「戒律」を守らないと悟れないのか?「自律」は、「観察」と「理解」に根差している

仏教には「戒律」というものがあります。

「戒律」というのは「修行者が守るべき掟」のようなもので、専門的には「戒」が「修行者自身が個人的に守るべきこと」で、「律」が「集団生活のためのルール」なのだそうです。

ちなみに、最も基本的な「戒律」は「五戒」と言って、以下のものがあるようです。

  • 生き物を殺さない(不殺生戒)
  • 他人から盗まない(不偸盗戒)
  • 浮気や不倫をしない(不邪淫戒)
  • 嘘をつかない(不妄語戒)
  • 酒を飲まない(不飲酒戒)

ただ、これらは在家の信者も守らないといけない「最低限の戒律」らしく、ちゃんと「悟り」に達したいと思ったら、さらに数百個にも及ぶ多数の「戒律」を守る必要があるそうです。

そもそも、「五戒」の時点で「生き物を殺してはならない」という「不殺生戒」が入っているので、基本的に肉食が禁じられてしまっています。

お酒好きな人からしたら、「不飲酒戒」もけっこう厳しいでしょう。

それらをきちんと守ったうえで、全部で数百個もある「戒律」を全部守ろうとするのは、かなり大変なことに違いありません。

じゃあ、本当に「戒律」を守らないと悟ることはできないのかというと、別にそんなことはないと思います。

現に私は「仏教の戒律」について何の知識もありませんでしたが、「最終的な悟り」に到達することができました。

まあ、私にとっての「悟り」の概念は不二一元論(アドヴァイタ)に基づいているところがあるので、それが仏教における「悟り」と同一のものかどうかについては、検証の余地があるかもしれません。

ただ、「戒律」を律儀に全部守らなくても、「束縛を破壊して自由に至ること」は可能だと思っています。

じゃあ、「戒律」って、いったい何のためにあるんでしょうか?

今回の記事では、この「戒律」というワードをメインに据え、「探求者にとっての規律と自由」について考えてみたいと思います。

「戒律を守ること」は、本当に「自由に至るための道」なのか?

それともそれは、「余計な束縛を増やすこと」に過ぎないのか?

一緒に考えてみましょう。

では、始めます。

◎「規則」が先か、「悟り」が先か

最近、最も古い仏典の一つとされる『スッタニパータ』をポツポツと読んでみています。

私は『スッタニパータ』を読むのはこれが初めてなのですが、この経典は現存する仏典の中でも特に古い時代にまとめられたものであり、「ゴータマ(ブッダ)の言葉がかなり忠実に記録されたものだ」と世の中では考えられているようです。

ただ、私は実際に読んでみてびっくりしたんですが、中身としてはほとんど「道徳集」みたいな感じです。

言い換えれば、「悟りを得るために『するべきこと』と『してはいけないこと』の膨大なリスト帳」のようなものと表現できるかもしれません。

少なくとも、私はそんな印象を持ちました。

たとえば、『スッタニパータ』の中では、いろんな弟子や在家の人たち、さらには神霊なんかまでがゴータマに教えを乞いに来るのですが、ゴータマは「これをしなさい」「これはしてはなりません」ということをひたすら列挙するだけです。

「具体的にどうやってそれを実践したらいいのか?」とか、「なぜそのような決まりを守る必要があるのか?」とかいったことについての詳しい説明はほとんどありません。

にもかかわらず、説法を聞いた側は「素晴らしい教えだ!」と感嘆し、ゴータマに帰依したり、彼を称賛したりするのです。

正直に言って、「なんか想像していたのと違うなぁ」と個人的には思いました。

もちろん、『スッタニパータ』から現に多くの学びを得ている人はいるでしょうし、だからこそ今も読み継がれているのだと思います。

それを否定するつもりは全くありません。

しかし、私としては、「なぜそういう教えになるのか?」ということについての具体的な説明を、期待していたところがありました。

というのも、「説明しないでただ規則を与えるだけ」だと、それは小学校の先生が子どもたちに道徳を教え込むのと、やってることとしてはあまり変わらないように思えたからです。

