「自分の恐れ」を恐れない|「確認できること」と「確認できないこと」を区別する瞑想的観察法

今回は、瞑想について、どちらかというと「テクニカルな事柄」を書いていきたいと思っています。

つまり、瞑想の実践をする上で、知っていると役に立つ「テクニック」をご紹介するつもりです。

といっても、それは「どうやって瞑想の対象に集中するか」といった話ではありません。

強いて言えば、「自分の思考や感情を片付けるための整理術」のようなものです。

そもそも、瞑想の実践において実践者は、自分の中で湧き上がってくる思考や感情をひたすら観察していくことになります。

ただ、初心者の中には、「観察する」というのがどういうことなのか、うまく理解できていない人もいると思います。

そういった人は、「思考や感情を観察している」つもりでいながら、それらに飲み込まれてしまっていることも多いのではないでしょうか?

つまり、「観察者」「観察対象(思考や感情)」がごちゃ混ぜになってしまっているわけです。

ということで今回の記事では、「思考や感情を観察する」ということが、そもそもどういうことなのかを解説するとともに、観察を適切におこなっていくための、一つの「考え方」をご紹介いたします。

主な対象となるのは、瞑想を始めて間もない人ですが、中級者にとっても、読んでみれば「目から鱗」の発見があるかもしれません。

いずれにせよ、瞑想の実践で「思考や感情の観察がうまくできない!」と悩んでいる人は、ぜひ参考にしてみてください。

ただし、今回の記事は説明を丁寧にした結果、一万文字を超える長文になってしまいました。

読まれる方は、時間と集中力を十分に確保してからお読みください。

では、始めましょう。

◎「他人の内側で起こっていること」は、誰にも確かめることができない

まず、瞑想の実践で「観察」をおこなうための、とても大事な「区別の仕方」をお教えします。

それは、自分の中の思考や感情について、それらを「確かめられること」「確かめられないこと」の二つに分けるということです。

そもそも、私たちには他人の頭の中を覗き込むことができません。

他人が何を考え、何を感じているかについては、どれだけ頭をひねってみても、完全には理解できないのです。

もちろん、他人の言動を予測するのがうまい人は現実に存在します。

そういう人は、他人の中にある思考や感情、願望や欲求などについて推測するのが得意です。

だからこそ、他人が次に取る言動を、それなりの確度で予測することができるわけです。

しかし、そういう人であっても、百発百中で他人のことを予測できるわけではありません。

それらはあくまでも「予測」であって、他人の頭の中がマルッとお見通しなわけではないのです。

そういう意味で、「他人の思考や感情」というのは、「確認できないこと」と言えます。

もちろん、「推測」ならできます。

「きっとこの人は内側でこんなことを考えているんだろうな」と考えることは可能ですし、そもそもそれをしなければ、他人とのコミュニケーションは円滑に進まなくなってしまうでしょう。

もしも相手の気持ちを一から十まで毎回聞いていたら、話がいつまで経っても進みません。

ただ、忘れてはならないことは、そうやってたとえ相手に「今何考えてるの?」と質問し、「自分は今こういうことを考えているんだ」と聞かされたとしても、本当に相手がその通りに考えているかどうかは、確認できないということです。

なぜなら、相手はあくまで「他人」であって、「自分」ではないからです。

「え、でも、相手が自分でそう言っているんだから、それは信じてもいいんじゃないの?」と思うでしょうけれど、他人の頭を直にのぞき込むことができない以上、それは「推測」の域を出ないのです。

では、それとは反対に、「確かめられること」というのは、いったい何でしょうか?

