「猫」とは「自由な心」のメタファーである|沢庵禅師が語る「内なる猫」との付き合い方

X(旧Twitter)と、このブログにおける私のプロフィールアイコンは「猫」の画像にしているのですが、今回は「なんで猫にしているのか?」という理由を書いてみたいと思います。

まあ、半分くらいは「昔から猫が好きだから」なのですが、もう半分の理由は探求とも関係があります。

「いったい何の関係が?」と不思議に思う人もいるでしょうから、少し説明してみましょう。

では、始めていきます。

◎修行の最初の段階では、「放心を求めること」が必要となる

禅の世界では「猫」が時々登場してきます。

たぶん「自由な在り方」の一つの理想形が、「猫の生き方」には表れているからだと思います。

たとえば、江戸時代の初期に活躍した禅師である沢庵宗彭たくあんそうほうの『不動智神妙録ふどうちしんみょうろく』という書物には、心を猫にたとえる部分があります。

まず、沢庵は孟子の「放心を求めよ」という言葉を引用します。

「放心を求めよ」というのは、「心というのは、放っておくと逃げ出して見失ってしまうものだから、気をつけて自分の元に取り戻すようにせよ」という意味です。

これは、瞑想を実践したことのある人にはよくわかるのではないでしょうか?

実際、瞑想の初心者のうちは、油断するとすぐに考え事に夢中になってしまい、実践者は我を失ってしまいます。

それでも、しばらくすると「ハッ」と気づいて、「いかんいかん、集中しなければ!」と思い直し、再び注意深く心を「今ここ」に留めようとします。

このように、初心者のうちは「心が彷徨さまよい出てしまい我を失う➔ハッと気づいて我に返る➔心が彷徨わないよう再び注意を集中する」ということをひたすら繰り返し続けます。

そうすることで、「心」が簡単には彷徨い出ていかないよう訓練するわけです。

このことを「猫」でたとえるなら、「猫」が勝手に外に出ていかないようしつけるようなものかもしれません。

実際、沢庵禅師は孟子の「放心を求めよ」という教えを引用した後にこう書いています。

たとえば、犬や猫、鶏などが逃げ出してどこかに行ってしまった時、探し歩いて自分の家に連れ戻すように、自分の身についたものであるはずの心が、自分から抜け出してしまったら、どうして取り戻さないかということです。

『不動智神妙録』、沢庵宗彭、訳:池田諭、徳間書店

猫だけでなく犬や鶏も出てきますが、まあ、「動物に言うことを聞かせることは難しい」ということですね。

特に「猫」は犬や鶏以上に躾けることが困難でしょう。

実際、「猫」は一つところに留めておこうとしても、絶えず「ここから出せー!」と言って暴れるはずです。

時には、「自由にさせろ!」と抗議して、こちらを引っかいたり噛みついたりするかもしれません。

でも、それもそのはずです。

なぜなら、修行を始めたばかりの探求者の「心=猫」というのは、「外の世界」にとても魅力を感じているからです。

実際、探求を始めたばかりの頃は、まだ「自我」が活発に働いているので、「心」は「あれが欲しい」「これが欲しい」と言い続けます。

「心」は「今ここ」に留まっていても面白くもなんともないので、つい無意識に過去のことを思い出したり、未来のことを思い描いたりしてしまいます。

だからこそ、「心」は同じところにジッとしていることができないのです。

それゆえ、孟子は「放心を求めよ」と言ったんですね。

「あちこちに放たれた『心』が暴れ回らないように、何度でも連れ戻しなさい」と言って、「心」を連れ戻すことの大切さを孟子は強調したわけです。

◎「帰るべき家」を見つけた「心」は、好きにさせても暴れなくなる

しかし、これはあくまでも探求の前半戦における話です。

たとえば、探求が「折り返し地点」に差し掛かると、「自我」と「自己」との同一化が解けるので、探求者は「自我」を絶対視しなくなっていきます。

すると、「自我」は徐々に大人しくなっていき、「心」もいたずらに暴れ回らなくなっていくのです。

それまでの「心」はいつも「満たされなさ」を感じていて、飢餓感ゆえにあちこちを走り回っていました。

そこには余裕というものがなく、「心」はいつも必死で何かを求め続けていたわけです。

しかし、「自我」が大人しくなってくると、「何もしないこと」の中に心地よさがあることを「心」は学び始めます。

どこにも行かず、何者にもならず、ただ「あるがままの自分」でいることの中でリラックスする時、そこには「穏やかな解放感」があります。

それは、探求の世界では「アーナンダ(至福)」とか「ニルヴァーナ(涅槃寂静)」とか呼ばれているものです。

もしもその心地よさを知るようになると、「心」は「満たされなさ」に衝き動かされることが徐々になくなっていきます。

なぜなら、「『本当に欲しかったもの』は、別にどこかに出かけなくても既に在る」ということがわかるようになるからです。

それは言ってみれば、「心」が「くつろげる我が家」を見つけたような状態です。

それまでは、無理やり「家」に連れて帰ろうとしても「心=猫」は抵抗していたわけですが、それは「我が家の良さ」が十分にわかっていなかったからです。

逆に、「たとえ何があっても、『ここ』に帰ってくればいいんだ」と学んだ「心」は、もうむやみやたらと暴れ回ったりはしなくなります。

なぜなら、「『我が家』に帰ってくつろげば、自分はちゃんと満たされる」ということが、「心」にはもうわかっているからです。

この段階に至ると、探求者は「心=猫」を縛り付けておく必要を感じなくなっていきます。

これが、次のフェイズです。

沢庵禅師は邵康節しょうこうせつという人の「心を放つを要とす」という言葉を引いています。

これはつまり、「心を好きに放っておくことが肝要なのだ」という意味ですね。

沢庵禅師は邵康節の言葉について、こんな風に解説しています。

彼が、この言葉で示そうとしたのはこんなことです。
心を自分のなかに縛りつけておいたのでは、まるで飼われた猫のようで、自分本来の自由な心の働きというものは生まれない。
だから物に心が止まらぬよう、心が何事かに溺れぬよう、うまく使いこなせるようにした上で、どこへなりとも放り出しておけというのです。

