私は「自由」についてよく書いていますが、それはあくまでも「内側の自由」についてです。
それは言い換えると、「心が自由である」ということです。
もしも「心が自由である」ならば、たとえ身体を縛られたとしても、当人はそれを束縛とは感じません。
当人は何が起ころうと、ただ「自分自身」であることの内に留まるでしょう。
つまり、もしも心が「自由」でありさえすれば、その「自由さ」は外側の条件に左右されなくなるのです。
しかし、だからといって「外側の自由」が必要ないとも私は思いません。
むしろ、探求において「外側の自由」は大いに役に立ちます。
実際、毎日朝早くから夜遅くまで重労働に従事していたら、探求どころではないでしょう。
きっと、日々の生活を送っていくだけで精いっぱいになってしまうはずです。
ということで、今回は「外側の自由」と「内側の自由」が探求においてどうかかわるのかを書いてみたいと思います。
「自由っていったい何なのだろう?」と思っている人は、ヒントが見つかるかもしれません。
では、行ってみましょう。
◎もしも「何もしないこと」の中に留まると、「内側の混沌」が口を開ける
まず、大前提の確認から。
そもそも私たちは誰しも、潜在的には「自由」を希求しています。
表面的にはそうでなかったとしても、深いところでは「自由」を求めていない人はいません。
なぜなら、もしも内側から束縛が無くなると、当人は「穏やかな解放感」を感じるようになるからです。
もし一切の束縛がなくなると、人はいつも「解放感」を感じて安らぎます。
「それ」は、私たちの心がもともと求めていたものなのです。
しかし、そのような「解放感」を感じるためには、当人は「内側の混沌」を通り抜けねばなりません。
「内側の混沌」とは何でしょうか?
それは、「本人の内側にもともと存在していたネガティブな思考と感情の一群」のことです。
たとえば、もしも私たちが何もしないで過ごしていると、内側からは様々なものが湧き出てきます。
ずっと昔の嫌な記憶が蘇ってきたり、将来の不安が襲い掛かってきたりします。
さらには、なぜか無性にイライラしてきたり、不意に悲しくなったりもします。
それらは、当人の内側にもともと存在していたものです。
それが、「何もしないこと」の中に留まっていたために、表に現れた来たのです。
世の中の多くの人は「自分の感情の原因は外側にある」と思っていますが、それは違います。
たとえば、他人から突然侮辱された時、多くの人はきっと「怒り」を感じるでしょう。
そして、「この人が侮辱してきたから、自分は怒りを感じたのだ」と考えるのです。
しかし、人によっては相手から何を言われても別に腹を立てなかったりします。
たとえば、「この人はどうしてこちらを侮辱するようなことを言ったのだろうな?」と考えて、相手のことを理解しようとするだけの人もいたりします。
また、生命力が涸渇していてそもそも怒るだけの気力がない人は、他人から侮辱されても「すみません…」と言ってうなだれて自分のことを責めるだけで、相手に対して「怒り」を感じたりはしないものです。
このように、「相手からの侮辱の言葉」という入力が同じであったとしても、それに対してどういう「反応」を出力するかは人によります。
この「入力」と「出力」の間に存在しているフィルターこそが、私たち自身の「自我」に当たります。
「侮辱の言葉」という入力が「自我」の中を通り抜ける時、私たちは無意識に様々な解釈をします。
「この言葉は自分に対する侮辱だ」
「いや、自分はそんなことを言われるような人間ではない」
「この人間の言っていることは不当な暴言だ」
「絶対にこれを許すことはできない」
そんな風に、私たちの「自我」は瞬間的に入力された情報に解釈を加えます。
もしもこれが、「この言葉は自分を侮辱する意図で発されたらしい」というところまでなら、まだ「事実認識」の範囲でしょう。
しかし、「それは不当だ」「これは暴言だ」「絶対に許せない」というのは、「事実」を踏み超えた「個人的な解釈」であり、この「自我による解釈」の違いによって、出力される「心の反応」が違ってくるわけです。
結果的に、人によっては「怒り」という感情が出力されてくることもあります。
そして、当人は「自分を怒らせた相手が悪い」と考えるのです。
しかし、先ほども言いましたように、同じ言葉を浴びせられても、「怒らない人」は怒りません。