それは、「自分の内側に現に存在している思考や感情」のことです。

以下、説明していきます。

◎「自分の内側で起こっていること」なら、人は誰でも確かめられる

たとえば、瞑想を実践していて、「あー、お腹が空いたな」という風に思った場合を考えてみましょう。

この場合、「今、自分の中に『あー、お腹が空いたな』という思考が在る」というのは、「確実なこと」です。

本当に空腹なのかどうかはわかりませんが、「自分は空腹だ」と考えていることだけは、「絶対確実」なのです。

実際、その空腹感は、「本物」ではないかもしれません。

たとえば、たまたま当人の目に入った時計が12時を指していたことで、「お、そろそろ昼飯の時間だな」と思って空腹を感じただけなのかもしれません。

実のところ、私たちの空腹感は、本当に身体が求めている時に感じるものばかりではなく、単なる習慣から感じている場合が多いものです。

このことは、試しに休みの日に時計を見ないで一日過ごしてみるとよくわかります。

「いつもお昼ご飯を食べている時間」に今なっているのかどうかがわからなくなると、人は往々にして空腹感を感じなくなります。

特に、遊びや趣味に没頭していたりすると、いつの間にか日が暮れていて、お昼ご飯を食べていなかったことに気づく場合もあります。

時間を忘れて過ごしていると、空腹感を感じなくなってしまうわけです。

つまり、「身体の欲求」が本当は存在していないのに、「自分は空腹だ」と頭で考えてしまうことは、私たちの日常において実は「よくあること」なわけです。

ただ、そんな風にあまり当てにならない「空腹感」ですが、それでも、「お腹が空いた」と考えたことは「事実」です。

つまり、「本当に空腹であるかどうか」についてはまだ「確認の余地」がありますが、「『お腹が空いた』と考えたこと」については、「動かしがたい事実」なのです。

なぜならそれは、他でもない「自分自身の考え」だからです。

あるいはこれを、「自分は今、お腹が空いているように感じている」という風に捉えるなら、単に「思考」であるだけでなく「自分の感覚」でもあります。

もし仮にその空腹感が時計の針を見たことで引き起こされた「偽物」であったとしても、現に自分でそれをリアルに感じているのであれば、「感じている」ということは「事実」なわけです。

もちろん、身体が本当に「空腹」かどうかはわかりません。

しかし、「自分は空腹だ」と考えたり感じたりしていることは、「動かしがたい事実」です。

この区別をしっかり付けられるようになってください。

そして、「確かめられないこと」については、「これは本当かどうか確実にはわからない」という自覚を保ち、「確かめられること」については、「こういった思考や感情や感覚が内側に確かに存在している」という風に自覚的に認識していきます。

これが、瞑想の実践をする際に、とても重要な「区別」になります。

◎自分を安心させようとして夜中に始まる「自我の一人相撲」

ただ、「空腹」というのは自分の身体で起こる現象なので、区別するのが少し難しいかもしれません。

なので、もっとわかりやすい例でもう一度説明してみましょう。

それは人間関係においてしばしば起こるものです。

たとえば、職場の同僚であるAさんが、どうも陰であなたの悪口を言っているらしいという噂を、あなたは聞きつけました。

それまでAさんは、あなたに対して別に嫌な顔一つしたことはなく、悪感情を持っているようにも見えませんでした。

でも、だからと言って、特別仲が良かったわけでもありません。

ひょっとしたら、裏では嫌われていた可能性もあるわけです。

こうなると、もちろんあなたは良い気分がしないでしょう。

しかし、Aさんを直接問いただすのもなんとなく気が引けて、実行に移せずにいます。

こういう場合、「噂は本当だろうか?」と思って、あなたは「調査」を開始するかもしれません。

たとえば、Aさん以外の他の同僚に話を聞いてみたり、Aさんの自分に対する言動をチェックしたりすることによって、「本当のところ」を知ろうとするわけです。

その際、あなたの頭の中では様々な思考が巻き起こります。

「Aさんは本当に自分のことが嫌いなのか?」
「何か嫌われるようなことしただろうか?」
「いやいや、あの人にだって悪いところはあるんじゃないか?」
「というか、ひょっとして自分はこの職場の他の人からも嫌われていたりしないだろうな…」

こんな具合でいろんな思考が次々に湧いてきて、人によっては不安になってくるかもしれません。

しかし、どうしてそんな風に不安になるかというと、そもそも「真実」を確かめることができないからです。

「Aさんが自分を嫌っているのかどうかわからない」
「もっと言えば、他の人から嫌われているかどうかもわからない」

しょせんは他人の頭の中のことなので、あなたにはこれらの「真偽」を確かめることができません。

仮にAさんに直接「ひょっとして裏で自分のことを悪く言っていない?」と聞いてみて、「いやだなー、そんなことあるわけないじゃないですか」と言ってもらえたとしても、それが本心である保証はないのです。