そもそも、まだ幼い子どもたちは、自律的に学校における集団生活のルールを守ることが難しいです。

だから、ある程度外側から強制して「規則」を守らせないと、学校での生活や授業が成り立たなくなってしまう可能性があります。

そういう意味で、子どもたちに「道徳」を「『するべきこと』『してはならないこと』のリスト」として教え込むことも、いくらか必要なのではないかと思っています。

ですが、探求者にとって大事なのは、自律的に実践をしていくことであって、外から「規則」を強制するのは余計なことではなのではないかと私は考えています。

これについては、たぶん多くの宗教家や探求の指導者が、私に反対するでしょう。

実際、仏教だけでなく、ヨーガでも「してはいけないこと(ヤマ)」と「するべきこと(ニヤマ)」を「修行の土台」として設定しており、「まずこれらを守ったうえで修行するように」と指導者からは教えられることになるからです。

つまり、「『道徳的な生活』が確保されていないと、そもそも修行なんてできない」というのが、彼らの主張なわけです。

でも、私はそうは思いません。

むしろ、修行をすることによって、「不道徳な生活」は自然と正されていくものだと思っています。

これに対して、世の中の多くの教えは、「決まりを守ることによって『悟り』に到達できる」と言います。

つまり、「まず道徳的になってから修行をしないと『悟り』には決して到達できない」と彼らは主張するわけです。

でも、私は順序が逆だと思います。

むしろ人は、「道理を理解すること」ができるようになるから、結果的に「自律的な生き方」をするようになるものだと、私は思うのです。

以下、少し長くなりますが、順番に説明してみましょう。

◎「悟り」に対する欲求が、「戒律」を新たな束縛へと変える

「規則を守ること」は、本当に「悟りの必須条件」なのでしょうか?

このことをもっと具体的に深く考えていくために、一つ例を挙げてみましょう。

たとえば、「嘘をついてはいけない」という教えについて考えます。

これは仏教の「戒律」にも入っていますし、ヨーガの「ヤマ(禁戒)」にも入っています。

そういう意味では、宗教的な実践において「嘘をついてはならない」というのは「ポピュラーな規則」と言えるでしょう。

でも、そもそもなんで嘘をついてはいけないんでしょう?

「いや、そりゃあ、嘘をつかれた相手が困るからじゃない?」と言う人がいるかもしれません。

確かに、詐欺師に騙された人は大いに困ることになるでしょうし、そういう意味では、嘘がこの世からなくなったほうが、社会秩序は安定しそうです。

でもそれは、あくまで「社会秩序のためにも嘘はないほうがいいよね」という話であって、どちらかというと「社会学的な考え方」なのではないかと思います。

宗教的に考えるなら、「他人が困るから」という観点よりも、むしろ「嘘をつくと自分の魂が穢れるから」というような観点から、この問題を考えるのではないでしょうか?

つまり、「自分の魂を穢れから守り、すみやかに『悟り』に到達するためにも、嘘をついてはならない」ということになるわけです。

でも、仮にそう言われても、修行を始めたての人は、「よくわからないけど、そういうものなのかー」と思うだけで、「なるほど!」と深く腑に落ちて納得することはないでしょう。

そうなると、「よくわからないけど、言われたことを守る」という形になりがちなのではないかと思います。

しかし、その後の修行が進んでいく中で、「嘘をついてはならない」というこの「戒律」は、当人にとってある種の「強迫観念」のようになっていくことがあるかもしれません。

なぜなら、当人は「絶対に『悟り』に到達したい!」と思っているからです。

実際、師からは「『悟り』に到達するには決して嘘をついてはならない」と言われています。

こうなると、当人はほんのわずかな嘘であっても、自分に許すことができません。

「そんなことをしたら『悟り』から遠ざかってしまう!」と思うからです。

でも、それって実のところ、「新たな束縛」なのではないでしょうか?

確かに、この「戒律」を守っている限り、当人は嘘をつかなくなるかもしれません。

しかし、別にだからといって「嘘をついてはいけない理由」を当人が理解しているわけではありません。

「嘘をつくと本当に『悟り』が遠ざかるのかどうか」について、当人はまだ自分で確認したわけではありませんし、そもそも「悟り」というものがどういうものかということさえ理解していません。

ただ、師から「悟りたかったら嘘をついてはならない」と言われたので、盲目的にそれを守っているだけなのです。

◎「たわいない嘘」の裏側に隠れた自己保身

また、もしも当人がうっかり嘘をついてしまった場合、苦悩は避けられないのではないかと思います。

それは、何でもないような「たわいない嘘」かもしれません(たとえば、過去の自分の経歴を話の弾みでちょっと盛っちゃった、とか)。

でも、当人はそうして嘘をついてしまったことで罪悪感を覚えることになるでしょうし、「『悟り』から遠ざかってしまった!」と思って、自分を激しく責め苛むはずです。

こういった苦悩は、「戒律」を真剣に守って生活している人にとっては、たぶん「あるある」なんじゃないかと思います。

しかし、そもそもどうしてその人は、そんな「たわいない嘘」をついてしまったんでしょうか?

