ついさっき、ライブ配信中に中学生の男の子がチャットをしてくれて、30分くらいその子と一対一で話をしていたのですが、なんだか「久しぶりに会った友達」みたいなノリでやり取りをしていました。
その様子についてはこちらから。
完全に初対面だったのですが、不思議とそんな気がしなくて、楽しく話をすることができました。
それで、不意に昔読んだ本に書いてあった瞑想技法のことを思い出したんです。
その本はもう手放してしまったので、正確な文言は確認できないのですが、それはだいたいこんな経文でした。
親しい友人に対して見知らぬ人のように
見知らぬ人に対して親しい友人のように
同じならずして同じで在れ
この経文では、「親しい友人に対して見知らぬ人のように接しろ」と言います。
これは、想像してみればわかるかもしれません。
例えば、私たちは長く一緒にいる人のことは、「もうよく知っている」と思い込む傾向があります。
それゆえ、毎日顔を合わせている家族やパートナーのことを、ほとんどの人は「既に知っている」と思っており、丁寧に相手を観察しなくなるわけです。
でも、実際には誰もが毎日違う人間です。
なぜなら、たとえ同じ人であっても、昨日と同じ状態であるとは限らないからです。
だから、もしも丁寧に観察するなら、「見知った友人」の中にも、「新しい側面」が見えてくることがあります。
それは、「この人って、実はこんな人だったんだ!」と驚きを新たにする体験です。
そして、このことが理解できるようになると、「親しい友人」を「見知らぬ人」のように見るということができるようになります。
実際、たとえ何十年も一緒に暮らしていたとしても、誰もが「見知らぬ他人」です。
そもそも他者とは「決して解けない謎」であるため、相手を丁寧に観察すればするほど、
「まだ十分に理解できない」という感覚はむしろ強まるものなのです。
私自身も、メールで読者とやり取りを重ねていくと、やり取りを重ねれば重ねるほど、ますます相手が謎めいてくることがあります。
だから私は、新しいメールを受け取る度に、あたかも「新しい人」と出会うような気持ちで向き合い、その瞬間に溢れてくる言葉を紡いでいるのです。
そして、このことが理解できるようになると、経文の次の部分も理解できるようになっていきます。
それはつまり、「見知らぬ人に対して親しい友人のようで在れ」という部分です。
おそらく、いきなりこっちを試すと失敗します。
「見知らぬ人」に対して無理に「親しい友人」のように接しようとしても、きっとよそよそしくなってしまうでしょう。
「見知らぬ人」に対して「親しい友人」のように接するためには、
まず「他者とは一個の謎である」ということへの深い確信が必要です。
つまり、「相手の存在への畏怖と尊重の念」がないといけないのです。
「この人のことはもうわかった」と思い込んで片付けることなく、
常に、「この人のことがまだわからない」という「無知の感覚」の中に留まること。
それによってその人の「覚醒」は深まっていきます。
「未知」に向かって開かれていき、「注意深さ」が育つことで、「丁寧な観察」が可能となるのです。
そして、もしも丁寧に観察するなら、「見知らぬ人」の中に「親しい友人」が少しずつ見えるようになっていきます。
そこにいるのは「見知らぬ他人」であるにもかかわらず、その「謎」を深くまで直視していくと、自分と相手をつなぐ「共通の基盤」が見えてくるのです。
それは、私たちがお互いに「自分自身」を生きている「孤独な存在」であるということへの気づきです。
私が「自分」を生きているように、相手もまた「自分自身」を生きています。
誰もが内に苦しみを抱え、不平等な人生の中でもがきながら、自由で在ろうとして泳ぎ続ける一人の人間であるということ。
そこにこそ、私たちにとっての「共通の基盤」があります。
そして、「それ」が見えるようになると、「見知らぬ他人」が「親しい友人」のように見え始めるのです。
その時、「見知らぬ他人」と「親しい友人」の間には違いがなくなります。
そもそも、「見知らぬ他人」も「親しい友人」も、共に「解けない謎」でありながら、「孤独な存在者」であるという意味では「共通の基盤」を分かち合っています。
それゆえ、「親しい友人」に対しては「見知らぬ人」のように接し、「見知らぬ人」に対しては「親しい友人」のように接することができるようになっていくわけです。
これが「同じならずして同じで在れ」という経文の意味です。
「親しい友人」だから親しくするのではなく、「共通の基盤」を持っているからこそ、親しくするのです。
「相手もまた、孤独な人生を生きているのだ」ということへの信頼があるからこそ、「親しい友人」に対しても、「わかったつもり」になることなく向き合えます。
あたかも「見知らぬ人」と向き合うように、「親しい友人」と向き合えるわけです。
そうしてまた、「見知らぬ人」に対しても、「この人のことがわからない」というところを出発点にしつつ、「それでもこの人は自分の同胞なのだ」と深く信頼することができます。
なぜならその時当人は「それでも私たちは同じ孤独を生きているのだ」と内側で感じているからです。
これによって、「親しい友人」に接する時の在り方と、「見知らぬ人」に接する時の在り方に違いがなくなっていきます。
つまり、誰と向き合う時も「自然体」でいられるようになるのです。
「同じならずして同じで在れ」
それは、瞑想の深まりの中で実現する「自然体」です。
そして、たとえ相手が誰であれ、相手は常に「謎」であると同時に「同胞」なのです。
私たちは誰もが「一個の謎」であり、それでありながら「同胞」です。
そしてその意識が、私たちそれぞれの「個性」を尊重しながら、同時にお互いを深く結びつける、「孤独」という引力を発生させることになるのです。

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