さらに、仮にAさんが悪口を言っていなかったとしても、他の同僚が陰で悪口を言っている可能性は残り続けます。

それらを全て確かめることは、そもそもできっこないのです。

しかし、それにもかかわらず、私たちはこういった「確認できないこと」について考え続ける傾向があります。

それは、「確実だ」と思える状態にならないと、「自我」が安心しないからです。

「自我」は「絶対確実なこと」を求めます。

自分の安全がしっかり確保できていないと、「自我」は不安で仕方ありません。

「ひょっとして自分は、大切な何かを失おうとしているのではないか?」
「もしかすると自分は、誰かから理不尽に攻撃されようとしているのではないか?」

「自我」はそういった「疑惑」に取り憑かれると、無数の思考や感情を作り出し始めます。

たとえば、夜中に一人で考え事をし始めて、どんどんメンタルが不安定になってしまった経験のある人は多いでしょう。

昼間に職場で働いている時には、与えられた作業に集中することで気が紛れたり、同僚と話すことで「自分とは違うニュートラルな視点」が入ってくることで、気持ちが落ち着いてきたりするものです。

でも、夜中に一人きりで考え事をしていると、気を紛らわせることもできませんし、「自分自身の偏った視点」だけで内側がいっぱいになってしまいます。

いわゆる「自我の一人相撲」です。

それで、物事をどんどん「悪いほう」へ考えていってしまい、眠れなくなってしまうわけです。

◎内側の整理は、「自分は執着している」と認めるところから始まる

ただ、そういう場合にこそ、「確認できること」「確認できないこと」をしっかり区別することが重要です。

そもそも、人がどこまでも「悪いほう」へ考えていってしまうのは、「確認できないこと」について確証を得ようとするからです。

たとえば、さっきの例で言うと、「Aさんが自分を嫌っているのかどうか」については、究極的には確かめようがありません。

なぜなら、あくまでも「他人の頭の中のこと」について私たちは、「推測」することしかできないからです。

ですが、多くの人はそれでは安心できません。

それで、「Aさんが自分を嫌っているわけではない」という証拠を、なんとかしてかき集めようとします。

「そう言えば、このあいだ食堂でたまたま一緒になった時、別に嫌そうな顔はしてなかったな」とか、「この前、Aさんは休暇で行った旅行先のお土産を、自分には優先的に渡してくれたな」とかとか、「Aさんは自分を嫌っているわけではない」と思えるような証拠を当人は集めようとするわけです。

ですが、そうやってあれこれ思い出していると、当然ながら、逆の証拠も思い出されてきます。

たとえば、「このあいだ電話を取り次いだ時に、Aさんが少し嫌そうな顔をしているように見えたな。あれは相手先への嫌悪感と自分への嫌悪感のどっちの表れだったんだろう…」とかいったようなことを考え出したりします。

そうして考えれば考えるほど、「いったいどっちなんだー!」ということになってしまい、頭が混乱してくるわけです。

こういった混乱の元は、「確認できないこと」について確証を得ないと気が済まないことから来ています。

それは、言い方を換えれば「執着」です。

「確かめないと気が済まない!」という、いわば「こだわっている状態」ですね。

なので、このような「グルグル思考」を止める最初の一歩は、「自分は今『執着』している」と認めることです。

それは、「『確認できないこと』について確証を得ないと気が済まなくなっているがゆえに、『苦しみ』が生まれている」と素直に認めることでもあります。

そしてこれもある意味で、「確認できること」のうちの一つです。

なぜなら、「Aさんが自分を嫌っているかどうか」は確かめることができませんが、「『Aさんに嫌われている可能性』を現に自分が気にしていること」「動かしがたい事実」だからです。

実際にそれを気にしているからこそ、「グルグル思考」によって苦しんでいるわけです。

なので、このケースにおける最初の一歩は「自分の中に『Aさんに嫌われたくない』という『執着』がある」と認識することです。

これができるだけで、かなり内側の整理がしやすくなります。

あとは、その調子で「確認できること」「確認できないこと」を丁寧に切り分けていくだけです。

ここから、その具体的なやり方について説明しましょう。

◎「確認できること」を徹底的に確認し、「確認できないこと」は決して深追いしないこと

たとえば、「Aさんは自分を嫌っているのだろうか?」という風に思った場合。

「Aさんが自分を嫌っているかどうか」については、確かめることができません。

なので、「これは確かめることができない事柄だ」と自覚的に認識します。

それと同時に、「今、自分の中には『Aさんは自分を嫌っているだろうか?』という思考が在る」と認識します。

事実としてAさんが自分のことを嫌っているかどうかはわかりませんが、「そういう思考が自分の中に在る」ということは、「動かしがたい事実」ですし、いくらでも自分自身で確かめられます。