それは、当人の中に「体面を保ちたい」という欲求があったからです。

たとえば、当人は後輩の弟子の前でイイカッコをしたくて、ついつい自分の経歴を盛ってしまったのかもしれません。

「自分をよく見せたい」という欲求があったからこそ、つい「たわいない噓」をついてしまったわけです。

だとしたら、当人が本当にすべきことは、「戒律を破ってしまった!」と言って悔いることではなくて、「自分の中には『体面を気にする心』がある」とはっきり理解することではないでしょうか?

実際、もしも当人が本当に「自由」を求めているのであれば、「自分はまだ『体面』を気にしている」ということを「事実」として認識した上で、「『体面』を気にすることに本当に意味があるのだろうか?」ということについて、一人で熟考するべきだと私は思います。

そうすれば、「『体面』を保つことによって守られるのは『自我(エゴ)』だけだ」と、当人は遅かれ早かれ気づくはずです。

つまり、「『体面』を無意識に気にすることで、自分は『自我』を守っていたのだ」と、気づくわけです。

この時、もしも当人の瞑想の実践が十分に進んでいた場合、おそらく「自我」の重要性は希薄になっているでしょう。

「たとえ『自我』を満足させても、そんな満足感は一時的なものに過ぎない」と、当人は既に知っているはずです。

このあたりの理屈について詳しく知りたい方は、以下の記事を参照してください。

【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する

ともあれ、「自我こそが守るべきものだ」という「錯覚」が解けている人は、「『自我』を守るために『体面』を気にする必要はない」ということが、自然と理解できるはずです。

すると、当人はもう「体面」を保つためにわざわざ嘘をつく理由がなくなります。

もちろん、すぐには嘘をつくことをやめられないかもしれません。

なぜなら、「体面を気にすること」が当人の中で既に根深い習慣になっていて、何かの拍子につい話を盛ってしまうこともあるはずだからです。

でも、当人はもう「そんなことをする必要はない」ということを自覚しているので、そうやって嘘をついている時、「自分は意味のないことをしている」と気づくことができます。

つまり、「あぁ、もうそんなことをする必要はないんだった」と当人は自覚することができるはずなのです。

そうして、何度も「自分は意味のないことをしている」という自覚を繰り返すことで、徐々に話を盛りそうになる前に、それに気づくことができるようになっていきます。

「あ、また『体面』を気にして、話を無意識に盛ろうとしているな」と自覚できるようになっていくわけです。

そうしたら、あとは当人の選択です。

「わざわざ話を盛る必要はないな」と思うのであれば、素直にあったままのことを話せばいいでしょうし、「あえて話を盛って場を盛り上げたほうが相手も楽しいかもな」と思うのであれば、話を盛ったらいいでしょう。

ただ、「話を盛る」場合の問題点は、一度ついた嘘を守るために、次々に新しい嘘をつき続けなければならないことです。

つまり、前に言ったことが「嘘だ」とばれないようにするために、もっとたくさんの嘘をつくことで辻褄を合わせないといけなくなるのです。

たとえば、実際には卒業していない大学を最終学歴にしている人は、大学時代の思い出を他人から聞かれた時に、ひたすら嘘で話を塗り固めなければなりません。

そして、そんなことを続けていればどこかで「ボロ」が出るものです。

すると、周りの人からの信用は失墜し、非難の声を浴びせられるかもしれません。

もちろん、「『ボロ』を出さずに嘘をつき続けるスリル」を楽しむことができる人は、そのまま嘘をついていればいいと思いますけれど、「そんなことしてもかえって大変な想いをするだけだ」と考える人は、自然と嘘をつかなくなっていくのではないかと思います。