そういう意味で、「怒り」という感情を生み出しているのは、あくまでも「当人の自我」におこなう解釈なのです。
◎「内側の混沌」から逃げるために、人々は「社会的な束縛」を求め始める
私たちの内側には、こんな具合に様々な「感情の種」が埋め込まれています。
それらは、「外側の世界」をきっかけにして表に現れてきます。
しかし、「外側の世界」が完全に取り除かれても、「種」自体がなくなるわけではありません。
そのため、仕事のない休日などに、家で何もしないで一人で過ごしていたりすると、当人は苦しみ始めます。
なぜなら、何もしないでいることによって、内側に存在する「感情の種」が徐々に芽を吹き始めるからです。
多くの人たちが、休日に何もしないでいることができないのはこのためです。
人々は、「自分の内側に埋まっている感情」と直面することを避けようとします。
というのも、自分がどれだけたくさん「憎悪の種」を抱えているか、多くの人は知りたくないからです。
人によっては「嫉妬の種」を抱えているかもしれませんし、「自己嫌悪の種」を抱えている人も多いでしょう。
多くの人は、こういったものとできれば直面したくないのです。
しかし、もしも何もしないでジッとしていると、こういった「種」が一斉に芽を出し始めます。
そうして当人は、自分の内側に存在していた「混沌」によって飲み込まれていき、一人きりで深く苦悩することになるのです。
ですが、当人はそれを他人のせいにすることができません。
たとえば、外側の他人に実際に侮辱されたのであれば、「あいつのせいだ」という言い訳が使えます。
しかし、何もしないでいて「怒り」を感じ始めた場合、その原因を外側に見出すことは難しいものです。
当人はきっと「こんなのはたまたまだ」とか、「最近忙しかったせいだろう」とか考えるでしょうけれど、本当の理由は違います。
私たちの内側には「抑圧された感情」が無数に埋まっており、それらの感情は私たちに見てもらう機会をうかがっています。
だから、仕事や娯楽で自分の気を逸らすことをせず、何もしないことの内に留まっていると、「抑圧していた感情」が「自分を見て!」と言って出てくるのです。
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「怒り」は探求のための燃料になる|「怒り」を罪悪視せず、「自己理解の力」へと変える方法論
多くの人は、自分の内側に「混沌」が存在していることについて、うすうす気づいているものです。
そして、もしも何もしないでいると、「それ」が火を噴くことを経験的に知っています。
だから、少なくはない人々が、社会に対して「どうか自分を束縛してほしい」と要請するのです。
実際、世の中のほとんどの人たちは「どうぞご自由にお過ごしください」と言われると困ってしまいます。
社会から「ご自由に」と言われても、多くの人は何をしたらいいのかがわからないのです。
しかし、だからといって何もしないでいると、「内側の混沌」が口を開け、当人を苦しめることになります。
それゆえ、「自分に『するべきこと』を指示してほしい」「自分に『やるべきこと』を与えてほしい」と、人々は社会に向かって懇願するのです。
そうして、人によっては仕事中毒になっていきます。
なぜなら、仕事に没頭している間は、「自分は意味のある事をしている」と当人は思うことができますし、「内側の混沌」を直視することも避けられるからです。
また、他のある人は、パッケージされた「出来合いの娯楽」で時間を潰したりもします。
「やるべきこと」がきっちり決められていて、「自分が何をするべきか」について迷う必要のない娯楽をルーティンのように消費することで、当人は「内側の混沌」から逃げようとします。
もしその娯楽に飽きた場合、当人はまた別な娯楽を見つけて同じことを繰り返し続けるでしょう。
主観的には、「こんなことを続けても虚しいだけだ」とわかっていながら、当人はそれをやめることができません。
なぜなら、娯楽に頼らず「自由な時間」を過ごすことが、その人にはどうしてもできないからです。
それゆえ、多くの人々が自分から進んで「自由」を放棄していきます。
何かしらの「権威」や「システム」に自分のほうから服従して、とにかく「自分自身の時間」から逃げ出そうとするのです。