だから、「そういう思考を現にした」というのは、あくまで「確認できること」です。

整理するとこんな感じですね。

こんな具合で、「確認できること」「確認できないこと」とを丁寧に切り分けて整理していきます。

その上で、「確認できないこと」については「確証を得ることはできない」と認めて受け入れ、「確認できること」については「そういう思考や感情が内側に在る」とだけ認識します。

内側に現れた思考や感情に対しては、「善い」とか「悪い」とか言うことなく、「そういうものが在る」とそのまま認めるようにしてください。

もちろん、「いやいやこんなこと考えちゃいけない」と思うこともあるかもしれませんけれど、「こんな思考が在ってはいけない」と考えてしまうと、当人は無意識にそういった思考を抑圧することになってしまいます。

そして、もしも思考を抑圧してしまうと、自分の内側にその思考が現に存在していても、それを自覚することができなくなります。

つまり、本来であれば「確認できること」であるはずの「自分の思考」が、「確認できないこと」になってしまうのです。

だから、たとえ「あぁ、もうAのやつをいっそぶん殴ってやりたい!」と思ってしまい、「なんてことを考えるんだ自分は!」と自己嫌悪に陥りそうになったとしても、ストップをかけるのが大事です。

「今、『Aをぶん殴りたい』と思った」ということを「事実」として確かめて、「そのことを気にして今、自己嫌悪に陥っている」ということも、あくまで「事実」として確かめるだけに留めます。

実際に相手を殴ったわけでもないですし、こういった思考それ自体は「善い」でも「悪い」でもありません。

あくまで「単なる事実」なので、自分を責める必要はないのです。

とにかく、「確認できること」だけをひたすら確かめ続け、それについて「善悪」を判定しないように心がけてください。

そうすれば、無意識に「善くない思考」を抑圧してしまうことを避けられます。

これが、「確認できること」についておこなう処理です。

それに対して、「確認できないこと」については、「確認不可」というラベルを貼って、いったん脇のどけておきます。

あまり執拗に確認しようとすることなく、「これは確かめようがない」と割り切ってしまうほうが良いでしょう。

逆に、「確認できないこと」の後を追いかけていくと、「思考と感情の迷路」に迷い込むだけなのでやめたほうが良いです。

要は、「確認できること」については徹底的に確認し、「確認できないこと」については深追いしないで棚に上げるわけです。

そして、そういった仕分け処理を適切におこなうことができるようになるためにも、「これは『自分で確認できること』なのか、それとも『自分には確認できないこと』なのか」ということを、いつも意識して判別するようにしてください。

もしもこの判別を誤ると、「確認できないこと(嫌われていないかどうか)」を徹底的に確認しようとしてドツボにハマったり、「確認できること(自分の中に執着があること)」をスルーしてしまい、自分の思考や感情が自覚できなくなったりします。

それは最悪のパターンなので、避けましょう。

それから、両者を区別する基準のようなものもあるので、それも覚えておいてください。

基本的に、「自分の内側で起こっていること」「確認できること」であり、「自分の外側で起こっていること」「確認できないこと」に属すると考えてもらって問題ありません。

もちろん、さっきの空腹の例のように、「自分の身体に起こっていることだけど確認できない」といったような例外も多少はありますが、そういったケースは区別がうまくなっていくにしたがって、自然と理解できるようになります。

