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「善」と「悪」の鎖を断ち切る方法|「無分別」に至るために「事実」に留まることの意味

◎「わかった気」になりたがる私たち今回の記事では「分別(ふんべつ)」という言葉について考えてみたいと思います。「分別」というのは、もともとは仏教の言葉で、物事を二元的に分割して考えることを意味します。たとえば、「善」と「悪」、「自分」と「他...
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【瞑想の実践における壁】思考や「自我」を切り分ける、「識別(ヴィヴェーカ)」の段階的成長

探求の世界に「識別(ヴィヴェーカ)」という言葉があります。いったい何を「識別」するのかというと、「意識」と「意識でないもの」とを切り分けます。なお、「意識」については、以下の記事が参考になります。【第7回】世界はなぜ「この自分」からしか見え...
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【筆者の失敗談】探求で出会う「よくある罠」|「霊的な覚醒」は悟りに必要なのか?

あなたは「霊的な力」の向上に興味がありますか?たとえば、予知やテレパシー、波動や氣を操ったりするような能力です。真理を探求をしている人の中には、ひょっとすると「霊的な能力をひたすら高めていけば、その先に悟りがあるのではないか?」と思っている...
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「無執着」は実践できない|「カルマ」が浄化される時と、「カルマ」が積み増しされる時

◎「無執着」は「至福へ至るための手段」ではなく、「至福の定義」そのものである「真理の探求」についての連載が終わって一発目の記事ということで、今回は「執着」について掘り下げていこうと思います。「執着」については、連載の中でも何度か言及したこと...
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【あとがき】「わかる」は楽しいが、「わかったつもり」では人はなかなか変われない

ずっと書いてきた連載が、ようやく完結しました。連載目次文字数を集計してみたら、全部で13万文字弱もありました。全部読んでくださった方は、本当にお疲れさまでした。◎「わかる」ということそれ自体が持っている楽しさ今回は、連載もやっと終わったとい...
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【最終回】「世界の実在性」が崩壊する時|「世界」という最後の束縛からの自由について

前回の記事では、「チット(意識)」と「アーナンダ(純粋な喜び)」の関連性について書きました。【第13回】どちらか一つの理解では足りない|「意識」と「純粋な喜び」の関連性について「真理」を探求していくと、人は「チット」か「アーナンダ」のどちら...
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【第13回】どちらか一つの理解では足りない|「意識」と「純粋な喜び」の関連性について

これまでの記事によって、私は「意識」と「純粋な喜び」について理解する道筋を示してきました。連載の構成としては、第一部が導入として機能しており、「純粋な喜び」を第二部で扱い、「意識」については第三部で扱いました。全体の構成を示す連載目次ただ、...
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【第12回】「瞑想」の第四段階《理論と実践》|「自我」は「虚構」に過ぎないと理解する

前回の記事では、「瞑想的な日常生活」を実践することで、「非常に大きな気づき」が起こるという話をしました。その「気づき」とは、「『自我』と『自分』とは別のものである」という気づきです。【第11回】「瞑想」の第三段階《理論と実践》|「自分は観察...
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【第11回】「瞑想」の第三段階《理論と実践》|「自分は観察者だ」という錯覚に気づく方法

「第10回」と「第10.5回」の記事で、瞑想の第二段階である「集中しない瞑想」について解説し、それとの関連で、前回は「退屈」についての「特別記事」を投稿しました。【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意...
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【特別記事】「退屈」とは何か?|「何もしないこと」の中に留まったほうがいい理由

前回と前々回とで、私は瞑想の実践における第二段階について説明しました。【第10回】「瞑想」の第二段階《理論編》|二種類の「サマーディ」を知ることの意味について【第10.5回】「瞑想」の第二段階《実践編》|「無意識の力」を伸ばす「集中しない瞑...