社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、この問題について『自由からの闘争』という本を一冊使って論じています。
実際これは、現代人の多くが抱えている社会心理学的な問題です。
私たち現代人は、口では「自由が欲しい」と言いながらも、実際に「それなら自由にしていいですよ」と言われると困惑してしまいます。
多くの人は、「え、そんなこと言われても、どうしたらいいかわからないぞ…」と不安になってきてしまい、「自由」を享受することができません。
それゆえ、最終的に当人は「もういっそ自分のことを『決まったプログラム』で縛ってくれ!」と言い出すわけです。
◎「内側の自由」に至るまでのフローチャート
問題を一度整理しましょう。
まず、私たちの内側には「混沌」が存在しています。
そこには無数の感情が抑圧されて眠っており、何もしないでいると噴き出してきます。
それゆえ、私たちは「自由に過ごす」ということを恐れます。
「自分の責任で何をしてもいいし、何もしなくてもいい」という状態は、多くの人にとってむしろ「苦痛な重荷」となってしまうのです。
それゆえ、現代人は自分から進んで「支配されること」を求めるようになります。
誰かに一方的に管理されることを欲し、「自分自身の主体性」を自ら放棄するわけです。
しかし、もしも「内側の混沌」を直視するなら、それは徐々に溶けて消えていきます。
つまり、抑圧されていた感情を一つ一つ拾い上げ、それぞれに光を当てて、じっくり観察していくわけです。
すると、丁寧に見てもらえた感情たちは、満足して成仏していきます。
もちろんそれは「苦しい作業」なのですが、これを続けていくことで、「内側の混沌」は少しずつ沈静化していくのです。
もしも内側に眠っていた全ての感情を成仏させることができたなら、そこには「解放感」が広がっています。
それがインド哲学で「アーナンダ(至福)」と言われているものです。
当人の内側にはもう「苦しみ」を生み出す「種」が存在しません。
なぜなら、既に全ての「種」を観察し尽くして、それらを成仏させてしまったからです。
すると、ここに至ってようやく「内側の自由」が成就することになります。
当人の「心」はもはや束縛されることはなく、その「解放感」は外側の条件に依存しなくなります。
たとえ身体が縛られても、それはもう当人にとって束縛とならず、社会的に抑圧されても、当人はそれを意に介さなくなるのです。
ここには「自由」というものの階層構造があります。
わかりやすくするために、フローチャートにして示してみましょう。

これで、問題の核心が見えてきたのではないかと思います。
問題は、「外側の束縛」ではないのです。
本当の問題の核心は、私たち自身が「自分の内側を直視すること」から逃げ出してしまうことなのです。
「内側を直視すること」を避けようとする限り、当人はいつまでも苦しみ続けます。
当人はきっと「外側の束縛」によって苦しみ、「自由になりたい」と願うでしょう。
しかし、実際に「じゃあ、自由にしていいですよ」と言われると、当人は困ってしまいます。
なぜなら、せっかく「外側の自由」が実現しても、当人は「内側」においてまだ束縛されているからです。
「内側」に束縛が残っていると、それは「混沌」となって当人に襲い掛かってきます。
そこから目を逸らそうとして、人によっては、せっかくの休日を「出来合いのレジャー」で埋めようとするかもしれません。
ですが、それもまた「内側の混沌」から微妙な仕方で逃避することに他なりません。
もちろん、趣味を持っている人はそれを思いきり楽しむでしょう。
しかし、ひとしきり楽しんで区切りがついたり、趣味に突然飽きてしまったりした場合には、「これからいったい何をしたらいいのか」が、当人にはわからなくなってしまいます。
すると、そのまま何もしないでいるうちに、「内側の混沌」が当人へと徐々に這い寄ってきます。
結局、「起きている間中、絶えず何かをして気を紛らわせ続けること」ができないならば、遅かれ早かれ「内側の混沌」とは向き合わないといけないのです。
しかし、それが恐ろしいものだから、誰もが「外側の権威やシステム」に束縛されることを願うようになっていきます。
つまり、自分から主体性を捨てて「するべきこと」を他人に与えてもらうことによって、「内側の混沌」という「自由の入り口」から急いで逃げ出そうとするわけです。
