力を持ち続けます。
「自我」は私たちのことを、本当によくわかっています。
「自我」は、名声や栄光をちらつかせれば私たちがそれを求めて走り続けることを知っており、孤独や苦悩をちらつかせれば私たちがすぐにUターンして逃げ出すことを知っています。
この「自我」による支配は非常に強固なものです。
「自我」いつも飴と鞭で私たちをコントロールしています。
「あっちに行ってこれをしなさい」
「そっちはまずいから引き返しなさい」
そんな風に、「自我」は私たちの行動に絶えず干渉してきます。
そして、「何もしないこと」の中に留まる時も、「自我」は同じように私たちに命令してきます。
「やめろ!それ以上進むな!それ以上何もしないでいたら、オレはそのまま死んでしまう!」
「自我」はそう言って、「退屈」という何とも言えない不快な感情を、私たちに向かって放射するのです。
これが「自我」が「退屈」を生み出すメカニズムです。
◎「退屈」と逃げずに向き合うことで、人は「自我」から解放される
ですが、もしも「自我」の言い分を聞かずに、そのまま「退屈」に留まり続けるならば、人はあることを経験します。
それは、「退屈に飽きる」という現象です。
過去に書いた記事の中で私は、「どんな苦しみもずっと味わっていれば飽きてしまう」と書いたことがあります。
私たちは「苦しみ」を前にすると、何とかしてそれを避けようとするものですが、実のところ、もしも「苦しみ」を味わい続けると、私たちはその「苦しみ」に飽きてしまいます。
なぜなら、ひたすら「苦しみ」を味わって観察し続けることによって、その「苦しみ」のパターンが理解できるようになるからです。
一度理解できるようになった「苦しみ」は、もうそれ以上苦しむことができません。
それはちょうど、既に観飽きた映画をもう一度楽しむことができないのと同じことです。
つまり、「苦しみ」に飽きることを通じて私たちは、その「苦しみ」を消失させることができるわけです。
そして、もしも同じことが「退屈」についても言えると言ったら、あなたは信じますか?
これは、実際に試してみる価値のあることだと私は思います。
かく言う私自身は、このような考え方に初めて触れた時、正直言って半信半疑でした。
実際、「退屈に飽きるなんて、そんなこと本当に起こるんだろうか?」と内心では思っていたくらいです。
でも、昔から私は、「気になったこと」については自分できちんと確かめてみないと気が済まない質だったため、自分でそれを試してみました。
つまり、「退屈」が襲ってきた時に、あえてそのまま「何もしないこと」の中に留まり続けてみたのです。
実は、私が瞑想の第二段階で提示した「集中しない瞑想」の説明には、その時の私自身の体験が活かされています。
つまり、私の言う「集中しない瞑想」というのは、自覚的に「退屈」を味わうことだということです。
ただ黙ったまま坐って目を閉じて、呼吸に集中することさえをもやめた時、「集中しない瞑想」の態勢は整います。
そして、このような「無為」に身を置くと、遅かれ早かれ「退屈」が私たちに忍び寄ってきます。
そのような時に、あえて「退屈」を味わうことは、「普通の感覚」に逆行しているように感じられるかもしれません。
そういう意味で、「あえて退屈の中に留まること」は、最初のうちは「とても不自然なこと」のように当人には感じられるものです。
ですが、もしもそのまま「退屈」の中に留まるならば、やがて「退屈」は小さくしぼんでいき、最後には消滅してしまいます。
つまり、「退屈」に飽きてしまうわけです。
その時、おそらく当人は胸のあたりに「穏やかな解放感」を感じているはずです。
いったい何から解放されたのかと言うと、「自我」による支配から解放されたのです。
もしも私たちが「退屈」の中に留まり続けると、「自我」は少しずつ「抵抗しても無駄だ」ということを理解し始めます。
そして、「退屈」という感情を生み出すことで私たちを追い返すことを諦めて、「自我自身の死」を受け入れ始めるのです。
このため、「退屈」の中で「自我」の働きは徐々に弱まっていきます。
結果として、私たちの内側には静寂が訪れ、「絶えず何かを達成し続けなければ!」という欲求が沈静化してきます。
つまり当人は、「別にこれ以上何もする必要はない」という落ち着いた感覚の中で、深くリラックスできるようになるのです。
ちなみにこの感覚は、前回と前々回の記事で私が説明した「原因のないサマーディ」を意味します。
【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意味について
【第10.5回】「瞑想」の第二段階《実践編》|「無意識の力」を伸ばす「集中しない瞑想」
上記の記事を読んだ時、人によっては、「集中しない瞑想」を実践することでどうして「原因のないサマーディ」が起こるのか、不思議に思ったかもしれません。
なぜ「集中しない瞑想」によって「原因のないサマーディ」が起こるのかと言うと、実のところ、「退屈」の中で「自我」による束縛が徐々に弱まっていくからです。
そういう意味では、「全く何の原因もない」と言うわけでもないかもしれません。
なぜなら、「退屈に飽きる」ということが引き金となって、「解放感(サマーディ)」が生じているからです。
ですが、瞑想の第二段階~第四段階にかけて実践を続けていくと、徐々に「解放感(サマーディ)」が持続するようになってきます。
言い換えれば、いちいち「退屈」と向き合ったりしなくても、日常的に「サマーディ」の中に留まることができるようになっていきます。
つまり、本当に何の原因もなく、「サマーディ」が生じるようになっていくわけです。
ですが、最初からそれは無理なので、まずは「退屈」と直面するところから始めなければなりません。
そのための一種の「方便」が、私が瞑想の第二段階として提示した「集中しない瞑想」の実践なのです。
◎終わりに
ということで、今回は「退屈」をメインテーマに据えて記事を書いてみました。
「退屈」というのはとても不思議な現象で、その仕組みを理解することは、技法を実践する上でも非常に役に立ちます。
いずれにせよ、もしも「集中しない瞑想」を実践する中で「退屈」を感じることがあったとしても、「これってやり方が間違っているのかな?」と考える必要はありません。
むしろ、「正しい実践」ができているからこそ、「退屈」は表に現れてきたのです。
ですから、ちょっとツライことではありますが、もしも「退屈」を感じたら、それを何らかの行為で誤魔化したりせず、深く味わってみてください。
たとえば、「15分間」とか「30分だけ」とか時間をあえて限定し、その間だけは覚悟を決めて「退屈」と面と向かうのです。
すると、他のあまたの感情と同じように、「退屈」もまた永遠には続かないということが、はっきり理解できるようになるのではないかと思います。
というあたりで、今回の話はおしまいです。
「退屈」という感情は、「瞑想の実践」だけでなく、連載の第二部で解説した「苦しみの受容」とも、深く関連してくる大事なトピックです。
特に意識していないと、私たちは無自覚に「退屈」から逃げ出そうとしてしまうものですが、一度腹を決めて向き合ってみると、「意外な真実」が明らかになったりすることもあります。
ぜひ、今回の記事の内容を、今後の実践に役立ててほしいと思います。
なお、次回は、瞑想の第三段階である「瞑想的な日常生活」について説明したいと思っています。
全四段階中の三つ目に入るということで、ある意味これで折り返しです。
各自のペースで構いませんので、少しずつ実践を進めていきましょう。
では、また次回。
⇓⇓次回の記事です⇓⇓