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【メルマガの記事紹介】『いつの日か、世界は必ず変わる』

今日は、メルマガの内容を少しご紹介しようと思います。

私は現在、月会費500円のメルマガを毎日投稿しているのですが、全ての記事が会員限定になっているので、会費を払っていない人は、一切見ることができません。

でも、時にはブログでも紹介したいような内容を書くことがあります。

今朝書いたメルマガはそういうもののうちの一つです。

そこで、「メルマガでいつもどんな感じのことを書いているのか」というサンプルを提示するのと同時に、私から伝えたいことをメルマガだけでなくブログでも共有するために、今回の記事では、今朝書いたメルマガの内容を公開しようと思います。

これを読んで興味の出た方は、ぜひメルマガの登録も検討してみてください(ちなみに、いつ登録しても、過去に投稿した記事は全て閲覧可能です)。

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いつの日か、世界は必ず変わる

メルマガ更新の時間がやってきました。

活動のペースを落としたことで、昨日もだいぶゆとりをもって過ごすことができたように感じます。

昨日は、うちのチャンネルのアイドル的リスナーである「にしと君」のライブ配信を見に行ったり、昼に雑談の一人稽古ライブをしたりもできましたし、たっぷりお昼寝をして、睡眠時間も確保できたと思います。

私は基本的に夜に4時間くらいしか寝ないので、足りない分は昼寝で補っているのですよね。

深夜の2時から明け方の5時くらいにかけては、私にとってゴールデンタイムなので、夜の睡眠はそこそこにして、この時間帯に集中して、やることをやっておきたいのです。

昨日も、夜が明けるまでの間に、メルマガを書いて、講話を撮って、ショート動画の作成をしました。

それで、5時半からの瞑想配信を終えて、朝の講話動画がアップされた告知をSNSで貼ると、ひと段落という感じです。

そういえば、朝の瞑想配信には、毎回必ず来られる方がいて、どうも今のところ、皆勤しているっぽいんですよね。

その方は、もともとこの朝の時間に起きていることが多かったそうなので、生活の中に取り込みやすかったみたいです。

そういえば、昨日の昼におこなった雑談配信には、夜の配信以上の人が集まりまして、大変盛況でした。

質問のチャットも飛び交いまして、人生についてや探求について、かなり突っ込んだ問いが出され、気づいたら私は1時間以上にわたって喋り続けていたのです。

ひょっとすると、夜のライブ配信よりも内容が濃かったかもしれないのですが、「昼の一人稽古ライブはアーカイブを残さない」という風に決めていたので、そのまま消してしまいました。

でも、そのまま残してもよかったかもしれないですね。

なかなか良い質問が出ていたので、消さずに残しておいたら、役に立つ人がいたかもしれません。

なので、今度からは、昼の一人稽古配信も「内容によっては消さずに残す」という方針にしようかと思います。

いつも夜にやっているライブ配信も、けっこう後でアーカイブを見る人が多いみたいで、再生数が回っているんですよね。

いつもいつもリアタイできる人ばかりではありませんし、誰かの役に立ちそうなことが言えた時は、一人稽古配信もアーカイブ化していくほうが、のちのちの視聴者にとって、利益になるかもしれません。

それと、面接を受けていたバイト先からは採用の連絡が来まして、今日の昼過ぎに雇用契約を結びに行くことになっています。

ついに、「労働者」としての再スタートです。
日本国民らしく、「勤労の義務」を果たそうと思います。

なんてことは特に考えていなくて、とりあえずの生活費を確保するための労働です。

でも、せっかく働くのですから、何かしら人々の役には立ちたいところですね。

もちろん、職場の人たちに対して「私自身の活動を広めよう」とまでは思いませんが、私の在り方や存在そのもので影響を与えられる範囲で、同僚や上司の人たちにも「自由な呼吸」を伝えていきたいところです。

まぁ、そんなことをしても、まだ受け取る用意ができていない人は何も受け取ることがありませんし、従業員が「自由とは何か」ということをもしも実感してしまうと、「一般的な意味での秩序」は成り立たなくなってしまうので、企業としてはかえって迷惑かもしれません。