とにかく、まずは「内側」と「外側」でしっかり物事を区分して、「確認できること」と「確認できないこと」をきっちり仕分けするようにしてみてください。

たったそれだけのことであっても、実践すれば「グルグル思考」に陥ることはかなり減っていってくれるはずです

◎観察する時は、ただ目に映ったままを忠実に記録し続ける

ということで、全然瞑想とは関係ない話をしているようですけれど、実はこれが、瞑想の実践における「観察」でもあります。

つまり、これまで述べてきた物事の区分けは、瞑想における観察にもそのまま当てはまるということです。

「確認できないこと」については「確認不可」のラベルを貼って深追いしない。

そして、あくまでも「確認できること」だけを徹底的に確認し尽くす。

これが、瞑想の実践における「観察」です。

たとえば、坐って瞑想をしている時に、昨日友人としたケンカのことが急に思い出されたとします。

そういう時、「あんのやろー、あんなことを言いやがって!絶対あいつのほうが悪い!」と思ったとします。

こういう場合、「自分と相手のどっちが悪いか」については確認しようがありません。

実際、ケンカにおいて「どっちのほうが悪いか」ということは、見る人によって意見が分かれるポイントでもあります。

なので、「あいつが悪い!」という思考は、「確認できないこと」についての思考です。

しかし、ここでもし立ち止まらずにそのまま考え続けると、思考はどんどんヒートアップしていってしまうでしょう。

場合によっては、「そういえば、あいつはこの前もこんなことを言った!」と、さらに過去の記憶を当人は掘り返し始めるかもしれません。

そうなると、思考と感情が燃え上がってしまい、そこに巻き込まれることは避けられなくなります。

そうして思考や感情に飲み込まれて、我を失ってしまうわけです。

そうならないようにするためには、「確認できないこと」の後はなるべく追いかけていかないことです。

「『どっちが悪いか』については確認できない」とだけ認識し、「『ケンカした相手を責める思考』が湧いた」ということだけを「事実」としてしっかり確かめて、それ以上は深追いしないことが大事です。

これが瞑想における「観察」です。

ここまで述べてきましたように、「他人がどう思っているか」ということや、さらには「社会がどう動いているか」といったことは、究極的には確かめることができません。

なぜなら、私たちに確かめることができるのは、「自分の思考と感情と感覚」だけだからです。

逆に、自分の内側で生起する思考や感情や感覚については、徹底的に確かめることが可能です。

それらがどんな風に生まれてきて、どのように変化し、最終的に消えていくのか。

瞑想の実践においては、それをひたすらトレースし続けます。

それは小学校の時にやった「アサガオの観察」のようなものです。

観察日記には「何月何日に芽が出た」とだけ記録し、「何日に花が咲いた」と書きつけます。

そして、最終的には「何日に枯れてなくなった」という風に、その消滅を見届けるのです。

「それについてどう思ったか」ということや、「今のアサガオの状態についてどう解釈するか」といったことは、観察日記には書きません。

それをするのは、また「別なフェイズ」においてです。

少なくともそれは、観察している時に同時並行でするべきことではありません。

何かを観察をする時は、ただ目に映ったままを忠実に記録するに留めます。

そして、それこそが、瞑想における「観察」でもあるのです。

◎「自分の恐れ」を恐れない、「動揺していること」に動揺しない

しかし、こんな風に「観察」について説明すると、「そんなことして何の意味があるんだ?」と思う人もいるかもしれません。

もっともな疑問ですね。

私が思うに、「観察」の最大のメリットは、思考や感情と同化しなくなることです。

言い換えれば、思考や感情に飲み込まれにくくなるということです。

たとえば、頭の中が「グルグル思考」でいっぱいになっている人は、まるで自分が「思考そのもの」になってしまったように感じるものです。

また、「激しい怒り」に囚われている時、私たちはあたかも「怒りそのもの」になってしまったように感じます。

これらは「思考や感情との同化」であり、私たちは自分の思考や感情を、距離を取って眺めることができません。

そしてそれゆえに、そういった思考や感情によって振り回され、深く苦しむことになるわけです。

逆に、思考や感情を普段から丁寧に観察していると、思考や感情と「自分」との間に距離が開いてきます。

実際、「この思考はしっかり確認できた」と言って、一つ一つ丁寧に確認作業をおこなっていくと、その思考に飲まれてしまうことが減っていきます。

それは倉庫の中に入っている在庫の「指差し確認」みたいなものです。

たとえば、「小麦粉10kg、確認よーし!」という具合で、「そこに現に在るもの」を落ち着いて確認することによって、「どこに何が在るかわからない!」という混乱を避けられます。