◎「理解」した人は嘘をやめ、「盲信」する人は自身の欲求に引き裂かれる

そもそも、「嘘をつく人」というのは、みんな無意識に損得勘定をしているものです。

実際、「嘘をついたほうが多くの利益を得ることができる」と思っている人だけが嘘をつきます。

逆に、「嘘をついても大した意味はないし、むしろ不利益のほうが多い」と理解している人は、別に「戒律」で禁止されるまでもなく、自律的に嘘をつかなくなるものです。

実際、覚者というのは「自分を守るため」に嘘をついたりしないものだと思います。

なぜなら、覚者はみんな「嘘によって守れるのは結局のところ『自我』だけであり、『自我』を必死になって守ったところで意味はない」と理解しているはずだからです。

なので、もしも覚者が嘘をつく時は、「嘘をつくことが弟子の助けになる場合」などに限られるでしょう。

「嘘も方便」という言い方もありますが、「真理」をまだ理解できていない弟子を導くために、師は実際に嘘をつくことがあります。

もしも弟子がその嘘を信じて進み続ければ、やがてそれが「自分の成長のために必要な嘘」だったことに、弟子自身はいつか気づくことになると思います。

ですが、弟子が実際に成長し終わるまでは、その嘘を「ホントの話」として一旦は信じてもらう必要があるのです。

なので、覚者もまた嘘をつくことがあります。

そういう意味では、覚者は「戒律」を厳格には守っていません。

でも、当人は別にそれを問題視したりしないものです。

なぜなら、覚者は「『嘘をつく』とはどういうことか?」ということについて、深く理解しているからです。

そもそも覚者は「他人を騙して金品を奪いたい」という欲求を持っていません。

と言うのも、金銭は確かに「便利な道具」ではありますが、もしもそれに執着すると束縛になると、彼/彼女は知っているからです。

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だから、覚者は「詐欺を働いて楽に大金を稼ぎたい」という動機を、そもそも持っていないのです。

また、覚者は「自我」を守るために「自分を大きく見みせるような嘘」をつこうとも思いません。

なぜなら、嘘で大きく見せることができるのは、あくまで当人の「自我」だけであり、そのことに覚者自身はそれほど意味を感じないからです。

このため、覚者は「結果的に」嘘をつかなくなる傾向があります。

覚者が嘘をつくのは主に「他人を助けるため」であって、「自分(自我)を守るため」に嘘をつく必要を、当人は特に感じないわけです。

このように、覚者が基本的に嘘をつかないのは、「嘘をつく」という行為について、当人がこれを観察し尽くしているからです。

実際に嘘をつく中で、「そもそもなぜ自分は嘘をつくのだろう?」と自問し、また同時に、「嘘をつくことによってどんな結果がもたらされるだろう?」ということを丁寧に観察し続けていくことによって、ある時、当人の中に「一つの理解」が起こります。

それは、「一度嘘をつくと、どこまでも際限なく嘘をつき続けることになるし、自分を守るためにそうして嘘をつき続けることには、そもそも大した意味がない」という「理解」です。

その時、「わざわざ嘘をつく理由」は当人の中で破壊されます。

そのため、「結果として」当人は嘘をつかなくなるのです。

これに対して、「嘘」という行為について何も理解しないまま、師から「嘘をついてはいけない」とだけ言われて、それを守っている人を対比してみましょう。

こちらの人は、「嘘」について何も理解していません。

「自分はなぜ嘘をつくことをやめられないのか」も自覚していませんし、「嘘をつくことで得られるもの」が結局のところ「自我の満足」に過ぎないということも知りません。

自分が何を求めて「嘘」にしがみついているかを知らず、同時にその「嘘」を滅ぼすことで「悟り」に至りたいと執着しています。

当人は「悟り」にしがみついていますが、かといって「嘘」を捨てることもできません。

なぜなら、当人は「嘘をつくことで自我を満足させたい」という欲求に束縛されているからです。

その結果、こういった人は「悟りを得たい」という欲求と、「嘘を捨てたくない=自我を喜ばせたい」という欲求との間で引き裂かれて分裂してしまいます。

これが当人の中で「葛藤」を生み出すことになり、当人を「無用な苦悩」へと巻き込んでいくことになるのです。

◎「戒律」から「理解」は生まれてくるのだろうか?

