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エッセイ

瞑想とは、自己を「寺院」とした「祈り」である|「存在」によって生かされる時、人は「自身の天命」を知る

最近は言わなくなっていましたが、私は一時期、「瞑想」のことを「祈り」と表現していたことがありました。もともと、この表現は、カビールという北インドの神秘家から借りていたものです。カビールは「織工しょっこう」という職業の人で、いわゆる機織はたお...
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エッセイ

「覚者」とは「何も書かれていない本」である|「自由」だけが、「全ての覚者」の共通点

あなたは「悟った人」というのは、どういう人のことだと思いますか?「悟った人」のことを、「覚者かくしゃ」と言ったりもしますが、実のところ、「覚者の定義」は人の数だけあります。実際、「極めて高潔な人格を持った人こそが覚者だ」と思っている人もいれ...
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ブログ記事

【個人的な報告】「新しい読者層」の流入を促すために、「にほんブログ村」に登録しました

つい先ほど、Xのアカウントのほうで、「にほんブログ村」について投稿をしているアカウントからフォローされました。どうもそのアカウントは他人の書いたブログ記事を紹介して回っているようでしたが、私の投稿もリポストしてくれていたので、感謝です。ただ...
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ブログ記事

「新作」の進捗報告と、「既刊書」について整理など|どうかマイペースに読んでください

現在校正作業中の「心を生きる幸福論(仮題)」の校正が、残り1/3くらいになりました。たぶん今日か明日には校正を最後まで終わらせて、Amazonに入稿できると思います。今回は執筆にだいぶ時間がかかりましたが、それでもまだ書き始めてから十日経っ...
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ブログ記事

【補足記事】「無努力の受動的な覚醒」を培うスモールステップのご紹介

ひとつ前の記事で、「探求の後半戦」において「無努力を育てる」という方向性を書いたのですが、実践する上で指針となるような、「もう少し具体的なこと」についても付け加えて書いておこうと思います。なお、元記事はこちら。【元記事】探求の後半戦における...
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ブログ記事

探求の後半戦における「無努力の実践」について|人は恐れゆえに「努力」にしがみつく

私はよく、「探求の前半戦」とか「探求の後半戦」とかいった言い方をします。「前半戦」と「後半戦」の境目は、禅宗で言うところの「見性けんしょう」を得ることです。これは言い換えれば、「自我」の向こう側にいる「本当の自分」を初めて自覚することと言え...
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ブログ記事

「中道」は「自分のしていること」にうんざりした時、自然と起こる

以前、「父性原理」と「母性原理」について記事を書いたことがあるのですが、このことについて、再度、もう少し具体的に考えてみたいと思います。ちなみに、前に書いた記事はこちらです。【関連記事】「内なる父」と「内なる母」が一つになる時、人は本当の意...
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エッセイ

私が「ルール」を作らない3つの理由|人は「教え」からではなく「自分の経験」から学ぶ

私は「こういう時はこうするように」とか、「この場合はこうしないといけない」とかいった形で、「規則」や「戒律」みたいなものはなるべく書かないようにしています。そこには主に以下の三つの理由があります。そもそも私に「人を言う通りにさせたい」という...
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エッセイ

かつて、「ダンスの師」の背中から学んだこと

ついさっき、フェイスブックを見ていたら、高校時代のブレイクダンスの恩師のアカウントを見つけました。吉川太ふとしさんという方なのですが、彼は自身の師から「胴体力」という、少林寺拳法とヨーガをミックスして作られた技法を受け継ぎ、これを若者たちに...
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エッセイ

「心」のままに遊ぶように言葉を紡ぐ|「正しいことを書く人」と「感じたことを書く人」の違い

さっき投稿した日記の中で、「みんなもっと内面をさらけ出せばいいのに」と書いていたのですが、考えてみれば、そもそも世の中の多くの人は、私のように自分の思考や感覚をスムーズに言語化することができないのかもしれません。ついさっき、考えを整理するた...
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