そもそも、「真の意味で自由を理解した人同士が共生し、協働する」という場合には、「画一的なルール」や「世間の常識」で縛るのではなくて、「各自の自律的な心」と、「ケースバイケースの即興的な対応」が大事になります。

それがうまく噛みあった例が、インドのOSHOオショーコミューンだったのだろうと私は思っています。

OSHOのコミューンでは、弟子たちが自律的に助け合いながら共同生活をおこなっていて、OSHOのほうから特に「こうしなさい」というような画一的なルールは課していなかったようです。

むしろ、「自分自身の生をトータルに生きるために必要なことは何でもやりなさい」と奨励されていたみたいです。

それゆえ、コミューンの中では、ありとあらゆる瞑想技法が実践されていて、世界各地から持ち寄られたボディーワークや治療法、自然農法や占星術などが、弟子同士の間で、教えたり教わったりという形で共有されていたと聞いています。

そんな形で何百人もの人々が共に暮らしていたにも関わらず、共同体が空中分解することはなく、OSHOという「核」を彼に死によって失った今も、インドのプネーではOSHOメディテーションリゾートという形で、残っているようです。

私はいつも「全ての人に自由になってほしい」と言っていますが、それが本当に実現するためには、こういった「自律的な共同体」の存在が不可欠だと思っています。

現行の社会制度のまま、個々の構成員だけが「自由」になっても、たぶんそれらの人々が結びつくことはできず、社会によって一人ずつ押しつぶされてしまうでしょう。

ルールによって縛られることのない、自律的な人々による自発的な共同生活の場。

そこにおいて初めて、私たちは「自由」を保持したまま、共に生きていくことが可能なのです。

このことに関連して、ちょうど昨日、「にしと君」の配信では「学級崩壊」について扱っていました。

私自身も、小学生の時に一度、学級崩壊を経験したことがあります。

私が小学五年生の時の担任の先生は、生徒の自主性を重んじて、一人一人の生徒と正面から向き合う人でした。

それゆえ、その先生は生徒からの信頼も厚く、私のクラスの子供たちは、他のクラスの模範として参考にされるほど、みんな自分から率先して掃除をしたり勉強をしたりしていて、授業中も決して軽はずみに騒ぐことはなかったのです。

それでいて、子供たちは「我慢してやっている」という意識を持っていませんでした。

つまり、あくまで中心にいる教師に対する敬意と思慕の念から、子供たちは自主的・自律的に模範的な生徒として、クラスを運営していたのです。

しかし、私が六年生に上がる時、その担任の先生は他の学校へ赴任していってしまいました。

すると、次の先生が来た途端、私のクラスは機能不全に陥ってしまったのです。

五年生から六年生に上がったとき、クラス替えはおこなわれていませんでしたから、クラスを構成していた子供たちの顔触れは全く同じままです。

にもかかわらず、かつて「他のクラスの模範」として尊敬されていたのと同じ子供たちが、一斉にクラスの秩序を乱し始めたのです。

新しく担任になった先生は、以前の教師ほど子供たちから受け入れられませんでした。

その人は、何とかして子供たちをまとめようと必死になっていたのですが、求心力が足りず、クラスは空中分解してしまったのです。

生徒たちは教師を軽んじるようになり、「自主的・自律的なおこない」をしなくなっていきました。

それどころか、授業中もまじめに話を聴こうとはしなくなり、学級崩壊を起こしてしまったのです。

これは、もともとそのクラスの秩序というものが、私が五年生の時に担任だった教師の「個人的な資質」に依存し過ぎていたために起こった現象です。

子供たち自身の中に「十分な自主自律の精神」がまだ根付いておらず、トップの教師が変わったら、クラスの秩序はあっさり崩壊してしまったわけです。

でも、こういったことは、子供だけに限った話でもないでしょう。

大人の世界でも、人は簡単に周囲に流されてしまいます。

ある人の元では統率が取れていた集団が、指導者が変わった瞬間に崩壊してしまうのなんて「よくあること」です。

たとえば、仏教の開祖であるゴータマが死んだ後も、集団は分裂し、やがては宗派ごとに対立するようになっていきました。

指導者だけが優れていても、一人一人の中に「自主自律の精神」がなければ、「秩序ある共生」は実現することができないのです。

そういったことが起こるのは、集団の構成員それぞれの中で、「自由」が十分に根付いていないからです。

「他の人が何と言おうと自分はこれをする」という自分軸をしっかり持ったうえで、同時に「自分の自由と同じだけ他人の自由も尊重する」という心が、一人一人の中に根付いていないと、人は簡単に「集団全体の雰囲気」に流されてしまいます。