少し整理してみましょう。

両者の違いを簡単な表で示すと、以下のようなに形になります。

「覚者」と「戒律に縛られている人」の対比に関する表

また、「内的な規律に従う場合」と、「外的な規則に従う場合」の主な違いを対比させると以下のようになります。

「内的な自律」と「外的な強制」に関する当人への影響の対比

これでだいぶ問題の核心が整理できて来たのではないかと思います。

さっき上でも書きましたが、私は「『戒律を守ること』が『悟り』に先行する」という考え方を取りません。

むしろ、「人は自分がしていることの意味を本当に深く理解した時に、結果として自律的に振る舞うようになる」と私自身は考えています。

つまり、「戒律を守る➔悟る」という順番ではなく、「理解する➔自ずから戒律を守るようになる」という順番で人は成長するものだと、私は思っているわけです。

逆に、もしも「戒律を守ること」が先行するのであるならば、当人は「その戒律の意味」について理解するチャンスを逸することになってしまいます。

たとえば、「わけもわからないまま『戒律』を何百も押し付けられて、それらを全部守らなければならない」ということになると、当人はいちいちそれらの「戒律」について丁寧に「理解」する余裕なんてないでしょう。

と言うのも、ちょっとでも気が緩むと「戒律」を破ってしまいかねないからです。

ここにおいて当人の重点は、「戒律を理解すること」にはなく、「とにかく戒律を破らないようにすること」に置かれています。

だから、当人は「そもそもなぜ戒律を破ったらいけないのだろう?」と問うことがありませんし、第一、そんなことを問うている心の余裕がありません。

なぜなら、当人は常に神経を緊張させて、うっかり「戒律」を破ってしまわないように注意していなければならないからです。

また、そういった人は、「戒律」を破って生活している人を無意識に軽蔑して、他人を非難するようにもなりがちです。

それもこれも、当人が「戒律」を守ることに必死過ぎて、心に余裕がなくなっているためです。

そうして、「なぜかわからないけど、師から言われていることだし、先輩もみんな守っているから」という理由で当人は思考停止してしまい、結果として、「なぜこれをしてはいけないのか?」ということの意味を、その人はいつまで経っても理解できないのです。

◎「無知」が破壊されない限り、「悪人」は悪事を犯し続ける

そんなわけで、もしも私が誰かに教えを伝えるのであれば、「戒律」はなるべく少なくすると思います。

私が何かを伝えるとしたら、「とにかく全てを徹底的に観察してごらんなさい。そうしたらいつか『理解』が起こるから」とだけ言うはずです。

おそらくこれが、私にとってほとんど唯一の「戒律」です。

「なんであれ、この人生で経験することは徹底的に観察すること」

これさえ守っていれば、「戒律」は自然と当人の内側に起こり始めます。

私が命じるまでもなく、当人は嘘をつくことをやめるでしょうし、人から奪うことをやめるでしょう。

でも、それはあくまで当人が「嘘をついたり奪ったりすることの無意味さ」を、自分自身で「理解」したことの結果です。

逆に、それをまだ自分で「理解」していない人は、たとえ誰が止めたところで、無意識に嘘をつき続けるでしょうし、他人から奪い続けるでしょう。

結局のところ、当人が自分で悟らない限り、根本的には何も変わりません。

そして、人を真に変えるのは、「外から押し付けられた規則」ではなく、「内側に芽生えた気づき」なのです。

「自我」を守るために嘘をつき続ける人も、必要以上の金銭を蓄えるために他人から奪い続ける人も、「そんなことをしても意味はないし、かえって『面倒ごと』が増えるだけだ」ということを理解していません。

もし理解していれば、他人が止めるまでもなく、当人が自分でやめているはずです。

そういう意味では、「自己保身から嘘をつく人」や「他人から奪い続ける人」というのは、「自制心がない」のではなく、「無知」なのです。

自分自身の内側に「理解」がないから、こういった人たちは自分を守るために他人を騙し続けます。

だとしたら、彼らに本当に必要なのは「戒律」ではなく、「自分のしていることの意味を理解するための方法」なのではないでしょうか?