つまり、思考や感情をあくまでも「確認対象」として突き放して見ることによって、それらに取り込まれて混乱することがなくなっていくわけです。

もちろん、だからといって思考や感情が全く湧いてこなくなるわけではありません。

ただ、それらに影響を受けなくなるのです。

たとえば、恐怖という感情があります。

それは私たちをしばしば飲み込みます。

恐怖を感じた時、私たちはそれに圧倒されてしまい、「怖い!」「もうダメだ!」「どうしよう!」とパニックになってしまうのです。

それは、図でいうと下のような状態です。

この場合、「観察者」と恐怖は一体になってしまっており、当人はパニックを起こしてしまいます。

「恐怖そのものになっている状態」と言ってもいいでしょう。

しかし、観察の技術が上達してくるにしたがって、当人は恐怖に飲み込まれにくくなっていきます。

それは別に、「恐怖そのものを感じなくなる」という話ではありません。

恐怖は「事実」として内側に在ります。

しかしそれを「確認可能な事実」としてだけ受け止めて、冷静に恐怖と向き合えるようになるのです。

それは、図にすると以下のようなイメージです。

当人は恐怖が自分の中にあることを自覚しています。

しかし、それに飲み込まれて同化することなく、距離を取って冷静に観察できています。

それは、「内側に恐れが湧いてはいるけれど、『恐れが在る』ということを特に怖いとは感じない」という表現が、感覚的には近いです。

恐怖が湧いてくれば、誰だって身体は震えてきますし、心臓も高鳴ってくるものです。

でも、観察に熟達した人というのは、「お、恐怖で身体が震えてきている」「心臓の打つスピードが速くなってきているようだ」とだけ確認し、それに取り込まれることがありません。

つまり、「今、自分の中に『恐れ』が在る」とだけ認識し、当人はそれに影響されなくなるのです。

あるいはそれは、「動揺することはなくならなくても、『動揺している』という事実に対して動揺しなくなる」という風に表現することもできると思います。

実際、たとえ瞑想の実践を続けていっても、恐怖や動揺は完全にはなくなりません。

瞑想の熟練者であっても怖いものは怖いですし、人間なんですからビックリしてしまうこともあるでしょう。

ですが、もしもそれらの恐怖や動揺と同化することなく、また抑圧して見えなくすることもせずに観察できたなら、当人はそれらの感情に徐々に支配されなくなっていきます。

それは言い換えると、「思考や感情を自分と同一視しない」ということであり、「自分の思考や感情から自由になる」ということでもあります。

そして、そのために必要な瞑想の修行が「思考や感情の観察」であるというわけなのです。

◎私たちを本当に振り回しているのは、「自分自身の想念」である

いかがでしたでしょうか?

今回は、「瞑想にまだあまり馴染みのない人にもわかりやすいように」と思って、日常的なシーンを例にあげたのですが、おかげで話がいささか長くなってしまいました。

「もうそんなの知ってるよ」という人は冗長に感じたかもしれません。

そう、「感じた《かもしれません》」ということです。

あなたがどう感じたかは、他人である私には本当のところわかりません。

私に確認できるのは、「『ひょっとしたら冗長に感じた人がいたかもな』と自分は推測しているようだ」という「自分の思考」だけなのです。

「観察」というのは、こんな風に日常生活の中でいくらでも実践する機会があります。

そして、それを習慣にしていると、徐々に「確認できること」「確認できないこと」を意識して区別しなくても、無意識に両者を区別できるようになっていきます。

また、それに伴って「答えの出ない問い」を延々考えて苦しむことも自然と減っていくでしょう。

つまり、「他人の気持ち」や「社会の動向」などのような予測できないことについて、「これについては考えても仕方ないし、とりあえず『確認不可』という札だけ貼って、いったん棚に上げておこう」と気楽に考えられるようになるのです。

というわけで、もしも「グルグル思考」が止まらなくて苦労している読者の方がいらしたら、ぜひ「確認できること」と「確認できないこと」を区別する練習をしてみてください。

きっと続けるうちに自分の思考や感情が整理されて、それらに振り回されないようになっていくはずです。

実のところ、私たちを本当に振り回しているのは、外側に存在する他人や社会ではありません。

実際、他人や社会がどうであろうと、自分自身が何も気にしていなければ、「苦しみ」は発生しないものです。

私たちを本当に苦しめ束縛しているものは、「自分自身の想念」です。

そしてだからこそ、他人や社会を変えなくても、自分の内側に在る「執着」さえ破壊できれば、私たちは「苦しみ」から自由であることができるものです。

あなたの「苦しみ」がこれから消えていくことを、心から願っています。

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