「優れた指導者」が上にいるうちは、その人が醸し出す雰囲気に流されて、指導者が変わって求心力が失われれば、みんな「自分」を失って暴走してしまう。

今の世界がそういうような状況だからこそ、社会生活を維持するために、法律や規則や道徳といった「画一的なルール」が必要になってもくるわけです。

私は「ルール」とか「決まり事」とかいったものは嫌いですが、現在の日本社会において、「ルール」や「決まり事」は必須です。

なぜなら、今の日本社会にはまだ、「自分や他人を損なうこと」をして平気でいる人がたくさんいますし、「周囲の雰囲気」に簡単に流されてしまう人たちが、日本人の大部分を占めているからです。

徹底した自己観察によって、「何が自分や他人を損なうことであるか」を自覚してこれを自然としなくなった人だけが、本当の意味での「自主自律」を体現できます。

そういう人には、外側から「ルール」を課す必要がありません。

なぜなら、そのような人は、「殺人も強盗も盗みも詐欺も、自分や他人を損なうだけで何の益もない行為である」ということが、自分で既にわかっているからです。

そういう人は、別に外からそれを禁止しなくても、わざわざ「罪」を犯すことはありません。

「そんなことをしても何の利益にもならない」ということが、その人には深くわかっているがゆえに、法律も規則も道徳も、最初から不要になってしまうわけです。

逆に、自己観察がまだ不十分で、「殺人や強盗や盗みや詐欺に益がある」と思っている人だけが、「罪」を犯します。

「そんなことをしても最終的に自分を損なうだけだ」ということがわからないから、人は「罪人」になるのです。

なので、全ての人々がもっと瞑想的になり、本当の意味で「自主自律の精神」を持ったとき、社会には「画一的なルール」が不要になります。

その時、人々は「外側のルール」に従うのではなく、「内側の規律」によって自分を律し、「自分と他人を損なうことのない自由」を最大限に尊重して共生するようになるでしょう。

私の理想はそういう世界です。

まぁ、現状の人類を見る限り、そんな世界は当分やってこないでしょう。

少なくとも、私が生きている間には無理です。

でも、いつかずっと遠い未来において、そんな世界が来ることを私自身は願っています。

全ての人々が瞑想的な意識を持ち、誰かや何かに寄りかかることなく「自分自身」を生き、同時に、「他人の自由」を尊重しながら助け合う世界。

それは、いつかきっと実現可能だと信じているのです。

私が今していることは、そんな「はるか遠い未来」に向けて、「自宅の庭に種を蒔く」ような地道な作業です。

もちろん、そんなことをしても「焼け石に水」でしょうし、世界はほとんど何も変わらないでしょう。

でも、私の生き方に触れた人がたった一人でも「自立」するなら、それはきっとこの世界に何かしらの波紋を広げるはずです。

私の生き方、私の願い、そういったものが他人に少しずつ伝わっていき、世界全体に同意されるようになった時、この世界から「争い」と「分断」はなくなるはずです。

その時、人々は「全員が個性を持った違う人間である」ということを受け入れながら、「それでも私たちはみんな同胞である」という意識のもとに生きるはずです。

繰り返しますが、そんな世界は私が生きている間には実現しません。

でも、だからと言って、「今日の私が自分の家の庭に種を蒔くこと」が全くの無意味であるということにもなりません。

たまたま私の家の前を通りかかった人が、私の家の庭で取れた「作物」を受け取ってくれて、そこから何かを感じて変わっていけば、いつか世界は変わります。

数千年後か数万年後かわかりませんが、いつか世界は変わります。

私は「いつか来るであろうその日」のために、今日も、目の前の一人一人と向き合うのです。

最後に、整体創始者である野口晴哉の言葉を引用して終わります。

【一人一人の覚悟】

世界が広くとも、
一人一人の覚悟がきまれば、
そのようになる。
今、実現しなくとも、
いつかは必ずそうなる。

(野口晴哉、『風声明語』、全生社)

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