◎外側の自由と不自由を行き来する「円環」から抜け出すために
もしも「内側の混沌」から逃げ出さず、それをそのまま受け入れるなら、それは「内側の自由」に続く道の入り口となります。
実際、「混沌の浄化」を通して当人の束縛は破壊され、「内側の自由」は実現するはずです。
しかし、ほとんどの人はそのプロセスを避けようとします。
なぜなら、多くの人は、「内側に抑圧された感情」と直面したくなんてないからです。
このため、世の中のほとんど人たちは「内側を直視すること」を避けることで、「外側の束縛に苦しむこと」と「外側の自由に困惑すること」との間をいつまでも往復し続けることになってしまいます。
「生活が窮屈すぎる!自由をくれ!」と言いながら、実際に「ではご自由にどうぞ」と言われると、「やっぱり自由なんて要らない!」と言って逃げ出すことで、当人は「振出し」に戻ります。
そしてまたしばらくすると、「やっぱり今のままだと窮屈すぎる!お願いだから自由にしてくれ!」と懇願するのです。
そこには「出口」というものがありません。
それは、「まったく同じ場所を行って帰ること」の繰り返しです。
もしこのような「円環」から抜け出そうと思ったら、思い切って「内側の混沌」を直視して、それを溶かし切るしかありません。
なお、「内側に存在する苦しみ」を溶かす具体的な方法については、以下の連載記事を参考にしてください。
【関連記事】
【第5回】「苦しみ」を味わうための具体的な方法について
このように、「内側の自由」は「内側の混沌」と思い切って直面することで成就します。
そして、腰を据えて「内側の混沌」を見つめるためにも、「外側の自由」はぜひとも必要なものと言えるでしょう。
実際、もしも毎日働きづめに働いていたら、落ち着いて「内側」と向き合うことは難しくなります。
そういう意味で、「外側の自由」は大いに探求の役に立つわけです。
しかし、もしも「内側」と向き合うことを避けるようであれば、せっかく与えられた「外側の自由」は、むしろ当人にとって牢獄と化してしまいます。
逆説的ですが、この時に当人の主観では、「自由の中に閉じ込められている」と感じられます。
その時、当人は何でもしていいはずなのに、あたかも束縛されているように感じます。
自分が本当は何をしたいのかわからず、何をするのが「正解」なのかも知らず、忍び寄る「混沌」の気配に怯えながら、当人は「与えられた自由」を持て余してしまうわけなのです。
このような八方塞がりの状況を突き抜けていくためには、思い切って「内側の混沌」と向き合うしかありません。
大丈夫です。
どんな「苦しみ」もいつかは終わります。
時間をかけて向き合い続けるならば、「苦しみ」は溶けて消えるでしょう。
その時、当人は初めて本当の意味で「自由」になります。
実際、「内側の自由」だけが破壊されることのないものです。
もしも当人の心が「自由」なら、もう誰にもその人を束縛することはできません。
なぜなら、他人に縛ることができるのは、しょせんその人の身体だけだからです。
「内側の自由」を知っている人は、「たとえ身体が縛られても自分の『自由』は損なわれない」ということを知っています。
当人はたとえ牢屋に入れられたとしても、あいかわらず「解放感」と共に在ることでしょう。
逆に、内側が「不自由」である人は、どんな豪邸であっても、それを自分を捕える牢屋に変えてしまいます。
なぜなら、「世界の在り様」を決めているのは、「その人の心の在り様」だからです。
それゆえ、「心が自由である人」は、たとえ世界がどうなったとしても「自由」で在り続けることができます。
そしてそれこそが、「内側が自由である」ということなのです。
あなたの心はどこまで「自由」を感じていますか?
もしも内側に「混沌」が待ち受けていても、それと直面する覚悟があるでしょうか?
あなたの勇気は、実のところ、「外側の権力」と戦う時に試されるわけではありません。
あなたが真に闘うべき相手は、あなた自身の「内側」にいます。
しかし、もしもあなたが「内側の苦しみ」を溶かし切ったなら、その時、もはやあなたを縛れるものは存在しなくなるでしょう。
なぜなら、あなたの「自由」があまりにも大きくなり過ぎて、誰にもあなたの「心」を捕まえることができなくなってしまうからです。

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