少なくとも、私はそのように考えます。

そして、そのように考えるからこそ、私は「悪人」が「真理を悟りたい」と言い出したとしても、「まず善人になってから出直してきなさい」とは言いません。

そもそも、土台それは無理というものです。

なぜなら、そもそも彼/彼女は「理解」がないからこそ「悪人」で在り続けているのだからです。

だとしたら、その人が「悪人」でなくなるためには、まず「『自分がいったい何をしているのか』を徹底的に観察する方法」をこそ与えるべきです。

「理解」は私から与えることができません。

私が与えることができるのは、あくまで「理解するための方法」だけです。

「理解」は最終的に、当人が自分で成し遂げます。

そして、そうであるからこそ、そのようにして成し遂げられた「理解」は、「当人の言動を内側から律するもの」となり、決して「外側から与えられた束縛」とならずに済むのです。

実際、「自分で理解したこと」に従っている時、当人は「束縛されている」とは感じません。

なぜなら、彼/彼女はその時あくまでも、自分で「こうしよう」と決めたことをただおこなっているだけだからです。

そして、だからこそ覚者は、「弟子のためにあえて嘘をつく」といったような柔軟な対応もすることができます。

別に「嘘を絶対につかないこと」に意味があるわけではないのです。

ただ、「自我を肥やすために嘘をつくこと」に意味がないというだけのことに過ぎません。

しかし、だからと言って、「そうか、『自我』を守るために嘘をついても意味はないのか」と思うだけであれば、何の「理解」も起こりません。

大事なことは、あなたが自分で確かめることです。

私の言っていることが本当なのかどうかを、あなた自身が自分で観察して確認するのです。

その上で、私と「同じ結論」になるなら、それはそれですし、もし「別な結論」になった場合には、その「理解」があなたの行く先を照らし出す「確かな灯火」となってくれるはずです。

いずれにせよ、私は闇雲に「戒律」を与える教え方というのは、個人的にあまり好きではありません。

なぜなら、それは当人を自由にするよりかは、むしろ余計に束縛する傾向が強いと、私には思われるからです。

また、盲目的な「戒律」の重視は、「戒律に従ってさえいれば大丈夫だ」という思考停止の温床ともなります。

なので私は、「人に教える時になるべく戒律を設けない」ということを、「基本的に従うべき戒律」として、内側に持っているわけなのです。

◎自分自身で確かめたことだけが、当人にとっての「灯火」になる

いかがでしたでしょうか?

私と違って、世の中の多くの宗教指導者たちは、とにかく「決まり事」を作ることが好きです。

たぶん、「他の宗派との差別化を図る」という目的もあるのではないかと思います。

また、支配欲の強い教祖の場合、「戒律」を厳しく守らせることによって、信者たちを自分に依存させようとしているのかもしれません。

つまり、「私の言うことにさえ従っていれば間違いはないのだ(だから、もっと金と敬意を寄越しなさい)」といった具合で、「戒律」を通じて信者たちに暗示をかけているわけですね。

ただまあ、そんな風に「いささか穿った考え方」をしてしまうのも、私自身が「戒律」というものが好きではないからなのかもしれません。

私は子どものころから、「こうしなさい!」と言われる度に「なんでだろう?」と疑問に思わずにはいられなかった人間なので、「とにかく飲み込め!」と言われると、拒絶反応を起こしてしまうのです。

ともあれ、私が伝えたいことはたった一つだけです。

もしも「理解」に至りたいのであれば、徹底的に自分の経験を観察してみてください。

ただ、私は決してそれを強制はしません。

実際、そもそも「観察すること」に意味を感じていない人は、私の言う方法を真剣に実践はしないでしょう。

そういう人に「観察」を無理強いしても、それは当人にとって「余計な束縛」を生み出すだけです。

なので、あくまで「観察」は推奨事項です。

私はただ、「もし『理解』に至りたいのであれば、観察することは大いに役に立つと思いますよ」と言うだけです。

ちなみに、詳しい観察の方法についてはたくさん記事を書いてますが、最近、初心者向けに観察のやり方について一つ記事を書いたので、共有しておこうと思います。

「自分の恐れ」を恐れない|「確認できること」と「確認できないこと」を区別する瞑想的観察法

いずれにせよ、私は「盲信するよりも自分で考えることに価値が在る」と考えている人間です。

なので、あなたにもできれば自分で考えてみてほしいです。

本当に私の言うように、外側から与えられた「戒律」を守ることに意味はないのか?

「理解」が起こった時に、人は自然と自律的になると言うけれど、それは確かなことなのか?

ぜひ、自分自身で確かめてみてほしいと思います。

ではでは。

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