前掲書

「心」を無理に縛りつけていては、「飼われた猫」のように不自由な働きしかできない。

だから、無茶苦茶に暴れ回らないように躾けた上で、あとは自由にさせてやれと言うのです。

これは、孟子の言う「放心を求めよ」とは正反対のことを言っているようにみえるかもしれませんが、それは言葉の対象となる人の修行の段階が違うからです。

「放心を求めること」は修行の最初においてはある程度必要なことです。

実際、「心=猫」をほったらかしにしていると、あっちこっちへ跳び回るので、収拾がつかなくなってしまいます。

しかし、もしも「我が家」に帰ることを当人が好むようになると、「心=猫」は「逃げ出したまま帰ってこない」ということにはならなくなります。

むしろ、放っておいてもちゃんと「我が家」に帰ってくるようになるのです。

もちろん「心=猫」は、時として「外の世界」に出ていって遊ぶこともあるでしょう。

しかし、修行の進んだ人の「心」というのは、遊び終わったら「我が家」にまっすぐ帰ってきます。

そして、実践が十分に深まると、探求者自身もそのことを深く信頼できるようになるので、「心」を無理に縛り付けておこうとは考えなくなっていくものなのです。

だから、もしも「心」がどこかに出かけようとする場合、修行の進んだ探求者は「心」のやりたいようにさせてやります。

「したい」と思うことがあるのであれば、我慢しないでそれをしますし、満足するまでやり切ったなら、「我が家」に帰ってきてくつろぐのです。

それが、「自由な猫の境地」です。

◎「猫」とは「自由な心」のメタファーである

一般の人は、「覚者というのはずっと黙ったまま何もせずに過ごしているのではないか?」と思っていたりしますが、別にそんなことはありません。

覚者は「『何もしないこと』の内に留まらねばならない」とは別に思っていないので、「心」という名の「内なる猫」が出かけたがったら、引き止めないで好きにさせます。

覚者であっても、時には物思いにふけることがありますし、「何かの遊び」に夢中になることだってあります。

そもそも、私だって現にこうしてブログを書いています。

覚者とはいえ、一切の活動をしなくなるわけではないのです。

でも、最後に帰っていく場所は「我が家」です。

それがわかっているからこそ、「心」を縛り付けて自身を束縛したりせず、「内なる猫」を自由にさせることができるのです。

そう言えば、沢庵禅師は先ほど引用した文章の中で、「もしも心を縛り付けたら、それは飼い猫のように不自由になってしまう」という意味のことを書いていましたね。

ひょっとしたら、沢庵禅師が理想としていたのは、何にも縛られず自由に生きる「野良猫」のような「心」だったのかもしれません。

このように、「心」というのは「猫」のメタファーで表現できたりします。

そして、「覚者の自由な心」というのは、「何にも縛られない猫の在り方」と似ているように私は感じています。

それは無邪気に「行きたい場所」へと行き、「したいこと」をして遊びます。

でも、最終的には「我が家」へ帰ってくるのです。

「自由気ままな野良猫」にも、帰っていく「ねぐら」があるわけです。

この「安心できるねぐら」がないうちは、「猫」は一時も気が休まりません。

だからこそ、暴れ回ることにもなるわけですが、一度「安心できる場所」が見つかると、「心=猫」は伸び伸びと自由に生きられるようになるのです。

そんなわけで、「猫」というのは私にとって「自由な心」のメタファーです。

それゆえ、「心」が何かに囚われているように感じた時には、「自由な猫のようで在れ!」と私は思うようにしています。

つまり、「猫」というのは私にとって「自由」というものの象徴なのです。

それゆえ、自分のプロフィールのアイコンを決める時も、「やっぱり猫にしたいよね」と私は思ったわけなのです。

◎終わりに

あなたには好きな動物がいるでしょうか?

もしいるとしたら、どうしてあなたはその動物が好きなのでしょう?

ひょっとしたら、その動物があなたに「何か」を与えてくれるから好きなのかもしれませんし、あなたの中にその動物への「憧れ」があるから好きになったのかもしれません。

それについてじっくり考えてみるのも、悪くないのではないかと思います。

意外とそこから、「自分にとって大切なもの」がわかるようになるかもしれません。

あなたにとって「本当に大事なもの」は何ですか?

もしも「答え」が見つかったなら、私にもぜひそれを教えてほしいと思います。

ではでは。

【2026.1/17 追記】

その後、紆余曲折を経て、アイコンを猫から私の顔写真に変えました。

アイコン変更の理由については、以下の記事で書いています。

筆者のアイコン画像を変更しました|「猫による自由のメタファー」から「身体性の響き」へ

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